電通を創った男たち #33

広告クリエーティブの
「水先案内人」新井静一郎(5)

  • Fukagawa1
    深川 英雄

いよいよ始まる電通人・新井の活躍

 

さて、前掲「日記」に見たように、しばらく続いた新井の電通、森永隔日勤務といった変則状態も、やがて電通一本に収斂されてゆく。企画部副部長(当時の企画部長は西田恒之)として採用された新井の肩に、電通の新しい「宣伝技術者グループ」育成の任務が重くのしかかってきたのである。その頃の電通には、いまで言うコピーライターやアートディレクターといった専門職は皆無に等しく、電通の存在を高めていくためには、いきおい、ほかに抜きん出た広告表現の技術を示すことが急務だった。新井は回顧する。

「筆者(新井)が電通に入社したのは昭和二二年だった。企画部というところだった。それが間もなく宣伝技術部になった。筆者が入ったときには図案家が四、五人いただけで、文案を書く人は一人もいなかった。商品に図案をを配しただけの簡単な原稿づくりで、必要な文案は図案家が連絡の人と打ち合わせて、片手間に書いていた。

制作スタッフの拡充が最初の仕事だった。デザイナーの方は、まがりなりにも次第に補充ができたが、コピーライターの方はどこにいるのか見当もつかなかった。

やむを得ず、養成していくことに決めた。入社希望者やこちらから声をかけて、集まった学校卒業者の中から数人を選び、実地の勉強をしてもらいながら、にわか養成を始めた」(『コピーライター』誠文堂新光社)。

広告八火賞の審査風景。新井が開会の辞を述べた(昭和29年)
広告八火賞の審査風景。新井が開会の辞を述べた(昭和29年)
 

井はそのほか、技術向上の対応策として、「電通ニュース」などの広告技術に関する機関誌の発行、「広告八火賞」といった社内コンクールへの応募の奨励、あるいは外部のすぐれた技術グループとの交流などを積極的に進めていった。こうした活動を進めるにあたっては、それまで新井の培ってきた広い人脈と現場で磨いた長年の経験が大きくものをいったことは言うまでもない。それに、もうこの頃になると、新井の守備範囲は彼本来のコピーライターの域をはるかに超えている。これは、周囲の事情が新井に要求したことでもあろうが、いわば、電通クリエーティブにおける総合的なディレクターあるいはマネジャーとして機能しているのである。

ここで、手持ちのスタッフの力不足を補うため、外部に応援をもとめて新井が結成した「技術グループ」について、触れておこう。先ず新井の記憶から・・・。

「電通技術グループは、技術者ばかりではなく、熱心な広告人を集めた。親睦を兼ねた研究団体であった。その中から仕事をしてもらえる方を選んで、新聞広告やポスターやその他いろいろな物の制作をお願いした。山名文夫、大橋正、伊藤憲治の諸氏にも依頼したが、何でも気安く頼める存在として、岩本氏は貴重だった」(『広告をつくる技術者たち』)。

ここに登場する岩本氏とは、山名文夫に私淑して資生堂に入り、戦時中は山名と行動をともにして「報研」に所属したデザイナーであるが、新井が協力を依頼した中心人物山名文夫の著書『体験的デザイン史』には、こんな記述がある。

「電通に、技術グループという集まりが発足したのは、それから間もなくだった。新井さんがそのころ常務だった吉田秀雄氏に提案して賛成を得たもののようである。その吉田氏に見込まれて“スカウト”されたとみられる森永製菓の新井静一郎氏は、まだかけ持ちの多忙な勤めの中で、電通のクリエーティブ体制を整えるのに、まず外部の協力を求めようとしたのが、この技術グループの発想だったのではなかろうか。企画部のデザイナーは当時わずか数人にすぎなかったようである」。

