電通を創った男たち #35

広告クリエーティブの
「水先案内人」新井静一郎(7)

  • Fukagawa1
    深川 英雄

大きかった『アメリカ広告通信』の衝撃

 

さて『アメリカ広告通信』である。この著書が世に出ると、間もなく何人かの広告人からの好意的な反応が寄せられた。まず、新井をアメリカに派した当の本人、吉田秀雄が序文を書く。

「今年六月全米広告年次大会に招かれて彼の地に遊んだ時の通信を纏めて此の著を公にされることになったのだそうだが、常時その通信の一部とも思はれるものを同君から私は、正確に隔日毎に航空便で受け取った。

その内容は一便毎に私の驚異を増した。
広告人として宣伝技術家としての特異な而も抉るような眼識で、現代アメリカの社会、文化、経済界の種々相を繊細巧妙な筆であっさりと浮き彫りにしてある。

AFA年次大会の開催を伝える「電通週報」の記事
AFA年次大会の開催を伝える「電通週報」の記事

特に注目された点は、アメリカに広告宣伝活動というものの知識が既に完全に国民の常識となっており、一切のものの経営が此の活動なしには考えられないという事実と、更に此の活動そのもの並にこれに従事する人々の価値が一般に非常に高く評価されているということが、通信文の全部の基調をなしているということだ。勿論国情が違う、従って何か遠い昔の国の話のように思われ勝ちになるが、今迄出版された多くのアメリカ視察記とは凡そ類型を異にしているだけに、読む人々にとて裨益される所少くないと考えられる」。

この序文、誰よりも広告の近代化とその社会的地位の向上を願い、またそのことに心血をそそいだ吉田らしい真情が率直に吐露されている。吉田こそ、この『アメリカ広告通信』の出版をいちばん待ち望んだ広告人のひとりではなかっただろうか。

ちなみに吉田は、宣伝技術局のトップバッター・新井静一郎を広告の先進国アメリカへ送った1年後の昭和28(1953)年2月、国民新聞記者から電通に転じ、来るべき電波ビジネスの将来を牽引すると目された木原通雄(当時ラジオ・テレビ局次長)を、テレビ事情視察のため、同じアメリカへ送っている。将来を見すえた吉田の慧眼、推して知るべしである。

次に、社外からは、今泉武治が『電通月報』に次のような批評を寄せた。
「たいへん気楽に読めた広告通信である。しかし、気楽に読めたあとの感じというものは、けっして軽いものではなかった。

きわめて平静で、独断におちいるまいという慎重さが行文の隅々までに読みとられるし、短い旅行ではあったが、広告の国にいった広告専門家のお土産はさすがに違う、と思わせるものが文章のいたるところにある。…著者のもっともいいたかったことは、専門家を尊重せよ、ということであり、アートディレクター制への主張であろう。アートディレクターの代理店内部における組織と活動ぶり、マーシャルフィールドのオーエンス女史の仕事の詳しい報告、などを読んでも、アメリカの広告の実態にふれる思いがした。

缶詰料理のような、多くの広告概論書にあきあきしたわれわれにとっては、たいへん栄養のある新鮮なご馳走であるし、間口も中々ひろく文章の簡明な点、広告への啓蒙の書としても薦めたい本である」。

続いて山名文夫は、こう評する。
「この本は電通から出版され、私は装釘のお手伝いをした。出来あがった本を届けられて、私はむさぼるように読んだが、なかでもアートディレクターの立場や仕事に関する記事には、殊のほか感銘を受けた。書かれていることがらはもちろんであるが、新井さんがそれを書きながら、わが国の広告界をふりかえっては『こんなことであってよいのか』とつぶやいたにちがいない気持ちを読みとって、それが私を感動させたのであった」(『体験的デザイン史』)

『アメリカ広告通信』(復刻版)
『アメリカ広告通信』(復刻版)

さらに気鋭の広告写真家・金丸重嶺からは、読後感を便箋14枚に綴った長文の手紙が届く。

「流麗な書き方で思わず一気に読ませていただきました。感想を申し上げるならまず一番に感じましたことは、『新しい二つのニュース』に始まった書き初めから、次々に映画のようなスピードをもって、新鮮なオランジュを真二つに割った様な快ろよい快感を得られたことです。

また、その省略法や会話のとり入れ方、それにもまして『眼のつけ処』の面白さ、これは貴兄の立場からの『眼』の位置が判っきりして、ズームレンズを使った画面効果にあらわれた様に、ロングからクローズアップの視覚統一が特に判っきりと私達の頭に刻まれたことです。

よけいな機会にとらわれず、みるものの基礎が一つに、堅牢なトライポートの上に据ったカメラの移動描写の様に、安心させられて読ませていただいたことです。

…ともかくも56頁までは、つぎつぎにニュースフラッシュの様に貴兄の眼がいろいろと興味と知識を与えていただきました。広告大会もこれで初めて実態が判りました。テレビの問題もやはり日本と同じ様なことが問題として残っているのかと、これで初めて人間の考えは余り違わぬものだと知ったことです。

…いずれにしても近頃になく楽しみつつ知識を与えて下さった貴兄の御仕事は、この一冊で充分に外遊の目的を、また責任を果たされた立派さだと皆様も感じられることでしょう」。

こうした好評に励まされて、新井は求められるままに、電通をはじめ各所で、帰朝報告会を行なった。新井のアメリカ行きと『アメリカ広告通信』の出版は、当時の広告クリエイティブ界にとって、それ自体がひとつの事件だったのである。

この小冊子の出版とほぼ同時期に開催された、新井の「帰朝報告会」を聞いた資生堂の中村誠の感想が、当時の広告関係者の興奮をよく現わしている。以下に引いてみよう。

「一九五二年七月、新井静一郎氏のアメリカ広告視察の『帰朝報告会』が電通銀座ビル8階で開かれた。既に海外の雑誌や日常品のデザインが、私達の目を驚かせていた時代だが、新井氏の一言一言がすべて新鮮で強い展望論として私達の胸をうった。ことに勤務デザイナーの組織的な広告実務にかかわるアートディレクターの存在が紹介され、それは、日本ではまったく新しいシステムであり、広告作りに不可欠な、画期的な問題提起であった。

…新井静一郎氏が出版した『アメリカ広告通信』が多くの人に読まれ、しばらくはその話題が私達の間で尽きることがなかった」(『中村誠の仕事』中村誠・講談社)。

新井はアメリカで見聞きした最新情報を次々と伝えた
新井はアメリカで見聞きした最新情報を次々と伝えた
 

中村の言うように、新井の紹介したアートディレクター・システムは、その後各企業の広告宣伝部の制作体制に確実に影響を与え、この2カ月後の昭和27年9月には、志を同じくする広告技術者を糾合して、東京アートディレクターズクラブが誕生するのである。

新井のアメリカ広告事情の紹介と『アメリカ広告通信』の出版は、戦後の広告界に対する新井の最大の貢献と言っていいだろう。

(文中敬称略)

◎次回は4月6日に掲載します。

プロフィール

  • Fukagawa1
    深川 英雄

    1935年生まれ。東京外語大卒。コピーライターとして電通入社。在社中「違いがわかる男のゴールドブレンド」などを起案。クリエーティブディレクター、クリエーティブ統括局次長などを経て、駒沢女子大教授を務めた。広告学会、広報学会、映像学会会員。著書に『キャッチフレーズの戦後史』(岩波書店)、『キャッチフレーズ事典』(電通・共著)など。

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