電通を創った男たち #29

広告クリエーティブの
「水先案内人」新井静一郎(1)

  • Fukagawa1
    深川 英雄

間違い採用? 思いがけず広告の道へ。

 

「困った時の新井さん」という言葉がある。戦中・戦後の広告クリエーティブの世界で、だれ言うとなく交わされてきた言葉である。「なにか困ったこと、解決の難しいことが起きた時、そんな時は新井さんに相談しなさい。新井さんなら、なんとか解決してくれる」との意味であろう。

ここで言う「新井さん」とは誰あろう、戦中・戦後の波乱に満ちた広告界に身を置いて、常にその第一線を走り続け、戦後は電通の宣伝技術局長、常務取締役として、広告クリエーティブの「質」と社会的地位の向上に腐心した新井静一郎その人のことである。と同時に、この言葉は、広告界の激流の中で自らを鍛え上げてきた新井の冷静、無私な人柄が、ひとり電通だけでなく、広く広告界全体で、いかに信頼され頼りにされていたかを物語るものでもある。

「広告の生き字引」といわれた新井静一郎
「広告の生き字引」といわれた新井静一郎

そんな新井が、『広告電通賞二〇年史』の別冊にこんなことを書いている。戦後の一時期、広告電通賞審議会の議長役をつとめたミツワ石鹸副社長・衣笠静夫についてである。

「衣笠さんは、あたたかいムードと大きな包容力を持っていた。一種独特の説得力があったが、一方『衣笠さんにいわれたんでは仕方がない』という人柄のよさも大きく作用した。
いろいろな問題が起きると、両国のミツワ石鹸(当時は丸見屋)本社の副社長室にかけつけたが、話を聞いてもらうだけで、もう事柄の半分くらいは解決したような安心感が生まれた」と。

昭和27年に米国で新井が撮影した衣笠静雄(左端)
昭和27年に米国で新井が撮影した衣笠静雄(左端)
 

だが、この一文は、そっくりそのまま新井にも当てはまる。まさに新井自身が、大きな包容力と独特の説得力を持った人であった。あの温顔に接するだけで、ことは半分解決したように思えたから不思議である。

しかし新井は、ただ温かくやさしいだけの人ではなかった。広告クリエーティブの質の向上を目指す「志の高さ」は、終世失うことはなかったし、どんな場面でも、あいまいな妥協は、決して許そうとはしなかった。新井には、常に広告クリエーティブの先頭に立って走り続けた人ならではの使命感と矜持と厳しさがあった。

筆者は、いわば「新井静一郎」に間に合った世代に属する。つまり、生前の新井の謦咳(けいがい)に接することができたのである。ここで、その具体例を細かく取り上げることはしないが、広告制作の現場や広告電通賞などの選考の場で、新井の見せた厳しさとやさしさを感慨深く想い出す。

それにしても、迂闊であった。広告の「生き字引」でもあった新井には、生前、広告界のいわば「来し方、行く末」について、もっともっと聞いておくべきであった。今となっては、残念と言うほかはない。

しかし幸いにして新井は、その生涯で、共著も含め10数冊の著書と日記を残している。この稿では、新井の書き残したドキュメントに導かれ、実に広範囲におよぶ新井の活動をたどってみたいと思う。現在のわれわれにとっても、決して無縁ではないところの。

明治40(1907)年東京で生まれた新井静一郎は、昭和7年慶應義塾大学経済学部を卒業、昭和大恐慌の最中、森永製菓の宣伝課に入社した。新井、25歳である。この年は、不景気のあおりで、小売商の倒産が相次ぎ、農村は疲弊、街には哀調をおびた「酒は涙か溜息か」などの古賀メロディーが流れた年である。5・15事件など相次ぐテロや満州国の建設などにより、右翼や軍部の台頭が顕著になったのもこのころである。

