電通を創った男たち #30

広告クリエーティブの
「水先案内人」新井静一郎(2)

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    深川 英雄

広告界の名門「森永広告学校」で育てられる

 

新井が「思いがけなく」入社した森永製菓は、当時、ライオン歯磨(現ライオン)、寿屋(現サントリー)、カルピスなどと並んで広告界の名門である。後に「オラガビール」「スモカ」などの広告で名を馳せた「天才アドライター」片岡敏郎が初代広告部長として在社したことでも知られている。

「森永製菓は、昭和初期に、“森永広告学校”の異名をとったほど豊富な人材を養成し、活発な広告活動を展開した。そのきっかけは、のちに二代目社長になった当時の支配人松崎半三郎が一九一五(大正四)年に片岡敏郎を登用して広告部長に据え、『片岡の広告作法から学び、それを継いでゆく人材と気風を育てた』(藤久ミネ「企業内工房の時代」)ことにある。森永広告学校からは図案家も今泉武治ら多数を輩出したが、文案関係では、名プロデューサーといわれた小山政也、室田庫造、新井静一郎、十返肇、黒須田伸次郎、山崎宗晴など多士済々であった」(『日本の広告─人・時代・表現』山本武利、津金澤聰廣・世界思想社)。

新井の記憶によると、新井が森永に入社した時の宣伝部長は小山政也で、彼は片岡敏郎から数えて三代目に当たる。この小山は、片岡の直系を自認していて、その行動にも片岡の影響が現れていたという。

例えばクラシック音楽が趣味で(片岡のクラシック好きも有名で、彼は休日ともなると家族全員を居間に集め、クラシック音楽を聞かせていた)、当時としては大変高尚な企画だった「森永プロムナードコンサート」を企画し成功させたのも小山だった。このころからタイアップやイベントが好きな企業だった森永は、小山の後、稲生平八・山崎宗晴の時代に移ってゆくが、その後も、母をたたえ母に感謝する「母の日全国運動」や「森永キャラメル芸術」や「日独伊親善図画」などといった大規模なキャンペーンが、太平洋戦争開戦前夜まで続けられた。

「これらの宣伝活動を行った森永製菓広告部は僅かに十数人のスタッフしかいなかった。だから活動が盛り上がった時期には、総動員しなければ遂行ができなかった。コピーライターも増えていったが、すべての行事に最初の企画の段階から組み込まれた。

だから広告づくりのためのデザインやコピーも、机の上で書くというよりも、現場の感触を生々しく受けて、前線で書くという趣があった。若さがあり、一体感があった。一人の社員に任される分野が、かなり大きかったような気がする。―そういう中で育てられ鍛えられたことは幸せであった」(『広告のなかの自伝』)。

この「現場の感触を生々しく受けて、前線で書く」というスタイルがコピーライターとしての新井を鍛え上げ、その後の彼の成長に大きく寄与したことは間違いないであろう。またこのことは、広告人・新井静一郎の広告づくりの原点でもあったといえるだろう。

この項の終わりに、昭和14(1939)年頃、新井が当時の『広告界』(誠文堂)に書いた「訪問記」という美しい文章があるので紹介しよう。それは、新井が企画した「森永女性教室」の講師依頼の件で、哲学者・谷川徹三と会った時の経緯を書いたものである。

新井は、人を介して初めて谷川へ電話をし、幸運なことにその日の内に面談できる手はずを整えることができた。午後2時、場所は銀座のジャーマン・ベーカリーである。ところが、新井は谷川との面識がない。さて、困った…

哲学者・谷川徹三。詩人の谷川俊太郎は氏の長男
哲学者・谷川徹三。詩人の谷川俊太郎は氏の長男

「…とに角私は、少し早目に出掛けて、出入り口のよく見える卓に席を占め、注意して見ることにした。

その評論の格調から想像して、恐らく谷川さんは時間通りに来られるだろうし、唯の人とは違う『何か』が私の神経にもピンと来やしないかとも考えていた。

丁度二時頃は客の出入りが殊に激しかったが、入って来た途端に一応あたりを見廻したそれらしい人を見ると、私はもう腰を浮かせていた。やはり谷川さんであった。

『一昨日南京から帰って来ました』と言われる谷川さんの顔には、少しも旅行疲れの影が見出されなかった。書斎から教壇へのいつもの生活から生まれる平静な環境が、今日も相変らず谷川さんの周囲を取り巻いているようである。少し見て来ただけで(新井は昭和15年2月、中国を旅している)大騒ぎをしてしまう私など、もとより比ぶべくもないが、流石に谷川さんだと感心をした。

谷川さんはウインナコーヒーを註文された。私が伝票を一緒につけさせようとすると、別にするようにとすぐボーイに言われた。鉄縁の眼鏡(事実はそうでなかったかも知れないが、私にはまざまざと鉄縁の印象が残っている)の奥にある眼の光も穏やかで、人を押してくる感じが少しもなかった。

