電通を創った男たち #34

広告クリエーティブの
「水先案内人」新井静一郎(6)

  • Fukagawa1
    深川 英雄

宣伝技術者として戦後初めてアメリカへ

 

昭和26(1951)年9月1日、わが国初の民間ラジオ放送局が誕生。第一声は大阪の新日本放送、名古屋の中部日本放送からあがった。ちなみに、民間テレビ局の開局は、その2年後、昭和28年8月28日の日本テレビ放送網が最初である。

電波時代の到来を迎えて、ようやく広告業界も活況を呈しはじめるが、民間ラジオ開局の翌年、昭和27年6月、新井は全米広告連盟の招きをうけ、初めてアメリカの土を踏む。新井はこの時、宣伝技術部長。同行者は、ミツワ石鹸衣笠静夫副社長、森永製菓稲生平八常務(いずれも当時)であった。対日講和条約が調印された翌年のことである。その頃のことを回顧して、新井は雑誌『ブレーン』(昭和51年7月号)にこう書いている。

ナイアガラ瀑布を見学中の新井。左は森永製菓の松崎保専務
ナイアガラ瀑布を見学中の新井。左は森永製菓の松崎保専務
 

「私は昭和二十七年五月に、初めての渡米をした。戦後広告関係者がアメリカへ行き出した最初のころだった。広告技術に席を置くものの渡米としては、あるいは私がいちばん最初だったかも知れない。全米広告連盟の招きを受け、電通から派遣をされたのだが、おもな目的はアメリカ広告事情の視察であった。ニューヨーク、シカゴを主にして、滞在は四十八日間だったが、すべてが新しい見聞で、それをなんとか消化すべく無我夢中の毎日だった。向こうにいる間に書き送った報告と、帰ってきてから書いた諸原稿をまとめて、『アメリカ広告通信』という一本にし、電通から刊行したのが二十七年の暮れのことだった」と。

事実新井は、渡米中に当時の『電通週報』に「アメリカ特信」「アメリカ便り」といった記事を精力的に送っている。また帰国後は、同じ『電通週報』に写真入りで「新井氏のアルバムから」を連載しているが、話は、広告大会の模様はもちろん、ニュ-ヨークの野球場、エンパイヤ・ステートビル、五番街のネオンサイン、シカゴの百貨店などにおよび、これがすこぶる面白い。

ところで、渡米中の事情について、もう少し新井の話を聞いてみよう。

「アメリカへ行ったのは日本広告会へ、全米広告連盟の大会があるから日本からも誰か来ないか、という案内状がきまして、吉田社長がそれを見て、おまえ行けということになった。…電通としても二十六年に奥村さんという、その頃の調査局長、いまでいうマーケティングの関係の人が、初めて電通としてはアメリカへ行ったわけです。二番目に僕が行かされたわけですね。広告技術者としてアメリカへ戦後行ったのは、僕が一番早かったんじゃないかと思います。それだけにいろんなことを頼まれまして、今泉さんなんかもそうなんですけれども、、大変難しい注文を箇条書きにしてよこしまして、少なくともこれだけのアートディレクターに会えというので、たしか四、五人の名前が書いてあった」(『日本のアートディレクション』)。

そして、新井たちはニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルで4日間にわたって開催された全米広告連盟の大会に出席。遠く、日本から来たということで、大変歓迎される。しかし、一体どこへ行って、誰に会って、いちばん知りたいアメリカの広告事情を尋ねればいいのか、皆目見当がつかない。すると幸いなことに…

「その会議の途中でマッキャンエリクソンのフーバーという会長が不意に肩を叩きまして、おれの所へこないか、いろいろ便宜をはかってやるよということを言われたわけです。これ幸いとばかりに、その会議が終わった直後に訪ねていきまして、そのマッキャンエリクソンからいろいろな方面に紹介してもらったり、また電話をかけてもらったりすることによって、やっとルートができたということでニューヨークADCの副会長フランク・ベーカーにも会いました」(同上)。

