電通を創った男たち #32

広告クリエーティブの
「水先案内人」新井静一郎(4)

  • Fukagawa1
    深川 英雄

吉田秀雄に引っ張られて電通へ

 

電通の戦後を語るとき、いわばそのキーマンとして、かならず登場するのが第4代社長吉田秀雄である。すぐれた先見性をもった電通「中興の祖」吉田については、各所で語られているので、詳しくはそちらに譲るが、戦後、嘱託として森永に戻っていた新井静一郎を電通に「引っ張った」のも、実は、吉田であった。新井は40歳になっていた。その辺の事情を、『広告のなかの自伝』に見てみよう。

「私が吉田秀雄に引っ張られて、電通に入ったのは昭和二十二年だった。吉田と相知ったのは森永時代で、会うと何度も肩を叩かれた。こちらがまだヒラの頃である。

昭和20年6月に開催された電通創立45周年記念式典に出席した吉田秀雄 (後列左から3人目)
昭和20年6月に開催された電通創立45周年記念式典に出席した吉田秀雄 (後列左から3人目)
 

 森永を辞め、広告に全く縁のなかった時代でも時折手紙をもらった。遠くから私を見てくれているなという思いが今でも忘れられない。

…だからわたしの場合、電通にたぐり寄せられるまでには十数年がかかっている。やたらに人を採ったといわれる吉田氏には、その裏にかくされているこの慎重さが、大いに役立っているのではあるまいか」。

これを読むと、新井と吉田との関係、人を誘うのに意外に慎重だった吉田の一面が見て取れて興味深い。

新井が電通に入った昭和22年というと、戦争によって壊滅的打撃を受けた電通が、戦後ようやく立ち直りの動きを見せ始めた時期である。敗戦から2年目、食糧不足から、街には飢えた人びとが溢れ、当時の日本人はアメリカから支給される援助物資「ララ物資」「ケア物資」などでなんとか食いつないでいた。しかし一方、笠置シズ子の歌う威勢のいい「東京ブギウギ」が流行、NHKラジオからは「鐘の鳴る丘」「二十の扉」などのヒット番組が生まれ、人びとは長く続いた暗い時代からの、なんともいえない開放感を味わっていた。新聞記事の見出しの横書きが「左書き」になったのもこのころからである。

新井入社2年目、銀座電通ビルの屋上で
新井入社2年目、銀座電通ビルの屋上で
 

そんな時代である。吉田秀雄はまだ社長ではなかったが(この年の6月に社長就任)、将来への吉田構想の布石はすでに始まっていた。その構想の「ささやかな石のひとつとして私の入社も求められました」と、これは後に新井が語った言葉である。新井は、先述のように、その前年に嘱託として森永製菓に勤め始めており、電通の正社員になったにもかかわらず、森永と電通の隔日勤務といった奇妙な状態がしばらく続くのである。

新井の『ある広告人の日記』の「まえがき」にこうある。

「戦前の森永時代から電通とは仕事の上での接触があり、内部事情も多少は分かっていましたが、組織(電通)への入り方が不充分であり、半分は客のような甘えがあったのも事実でありましょう。

 そういう隔日勤務も、後の方へいくと、森永へ出勤する日でも朝一度は必ず電通へ顔を出すというように、次第に電通の方へ強くひきずられるようになってゆきます。

 その頃の電通は、みんながひとつの部屋にいた時代といえるかも知れません。吉田さんも非常に身近な存在でしたし、現在(昭和38年)の日比野社長にしてもほとんど距離を感じないで、接触できたのは、今となると楽しい思い出のひとつです」と。