私の願いは容易く聴かれた。そこで私は、谷川さんがコーヒーに手をつけぬ内に、席をたってお別れをした。すぐに承知して貰った嬉しさが、谷川さんへの親しみを急激に増して、巷の雑音の如き私の存在で、氏の周囲を騒がしたくない気持ちにかり立てられたからである」。

高い見識のある人格に対する新井の畏敬の念が、ひしひしと伝わってくる文章ではないだろうか。と同時に、この文章からは、気配りにすぐれた新井の人柄も偲ばれる。

広告人としての新井の出発点でもあった森永製菓時代について、もう少し。新井の著書『広告をつくる技術者たち』(美術出版社)の中に「ひとつの青春」という小文がある。新井はそこに、こう書いている。

「森永製菓本社の新社屋が出来て間もなく、その屋上での写真だから昭和十三年である。左から私、今泉武治氏、下から首を出しているのが黒須田伸次郎氏、右が斉藤太郎氏である。…生活にも張りがあり、仕事も面白く、打ち込んで夢中になれた時代だった」。その若さが、この写真には写っていた。

昭和13年に撮影した青春の1枚
昭和13年に撮影した青春の1枚

森永時代には、忘れ難い人が何人もいるが、この写真の四人に限って言えば、遂に広告から離れられなかった者ばかりである。その理由はいろいろあるだろうが、広告を通じてのひとつの青春が、確かにそこにはあったという証しに、私には思えるのだが」。

新井はもちろんだが、ここに登場してくる四人は、戦後、それぞれが広告界のリーダーとして一家を成した人物である。中でも、今泉武治は、広告人としての新井に最も強く影響を与えた人物の一人といえるだろう。
 
今泉との関係については、こんなエピソードがある。『日本のアートディレクション』(美術出版社)の中で新井自身が語ったものである。

「僕は森永へコピーライターとして入ったんですけど、入った当座は(今泉に)大変いじめられました。というのは、きちんとレイアウトを決めちゃってからコピーを頼みにくるんですよね。ここへ何行で、一行何字詰めで、最後の所もアキがないようにきちんと入れてくれ、ということを注文するんですからね。ずいぶん苦労しました。泣かされましたよ。
しかしそれが僕自身コピーライターの卵としては、大学を出てすぐ入ったわけですから、苦しみながらやっぱりコピーというものの書き方を、自ら体得できたのは今泉さんのお陰だみたいなことがあるわけですね」。

一方、今泉は、当時のことを回顧して、こう言う。
「とにかく森永時代は大変忙しかった。週五本、十本のペースで次から次へと広告をつくっていましたから。昼間は雑用がたくさんありますから、本当の制作の仕事は残業でやったという感じです。徹夜もよくやりましたし、それだけ活気があったということですね。明治製菓との広告合戦も大いにやりましたよ。

…とくにコピーは丁々発止のやりとりがありましたねえ。明治製菓には部長の内田誠さんや作家の戸板康二さんがコピーライターとしていて、森永のコピーは新井静一郎さんで、この両者の間にはいろんな面でかなりライバル意識があったと思います」(『聞き書きデザイン史』六耀社)。

新井はさらに、その今泉について、「今泉氏は終始きびしい論客の姿勢を崩さなかった。職場は変わっても、常にその姿勢は一貫して個人の業績が積み上げられていった点では、珍しい存在ではないだろうか。
…東京ADC(アートディレクターズクラブ)の出発も、彼なしには理論的なバックボーンは通らなかったに違いないのである」(『広告のなかの自伝』)と評価している。

さて、新井が充実した日々を過ごした森永製菓の生活も、入社9年後の昭和16年には終わりを告げた。森永の広告課が廃止に追い込まれたからである。この年12月、日本は米英蘭相手の太平洋戦争に突入。時局の急変とともに、菓子類も統制の中に組み込まれ、自由販売ができなくなったのである。広告にとって不幸な時代の始まりであった。

そしてこの時、新井はほかの部署に移るか、森永を辞めるかの二者択一を迫られ、結局、永年住み慣れた森永を去る決心をしている。それは、新井がこのころから「国家報道宣伝に奉仕協力をしたい」という思いを持ち始めていたからでもあった。新井、34歳。それにしてもこのことは、苦渋の決断であったに違いない。

(文中敬称略)

 
◎次回は3月21日に掲載します。
 

プロフィール

  • Fukagawa1
    深川 英雄

    1935年生まれ。東京外語大卒。コピーライターとして電通入社。在社中「違いがわかる男のゴールドブレンド」などを起案。クリエーティブディレクター、クリエーティブ統括局次長などを経て、駒沢女子大教授を務めた。広告学会、広報学会、映像学会会員。著書に『キャッチフレーズの戦後史』(岩波書店)、『キャッチフレーズ事典』(電通・共著)など。

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