電通を創った男たち #31

広告クリエーティブの
「水先案内人」新井静一郎(3)

  • Fukagawa1
    深川 英雄

「国家報道」のために最高の技術者が集結

 ──報道技術研究会を立ち上げる

 

報道技術研究会(いわゆる「報研」)は昭和15(1940)年11月に結成され、昭和20年8月15日の敗戦の日に解散した、いわば高度な国家宣伝の実現をめざした技術者集団である。報研の具体的な活動内容については、戦後しばらくは、ほとんど知られていなかった。しかし、報研の中心メンバーであった山名文夫、今泉武治、新井静一郎などが編者となって、昭和53年、ダヴィッド社から『戦争と宣伝技術者──報道技術研究会の記録』が刊行されるにおよんで、その全体像が明らかにされた。

新井はこの本に、「報研の結成から解散まで」という一文を寄せている。

「報研の構想を今泉氏と私とで最初に話し合ったのは、昭和十五年八月の下旬である。私が『手弁当でも公的な仕事に奉仕しよう。拡大した研究会組織を持ちたい』と話し、今泉氏が、『グループは技術へ分化の上の統合で、既成の図案団体を超克した形でつくりたい。名称も宣伝広告ではなく、国家的社会的統合原理から出発すべきだ』と主張している」。

今、読んでみると、特に今泉の主張は、いかにも生硬で観念的であるが、なんとかして自分たちの持っている技術を、国家のため社会のために役立てたいという熱い思いは伝わってくる。そして、新井たちは、斉藤太郎、三井由之助など森永製菓に席を置いていた人たちや資生堂にいた山名文夫などにも声を掛け、この研究会の綱領案や発起人を決め、昭和15年9月、発会式への準備をはじめた。名称も今泉の強い主張で「報道技術研究会」(後に「報道技術研究所」)と決まった。

『戦争と宣伝技術者──報道技術研究会の記録』
『戦争と宣伝技術者 ─ 報道技術研究会の記録』

そのころの事情を、さらに新井の著書『広告をつくる技術者たち』によって見てみよう。

「その頃、広告の仕事は、まったく絶望的であった。仕事はなくなってくるし、企業の広告部は開店休業となるし、なかには閉めてしまうところさえ出て来た。

私達は、広告の仕事はなくなっても、報道技術にはしがみついていたかった。すると残されているのは、国家報道という新しい分野だけだった。

昭和16年1月、報研のメンバーと
昭和16年1月、報研のメンバーと
 

報道技術研究会のそもそもは、森永と資生堂の人々の話し合いによって形がつくられたと言ってよい。しかし、この二つのチームは親しかったわけではない。少なくとも私は、たまたま会合などで山名さんと顔を合わせることはあっても、口を聞いたことはなかったと記憶する。

…しかしどうしても、山名さんに加わってもらいたかった。勇を決して、今泉武治、斉藤太郎の両氏とともにお会いした時、私達の希望通りに言下に快諾をしてくれた。勇気百倍とはこのことだった。

その頃、厚生省の人口問題研究所にいた小山栄三氏、建築家の前川国男氏からも快諾を得、進んで協力を約束してくれた。とんとん拍子とはこれだろうと思ったが、これは私達の熱意によるものではなく、これらの人々を動かした一番の原動力は、時局の進展だったに違いないのである」。

「報研」は、以上のような経緯を経てスタートしたわけだが、報研発足にあたって同好の士に出された「案内状」には、こうある。

「私共は報道技術の研鑽と個性的技術の組織化との為に、微力を捧げる決意を致しました。それぞれ職場を持ち仕事を有する者達でありますので、全余暇をこれに割いてもその成果は知れたものでありましょうが、私共の唯一の誇りは打算を離れた奉公の熱意であります。国家報道への技術的実践を通じて、国家のむこうところに貢献せんとする一片の気概であります。」と。