渡米中に寄稿した「米国だより」
渡米中に寄稿した「米国だより」。

さらに新井は、日本を発つ前に「ぜひこの人に会ってくれ」と今泉に頼まれていたシカゴの百貨店マーシャルフィールドのアートディレクター、フランシス・オーエン女史(彼女は第29回、第30回のアートディレクターズ・クラブ賞を受け、新井の参加した48回大会では“最高の広告婦人”として表彰されている)にも会うことができ、日本から持っていったB全判ポスター数点を提供、思わぬ好反応を得ている。そしてその後、マッキャンエリクソンのクリエーティブ組織を見学できたこと、ウオルター・トンプソンのアートディレクターに組織つくりの実際を教えてもらったことは、新井にとって、なによりの収穫であったと言えよう。というのも、当時の新井にとっての最大の関心事は、アートディレクターの職能とはなにか、アートディレクター・システムはアメリカではどのように機能しているか、ということであったからである。

「アートディレクターはそれぞれの個室がありまして、そこにでーんと構えているわけです。コピーライターのほうは大広間の所にグループ制で四、五人か十人位の単位でグループができていて、AE(アカウントエグゼクティブ)との接触の面が強いものですから、個室に納まりかえってはいられないというような所があるわけです。面白いと思ったのは、代理店の中にいるアートディレクターの部屋が、それぞれ模様を変えて、意匠を凝らして、個性を出しているわけですね。

…結局自分が仕事をする机と、それからあと何人かの人と打合せをするそういう応接室だけがある、というような所ですけれども、年中出入りが激しくて、忙しく立ち働いているという感じがありました」(同上)。

そして、新井の帰国後刊行された『アメリカ広告通信』は、四六版でわずか124頁の小冊子であったが、当時の広告界に思いがけないほどの刺激と反響を呼んだ。特に、アメリカ広告業界と広告人の社会的地位の高さ、科学性と信頼性の重視、広告技術者に対して払らわれる敬意、さらにはアートディレクター制の実態に具体的に触れた点が広く注目された。この著書の中で新井は、アートディレクターの実態に詳しく触れた後、なぜアメリカで、アートディレクターが生まれたかを、以下の3点にまとめている。それは、①広告活動の個性的表現の重要性、②綜合統一する責任者の必要、③経営者と宣伝技術者を結ぶ紐帯、である。「紐帯」とは、二つのものを緊密に結ぶ意であるが、ここには「アートディレクター斯くあるべし」という新井の願望もこめられていると思える。新井は書いている。

新井の帰国を伝える「電通週報」の記事
新井の帰国を伝える「電通週報」の記事
 

「私が訪ねた或る会社では、一人のアートディレクターが社長室に入ってきて、社長と平気で仕事の話をしていた。日本では、デザイナーが社長と話す機会など殆どないと言っていいのに、向こうでは社長とアートディレクターが話し合うのは当然の事であり、しかも広告表現のこみ入った話に対して批評をし合っている風景は、私には美しいとも、又羨ましいとも思えたのであった。
表現技術の中心がハッキリしていることと、責任の中心が組織の中枢にいるのを見て、これでなければいい仕事は出来ないと思ったのである」。

「組織の中枢にいて、社会活動の個性的表現の軸心をなしているアートディレクターが、アメリカ全体では二千人以上もいるのに、日本にはこれにピタリと該当する人が一人もいないという事実は、果たしてこれでいいのかと、私を考え込ませずには置かなかった。
広告活動において、アートをディレクトする仕事が無関心に放置されているが、これこそ日本の広告界の最も大きな盲点の一つではないだろうか。
現実に、その立場を認められずにアートディクターの仕事をしている人が、私の知っている範囲でも何人かいる。
こういう人達を正しい位置につけ、経営者と宣伝技術者とを結ぶ仕事をさせる事が、今忘れられている大切な部分なのだと、私は痛感させられたのである」。

これらの文章を読むと、当時の日本の広告クリエーティブ界にとって、アートディレクター制の導入が喫緊の課題であったことがよく分かる。それと同時に、行間からは、新井の苛立ちと怒りさえも伝わってくる。

(文中敬称略)

◎次回は4月5日に掲載します。

プロフィール

  • Fukagawa1
    深川 英雄

    1935年生まれ。東京外語大卒。コピーライターとして電通入社。在社中「違いがわかる男のゴールドブレンド」などを起案。クリエーティブディレクター、クリエーティブ統括局次長などを経て、駒沢女子大教授を務めた。広告学会、広報学会、映像学会会員。著書に『キャッチフレーズの戦後史』(岩波書店)、『キャッチフレーズ事典』(電通・共著)など。

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