電通を創った男たち #27

戦後日本にPRを本格導入した男

田中 寛次郎(7)

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    北野 邦彦

電通に2度目の入社

 

昭和20(1945)年12月、田中寛次郎は再び電通に入社し、出版部長に就任する。電通社長の上田碩三は、戦後の電通の事業の柱の一つに出版を考えていた。当時の広告産業の規模は小さなもので、広告専業では経営が不安定になると上田は考えた。最大の広告媒体である新聞は新聞用紙不足で、どの新聞も2ページ建てで、広告スペースにも限りがあった。昭和25年1月にようやく週2回4ページ建てが実現するが、上田は新聞広告を電通の経営の主柱とするには心もとないと判断した。さらに編集畑(通信部)出身で、広告営業の現場には疎く広告の営業は吉田秀雄に任せており、上田としても出版を事業化することの方が経営課題としての見当をつけやすいと考えたのであろう。

『世界文化』創刊号

久々の平和の時代を迎えた国民は文化的な匂いのある出版物に飢えていた。田中を出版部長に迎えた電通は、『改造』元編集長の水島治男を編集長に据え、昭和21年2月、総合雑誌『世界文化』を発刊するが、上田、田中の読みは当たり、同誌はたちまち有力総合雑誌として世間から迎えられる。

しかし、好事ばかりが常に起こるわけではない。電通は突然GHQにより、会社活動に制限が加えられる「活動制限会社」の指定を受け、出版活動が大幅に制限されることとなった。電通が戦時中に『独逸大観』『伊太利大観』『ナチス叢書』『満州建国読本』などを出版したことが、制限会社指定の理由であった。折角好評を得た『世界文化』を電通が発行することは取りやめとなり、同誌の出版権を水島編集長個人に譲り、電通の出版業務は大幅に縮小されることとなる。

田中も出版部長の職を解かれ、昭和22年、総務部長となる。当時の電通総務部は部員80名を数える重要部門であったが、重責のあまり肺結核の病状も進行した模様である。

田中が総務部長の職にあった時、総務課長として直属の部下であった奥村驍(後の調査部長)は、『電通社報』の田中追悼特集で、次のように記述している。

「電通に入社され、総務部長になられた時、私は総務課長でした。当時は終戦でしたし、いろいろの問題がありましたが、総務の要職にあって田中さんは大変ご苦労され、そんな事でも余計病気が進まれたんじゃないかと思っています。昭和24年7月、PRの第1回発表(注:8月の第1回広告講習会のこと)があり、始めて我国にPRが紹介された訳ですが、田中さんは確かにPRの先駆者であり、優れた語学でいろいろこれについて研究され、検討されていました。頭が鋭く繊細な感じに見受けられますが、明るくあっさりしており、(部下の私でも)寛ちゃんと呼びたくなるほど人なつっこい感じのする人でした。私が総務にいた頃、田中さんの顔の広いことには随分、驚いたものです。」

電通、同盟の記者として世界を駆け巡り、情報局情報官として活躍した田中の交友の広さを如実に物語るエピソードである。

田中が総務部長に就任してから1年8カ月ほどたった昭和23年8月、役員会に直結する組織として、総務局渉外課が設置される。「国際貿易再開に付随して外国との交渉も頻繁の度を加えてきたから」というのが、設置理由であり、この渉外課は2カ月後の10月、総務局渉外部に格上げされた。田中は総務部長から総務局渉外部長になり、同時に営業局外国部長も兼務する。 

『社報電通人』(昭和23年10月30日)は、渉外課を渉外部に格上げした理由として、「最近では、外国代理業との連絡も益々増加の一路を辿っている現在、従来の総務局渉外課の機構を充実し、内外の情勢に即応せしむため」と述べているが、その意味するところは、至って曖昧模糊としている。しかしその本当の狙いは、田中の優れた英語力と幅広い識見とを生かして、GHQに対し電通の実態を分かってもらい、平和産業である広告業としての電通をGHQにPRすることで、電通を会社制限令対象会社から解除してもらうこと、公職追放令対象者となりそうな電通社員の確認と、それらの電通社員をできるだけ対象者から除外してもらうように働きかけること、占領軍による接収対象建築物から、電通ビルを除外してもらうことなどにあったといえよう。

ちなみに、渉外部長とは、今日でいえば電通を対外的にPRするためのPR部長、広報部長ということになる。戦中から戦後にかけてのある時期には、まさに「渉外」とは「PR」や「広報」の訳語であった。たとえば、昭和18年に『米国の言論指導と対外宣伝』と題したアメリカの翻訳書が刊行されているが、その中で今日のPR会社に当る「パブリック・リレーション・カウンスル」は「渉外会社」と訳されている。また、昭和20年、GHQが日比谷の第一生命ビルに本部を構えるが、参謀長に直結する主要部局である「パブリック・リレーションズ・オフィス(PRO)」は、日本語名が「渉外局」とされていた。田中がGHQと渡りあう時に、「渉外部長」の肩書は、その効力を大きく発揮したに違いない。

田中はアメリカの原典の翻訳を通じて、電通をはじめとするわが国企業にPR理論を紹介するにとどまらず、PRの手法を通じて、電通の広告作業領域の拡大にも力を注ぐ。

昭和22年12月1日から、官民挙げての「証券民主化運動」が全国的に展開された。大蔵省、商工省、文部省、逓信省、全国証券協会連合会、通貨安定対策本部、全国銀行協会連合会などが「証券民主化委員会」を結成し、証券民主化全国大会を開催する。その活動を日本放送協会の番組、新聞広告、雑誌広告、ポスター、パンフレット、講演会などで多角的に告知キャンペーンするというものであったが、これは田中を中心とした電通発の企画であった。

昭和23年1月には全国の日刊紙に大蔵省の納税促進広告が掲載された。「みなさん、インフレを克服するために、進んで納税いたしましょう」という全2段の横長の広告は、2ページ建ての新聞紙上で大きな広告スペースを確保することが難かしかった当時、ひときわ目を引くものであり、田中のPR理論を実際に生かして制作されたわが国初のPR広告というべきものである。

 

(写真上)『世界文化』創刊号

(文中敬称略)

◎次回は3月3日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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