報研の目的とするところと、その方向性は、ほぼここに尽くされていると言えよう。

さて、「 頼まれることはなんでもやった」(山名文夫)という報研だが、昭和16年の発足以来、主として内閣情報局(窓口は小松考彰)や大政翼賛会(ここの宣伝部には、戦後『暮しの手帖』を創刊した花森安治がいた。彼は報研に対して好意的であった)などの依頼に応じて、 数々のポスター、チラシ、壁新聞の制作や展示会の開催を行っている。中でも「おねがひです。隊長殿、あの旗を射たせてくださいッ!」「勝たずして何の我等ぞ」「さあ 二年目も勝ち抜くぞ」などというキャッチフレーズで知られたポスター制作や昭和16年2月に銀座資生堂ギャラリーで開催した「太平洋報道展」は、当時、大きな反響を呼んだ報研の活動の成果であった。そして、こうした報研の活動の中心には、常に山名、今泉と並んで新井静一郎の存在があった。

報研の代表作ともいえる壁新聞
報研の代表作ともいえる壁新聞

それと、新井たち報研のメンバーにとっての幸運は、大政翼賛会の花森安冶との出会いであった。このことについて、花森自身はあまり語ることはなかったが、後に、新井はある種の感慨をこめて、こう述懐している。

「報研は国家報道宣伝に関しては、どんなところから頼まれようと、進んでやり遂げるように努力した。そうした流れの中で、『あの人と組んでやった』と力強く言えるのは花森安冶氏を措いて無かったような気がする。

花森氏のやり方には理解と共鳴ができたし、その注文は表現の上でやり易くもあった。仕事の上で、お互いに満足し合えるような間柄が、比較的短時日の間にでき上がっていった。私は、『花森安冶氏は報研のメンバーではなかった。しかしその頃、広い意味での仲間であり、私達の仕事の理解者であり支持者であった』と書いているが、それはまさしく当時の実感であった。

…もし大政翼賛会に花森氏がいなかったら、報研の仕事も大きく変わっていたに違いない」(『広告の中の自伝』)。

また、新井や今泉などと並んで報研の中心メンバーだった山名文夫は、敗戦とともに解散することになったことを、こう書き記す(『戦争と宣伝技術者』)。

「報研は、昭和二〇年八月一五日、いわゆる玉音放送をラジオで聞いて、日本が無条件降伏をしたことを知り解散を決めた。兵隊と同じように武装解除をしたのである。スポンサーも解体し、国をあげてのご破算であってみれば、その日暮らしの報研が無為にスタッフをかかえていられるわけがない。戦争のそもそもの初めから精いっぱいの仕事をしてきたわれわれが、戦争が終わると同時に仕事を納めるという割り切り方に爽やかさをおぼえ未練はなかった。“済んだ”という気がしたのである。それは飛行機の爆音がぷっつりと絶えた、嘘のようにしいんとしている青空がそれを象徴していた」。

こうした報研の活動に対しては、いまでも賛否両論の評価がある。彼らのことを「無邪気な戦争協力者」と評する者がいる一方で、「太平洋戦争の優劣は軍事力によって決定したが、宣伝力における彼我の差異も大きかった。それでも、日本にも日本なりの戦争宣伝があったのである。国内では諸団体の活動があったが、とりわけ、『報研』が国家の意志を代表して、広汎に作動し、最後に至るまで、目だった成果をあげた」(瀬木慎一郎『新評』)と評価する論評もあることを記しておこう。

今となっては「錚々たる…」と言わざるを得ない報研メンバーの同志的結合が、戦後の、特に広告デザイン界に与えた影響力の大きさについても触れておかなければならないだろう。山名文夫、今泉武治、新井静一郎、原弘、斉藤太郎、板橋義夫、大橋正、祐乗坊宣明(いずれも報研のメンバー)などの諸氏を抜きにしては、おそらく、戦後の華々しい広告デザイン界の展開も日宣美(日本宣伝美術会)やADC(東京アートディレクターズクラブ)など各種広告団体の結成も覚束なかったであろうと思われるのである。

(文中敬称略)

◎次回は3月23日に掲載します。

プロフィール

  • Fukagawa1
    深川 英雄

    1935年生まれ。東京外語大卒。コピーライターとして電通入社。在社中「違いがわかる男のゴールドブレンド」などを起案。クリエーティブディレクター、クリエーティブ統括局次長などを経て、駒沢女子大教授を務めた。広告学会、広報学会、映像学会会員。著書に『キャッチフレーズの戦後史』(岩波書店)、『キャッチフレーズ事典』(電通・共著)など。

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