今となっては、隔世の感があるが、戦後早々の電通は、社員数が全社で二百数十名程度で、全員がいわば「顔見知り」といった小規模な企業集団であった。

「午前七時半に岡谷を出て汽車は、午後二時少し前に新宿へ着いた。

吉田(秀雄)氏から速達がきていた。元日付で私の辞令を出し、嘱託ではなしに企画部副部長ということにしたとのこと、それに六日から出てきてほしいとあった。…」(昭和二十二年一月八日) で始まる新井の電通日記を読むと、当時の新井が、じつに多くの電通社員に積極的に会っていることがわかる。もっとも「仕事を通じてのつきあいは誠意をつくしてやるが、それ以外の人間的なつき合いは極力やらぬ方針だ」(一月十一日、日記)というのは、いかにも合理的な新井らしいが。仕事で新井の接触した社員は、新井の所属した企画部だけでなく、連絡、業務、調査、出版、経理、総務の各部におよび、後に社長になった吉田、日比野の両氏とも頻繁に顔を合わせている。

それと、注目すべきは、新井の電通入社を切っ掛けに、「報研」などで戦時中苦労をともにした仲間との旧交が復活してきたことである。新井の日記をたどってゆくと、そこには、山名文夫、今泉武治はもちろん、伊藤憲治、板橋義夫、金丸重嶺、村上正夫、祐乗坊宣明、大橋正、岩本守彦、土方重巳、栗田次郎、椎橋勇などの名前が登場する。いずれも戦後の広告界の第一線で活躍した人々である。

「まるで敗残兵だ」といわれた写真。左から、山名文夫、今泉武治、花森安治、新井、栗田次郎
「まるで敗残兵だ」といわれた写真。左から、山名文夫、今泉武治、花森安治、新井、栗田次郎
 

興味深いのは、戦時中、「報研」で頻繁な交流のあった花森安治との後日談である。花森は、戦後、銀座の日吉ビルに事務所をかまえて、大橋鎮子とともに『暮しの手帖』を発刊するが、電通はこの『暮しの手帖』の広告がどうしてももらえない。そこで、花森との経緯を知った連絡部の部員が、新井に頼みにくる。「『暮しの手帖』の広告がもらえない。あなたから話してみてくれませんか」と。

…そこで、事務所に出かけて花森氏に会った。『実は始めて新聞広告を出す時、電通に頼みに行ったんです。もちろんだしぬけで紹介者もなかったが、素気なく断られた。だから今のところに決めたのです。』

こう話してくれたのは、同席していた大橋女史だったかも知れない。それに花森氏がこうつけ加えた。

『今の広告代理店はミスもなくやってくれている。大きな不満でも出れば別だが、広告を二つに割るほどの量でもないので、このままで行く。』

今度は私の方が素気なく断られ、当時花森氏が装丁した本を二冊ほどもらっただけで帰らざるを得なかった」(『広告をつくる技術者たち』)。

ところが、この話にはさらに続きがある。新井の昭和22年の日記によると、その年9月4日に新生活運動の池野と称する男が、花森の紹介で新井のもとを訪ねて来る。「十一月に高島屋で『木材展』をやるから企画構成を頼む」というのである。そこで新井は「電通で一切を引受けるという形でやれないかと交渉し」相手の了承を得る。新井は早速、旧知の「宣伝技術陣」岩本、大橋、伊藤、古田、栗田の諸氏、建築家、市川、池辺の両氏の協力を得て、この「木材展」を成功に導く。12月4日の日記には、こうある。「高島屋の『木材展』へ行く。かなりの人だ。現物出品が会場を賑やかにしている」と。

思うに、この仕事は、花森の新井に対するささやかな「お返し」ではなかっただろうか。新井は、そうはっきりとは書いていないが、事の経緯から察してどうもそんな気がするのである。

(文中敬称略)

◎次回は3月29日に掲載します。

プロフィール

  • Fukagawa1
    深川 英雄

    1935年生まれ。東京外語大卒。コピーライターとして電通入社。在社中「違いがわかる男のゴールドブレンド」などを起案。クリエーティブディレクター、クリエーティブ統括局次長などを経て、駒沢女子大教授を務めた。広告学会、広報学会、映像学会会員。著書に『キャッチフレーズの戦後史』(岩波書店)、『キャッチフレーズ事典』(電通・共著)など。

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