電通を創った男たち #26

戦後日本にPRを本格導入した男

田中 寛次郎(6)

  • Kitano profile
    北野 邦彦

吉田秀雄、日比野恒次と同期で電通に入社

 

第8回極東選手権大会

ここで、田中寛次郎がどのような経緯で電通に入社したのかを辿ってみよう。田中は明治38(1905)年、東京都出身。大正11(1922)年、東京商科大学(現一橋大学)予科入学。予科ではバスケットボール部に入部したスポーツ好きの明るい青年であった。東京商大のバスケットボールの選手であった田中は、昭和2(1927)年開催の極東オリンピック大会日本代表として選抜チームに参加しており、バスケットボールの技量は当時の日本のトップクラスにあった。

田中と同期で電通に入社した浅原重継(後に電通監査役)は、『電通社報』(昭和29年1月20日号)の「故田中寛次郎氏の思い出」で、学生時代の田中について次のように述べている。

「大正11年、当時神田一ツ橋にあった東京商大予科に同時入学し、同クラスに顔を合わせたのが寛ちゃんと米田さん(経理局次長)とぼく。寛ちゃんは早速バスケットボール部に入り、2年の時は選手となって出場していた。当時、日本のバスケットボールは勃興期にあり、早大、立大、商大の3大学リーグ戦だった。この間、上海に2度遠征して、前衛でおおいに活躍したものだ。寛ちゃんは完全なるスポーツマンだったので、よく2人で水泳に出かけては、大いに青春の意気を挙げていたものだ」。

また、田中総務部長の下で総務課長を務め、田中の亡くなった年には調査部長であった、奥村驍は、同じ号で、こう述べている。

「田中さんは私の中学時代の先輩でした。(府立)4中はスポーツの大変盛んな学校で、当時、鉄棒で大車輪をしていた田中さんを良く覚えてます」。

いず何れも、青年時代は生き生きとしたスポーツマンであったことを彷彿とさせ、後年、48歳の若さで肺結核で亡くなると人と同一人物とはとても思えない。

昭和3年、田中は日本電報通信社(電通)に入社し通信部配属の記者となる。電通はこの年、初めての本格的学卒採用を行った。前年の3月、金融恐慌の波が世界を襲い、依然続く不景気の年とあって、電通には300名を超える応募者が訪れた。約30名が筆記試験をパスし面接を経て12名が採用となる。広告営業部門に4名、通信部門に8名の配属であった。

広告営業部門の新入社員は、吉田秀雄(東大、第4代社長)、日比野恒次(東大、第5代社長)、坂本英男(東大、副社長)、浅原重継(東京商大、監査役)の4名であった。一方通信部門の新入社員は、田中寛次郎(東京商大、監査役)を始め、金原三郎(電通映画社社長)、高橋司三冶(毎日新聞西部編集局長、室蘭日報社長)、西村二郎(新潟日報会長)、飛島定城(福島民報社長)、波多尚(産経新聞取締役主幹・電通監査役)、市木清逸、吉川一男(日本石油)の8名である。

田中の電通入社の契機となったのは、電通創業者の光永星朗と姻戚関係にあった上田碩三に負うところが大きい。上田は田中の電通受験当時、電通常務取締役・通信部長(編集局長)の要職にあったが、東京商大の先輩に当たり、田中を採用する。入社後も田中に目をかけ、一流の記者に育てようと努め、田中もその期待に応えるべく頑張った。

通信部配属となった田中は外務省霞クラブに所属。昭和7年のロサンゼルス・オリンピック大会では、派遣特派員を務める。その後、ジャワ、マニラ、バタビヤなどにも派遣されている。

昭和11年6月、当時の日本の二大通信社であった日本電報通信社(電通)と新聞聯合社(聯合)は通信部門を合併し、新たに国策通信社として同盟通信社(同盟)が設立される。聯合は広告部を電通に譲渡し、電通の通信部は同盟に引き取られ、電通は広告専業の会社として新発足した。世に言う「電聯合併」である。戦争遂行のための国策を世界に発信するという通信社の機能は社団法人同盟通信社に一本化され、言論統制が強化されることとなる。

この電聯合併により、電通常務取締役・通信部長の上田碩三は同盟通信社常務理事・編集局長に就任。田中寛次郎も同盟通信の社員となるが、昭和12年の内閣情報部の発足に伴い内閣情報部員に移籍する。内閣情報部は日中戦争に関し日本の正当性を世界にアピールするための情報発信中枢として、内閣官房、外務省、陸軍などにより発足した政府機関である。

追悼特集

同盟通信調査部編『国際宣伝戦』(高山書院)は、「(内閣情報部には)専任として書記官6名、情報官7名、属32名と嘱託陣があるが、情報官の中には、民間から登用された6人の異色陣が活躍している。田代金宜(元都新聞政治部長)、林謙一(元東京日々記者)、下野信恭(元報知記者)、田中寛次郎(元同盟通信記者)、井上司朗(元安田銀行)、水谷史郎(元放送局)の諸氏であらう。」と記している。

昭和15年、内閣情報部は情報局に改名・改組され、戦時情報発信機能の一層の強化が図られた。情報局は5部制であり、企画、情報、調査を担当する第1部、新聞、通信、雑誌、出版物、放送を担当する第2部、対外報道、宣伝、文化工作を担当する第3部、検閲担当の第4部、対内文化宣伝担当の第5部に分けられていた。田中は、情報局の高等官として、最も枢要な第1部第2課所属の情報官に任官し、情報収集と分析の責任者となる。

しかし、かつては明るいスポーツマンであった田中も、当時の不治の病である肺結核にかかり、療養生活に入りながら敗戦の日を迎える。

(写真上)上海で開かれた「第8回極東選手権大会」
(下)『電通社報』に掲載された「故田中寛次郎氏の思い出」

(文中敬称略)

◎次回は3月2日に掲載します。

プロフィール

  • Kitano profile
    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