また、三越の元宣伝部長で作家でもあった宮崎博史は、電通の委嘱を受けて書いた『緑野ふたたび─戦後十年広告の物語』の中に、こう書き記している。

「終戦後間もない22年7月、電通の会議室で、〈電通技術グループ〉というささやかな会合が行なわれた。これは戦前から広告一途に生きてきた、宣伝広告の企画、技術のエキスパートの集まりであった。ただそれとなく意見や情報の交換を行なう小人数の集会であった。これは新井静一郎氏を中心とした集まりである。第1回のメンバーは山名文夫、遠藤健一、新保民八、小山栄三、二渡亜土、伊藤憲治、大橋正、岩本守彦、古口謙二、村上正夫の諸氏に司会の新井静一郎氏、それにどうしたことか私が入っていた。私以外は実に全部『広告の鬼』である。新井氏は終戦直後電通に入社していたのだ。このメンバーは、毎月第1土曜日の午後2時から4時まで集まって、固苦しい規約もなく、会員の資格なども全く自由で、一杯のお茶を飲みながら懇談に楽しい時間を過ごした。

…会員は増える一方で、いつ頃からか毎回ゲストを迎えて有益な話を聴くようになった。しかもゲストは、次回から会員となることが多かった。この会合は延々今日もなお続いている」。

そして、そのゲストの中には、殖栗文夫、藤本倫夫、土居川修一、今泉武治、川崎民昌、三井由之助、板橋義夫、青木清、島田晋などがいる。

元「報研」のメンバーたちとは定期的に会合を重ねた
元「報研」のメンバーたちとは定期的に会合を重ねた
 

宮崎の印象では、「一杯のお茶を飲みながら懇談に楽しい時間を過ごした」「ささやかな会合」と映ったようだが、どうしてどうして、宮崎の言う「ゲスト」を含めると、当時の広告界を代表する「錚々たる」人びとの集まりなのである。新井は、この会合でさりげなく司会者として納まっている。しかし新井の心底には、これらの人びとの内、有力な何人かにぜひ「電通技術グループ」の一員として協力して欲しいという切迫した気持ちがあったに違いない。それを感じさせない和やかな雰囲気をつくって、会を進めた新井のリード振りもまた見事というほかない。すぐれたコーディネーターでもあった、新井の腕の冴えをみる思いがする。

ただ、この「電通技術グループ」の会合は、ひとり電通の新井にとって「頼りになる」仲間つくりに寄与しただけでなく、ほかの参加者にとっても、新情報の入手、友人の輪の広がり、新人の育成といった思わぬ副産物を生んだようである。前記、山名文夫は、こうも書いている。

「…今でも覚えているのは、リーダーズ・ダイジェストの殖栗文夫氏がアメリカの百貨店その他のギフト用包装紙を何十種も収集してきて見せてくれたことである。こんなにたくさん実物を見ることができたのは初めてであり、全く“おどろき”であった。この包装紙のコレクションは別に展示会が持たれたと思う。

野村證券の遠藤健一氏は、この技術グループが取り持ってくれた友人のひとりである。学究肌の実践家といった、広告人としてうってつけの人柄で、その座談の折々にも、文章の節々にも、それが裏打ちされたキメのこまかい、説得力のある語り口で、教えられるところが多かった。

…いま一人親しくなった人に島田晋氏がいる。三菱銀行がいわゆる財閥の解体で千代田銀行と改名することになったころ、その本店の広報担当になって、氏自身の言に従えば『広告のことは西も東もわからないので、電通へ知恵を借りにいくと、新井氏から技術グループで勉強するようにすすめられた』そうである。その勉強ぶりはたいしたもので、たちまち金融広告の一つの典型をつくりあげ、戦後派とは思えない“大型新人”として注目されるようになったのである」(『体験的デザイン史』)。

(文中敬称略)

◎次回は3月30日に掲載します。

プロフィール

  • Fukagawa1
    深川 英雄

    1935年生まれ。東京外語大卒。コピーライターとして電通入社。在社中「違いがわかる男のゴールドブレンド」などを起案。クリエーティブディレクター、クリエーティブ統括局次長などを経て、駒沢女子大教授を務めた。広告学会、広報学会、映像学会会員。著書に『キャッチフレーズの戦後史』(岩波書店)、『キャッチフレーズ事典』(電通・共著)など。

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