新井の著書のひとつ『ある広告人の日記』(ダヴィッド社)にこう書いている。

「昭和7年というと、不況の影響を受けて就職難の時代でありました。二、三の銀行会社などの入社試験を受けましたが、どれも見事に落ちました。そこへ森永でも試験をやるという話が伝わってきました。その試験を受けに行ったら『今日の試験は、普通の社員をとるものではない。アドライター(今のコピーライター)を採用する試験である』といわれました。そして、どうした間違いか、私だけが採用となり、思いがけなく広告への道を歩むことになりました」と。 新井によると、その時出された試験問題は、ひとつは常識問題で、もうひとつはチョコレートが一つずつ配られて、その広告コピーを書けという問題であったという。

「私が在学中にも、広告研究会というクラブ活動は存在しており、工場見学などの看板を見かけたから知ってはいたのだが、その頃の私には無縁であった。だから試験場で初めて広告というものに対面し、その文章を書かされたわけである」(『広告のなかの自伝』マドラ出版)。

試験問題を見た新井は、一瞬困惑した。しかし、ここは開き直って、初めてチョコレートなるものを食べた時の、あの感激を素直に書けばいいと思い直し、それを文章にしたのである。

「お手にとって先ず銀紙をお開き下さい。その色、その光沢。次にその一片を舌の上にお乗せ下さい。その香、その感触。それから口の中で充分にお味わい下さい。その味、その情熱」 これが、その時新井の書いたコピーである。後に「広告クリエイティブの水先案内人」「広告の生き字引」といわれた新進コピーライター・新井静一郎の誕生である。新井は言う。

新井のコピー処女作(『広告をつくる技術者たち』より)
新井のコピー処女作(『広告をつくる技術者たち』より)

私が森永製菓に入社した時、広告課には三人のデザイナーがいた。小池富久、今泉武治、野石祐晴の三氏である。

小池さんはすでに亡いが、画家の気質を多く持っていた。芸大名誉教授の小池岩太郎氏はその令弟である。
野石さんはおとなしい性格で、童画がうまかった。今泉さんは明大商学部の出身にもかかわらず、私より一年半ほど前にデザイナーとして入社していた。

…コピーライターがいなくなった所へ、私が現れたわけだから、三人から出てくる注文を一手に引き受けさせられ、急造速成もいいところで、冷汗をかきながら無我夢中でやった仕事は、辛くもあったし楽しくもあった。

殊にチョコレートは、その頃新鮮でモダンな商品であったから、広告表現の上でもアップ・ツー・デートな新しさを出そうとして努力したことを覚えている。
感覚からもムードからも、チョコレートと対比させられるものは映画だった。コピーを書く上で師も参考書も持たなかった私には、学ぶべき相手は映画広告のコピーであり、事実、東和映画の筈見恒夫氏のコピーには感心させられるものが多かった。

…コピーの勉強を始めようとしたが、もちろん参考書なども一冊もなかった。そこで新聞や雑誌で眼につくコピーを仔細に点検した。
そして注意をひいたもの、よいと思ったものをノートに写すことにした。なぜよいと思ったのか、他のとは違う印象をもったのかも調べて見た。
そのノートが五、六冊になった時、やっと漠然とながら、コピーの書き方が少しわかったような気がした。

たいへん素朴なやり方ながら、それが私にはよかったようだ。時代の流れと共に変化するコピーを常に頭に入れながら、使ってもらえる──つまり活字になるコピーを書き続けてゆくことが一番大切なのではないかと、私には思える」(『広告のなかの自伝』)と。

新井はその生涯で、図らずも、森永製菓、報道技術研究会(報研)、電通とその活動の場を変えることになるが、彼はこの時、広告人生のスタートを切ったのである。

(文中敬称略)

◎次回は3月16日に掲載します。
 

プロフィール

  • Fukagawa1
    深川 英雄

    1935年生まれ。東京外語大卒。コピーライターとして電通入社。在社中「違いがわかる男のゴールドブレンド」などを起案。クリエーティブディレクター、クリエーティブ統括局次長などを経て、駒沢女子大教授を務めた。広告学会、広報学会、映像学会会員。著書に『キャッチフレーズの戦後史』(岩波書店)、『キャッチフレーズ事典』(電通・共著)など。

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