電通を創った男たち #36

広告クリエーティブの

「水先案内人」新井静一郎(8)

  • Fukagawa1
    深川 英雄

電通の新井から広告クリエーティブ界の新井へ

 

新井が2カ月弱のアメリカ視察から帰国し、『アメリカ広告通信』を世に問うてから、新井の周辺は、にわかに騒々しくなっていった。特に、先述したように、それまでは知らなかったアメリカ広告界のホットな情報を知りたいという要望が、広告業界の各所から起こり、この頃の新井はいわば「引っ張りだこ」の状態であった。新井の帰朝報告に刺激されて発足した東京アートディレクターズクラブの成立などは、新井のアメリカ視察の具体的な成果の一つと言ってもいいだろう。

新井はその後、その活動範囲を電通だけにとどまらず、広告クリエーティブ界全体に広げてゆくことになる。

もちろん、その後の新井が電通社内の仕事を疎かにしていたということでは決してない。そのころ、技術部門の総責任者・宣伝技術局長になっていた新井は、帰国後早速、電通社内にアートデイレクター・システムを導入、デザイナーの質の向上、コピーライターの養成(当時、正規なコピーライター養成所は一つもなかった)に加えて、アートディレクターに相応しい人材の育成にも力を入れる。そうした中から中井幸一、小林泰介、田保橋淳などといったすぐれたアートディレクターや近藤朔、角南守道、太田勝也、吉田隆一、及川惣吉などといった、いままでにないタイプのコピーライターが育っていった。そしてこのアートディレクター制は、やがて電波と印刷メディアの両方をカバーするクリエーティブディレクター・システムに発展していく。

昭和23年7月に開催された第1回広告電通賞贈賞式
昭和23年7月に開催された第1回広告電通賞贈賞式
 

また、昭和22(1947)年12月に、広告表現の質的向上をめざして、吉田電通社長の提唱によって創設された「広告電通賞」を、その初代事務局長として実質的に運営したのは、他ならぬ新井静一郎であった。 

ここで、帰国後の新井が、その創設にあたって大きな貢献をした東京アートディレクターズクラブ(ADC)のことにも触れておこう。というのも、ADCは、その1年前に結成された「日宣美」(日本宣伝美術会)とならんで、戦後の広告技術史を語る上で、避けて通れない存在だからである。

まず、当時「日宣美」の委員長でもあった山名文夫の話から…。

「東京ADCの結成が、新井さんの帰国後、時をうつさずに実現したのは当然であった。日ごろ考えていたことの“裏付けが取れた”と行動を起こしたというわけであろう。だが、ことは慎重に運ばれた。アートディレクターもひとまず広告の畑にしぼって、会名にも“アド”の字句を挿入した。会員も、会社の広告担当者で、前記Aグループ(ADC結成前に朝日新聞広告部の肝入りで集まったグループ)の人とか、日本広告会の人とか電通技術グループの人とか、つまりいつも顔を合わせている範囲の17人という少人数であった。翌年には少し輪をひろげて22人となったが、その翌年昭和29年、最初のPR展〈芸術と経営を媒介するもの〉を開いた。アートディレクターというものの立場や職能をはっきり知ってもらいたい運動の第一歩であった。翌年、矢継ぎ早やに第2回展〈経営に表現を与えるもの〉を開いて、さらにその徹底をはかった」(『体験的デザイン史』)。

続いて東京ADCの発足にあたって、その設立主旨と規約の草案を書いた今泉武治は、こう回顧する。

「日本の広告界も少しずつ回復のきざしを、みせてくる。朝日新聞の広告部では、一九五一年に岡本敏雄の肝入りでAグループをつくり、川崎民昌、黒須田伸次郎、祐乗坊宣明、今泉武治などが集まってこれからの広告やアートディレクター制についての熱い討論をたたかわしたものだった。

電通の技術グループでも新井静一郎、藤本倫夫、川崎民昌、今泉武治などとアートディレクターの話が出はじめていた。そうした時に新井静一郎が全米広告連盟の大会(一九五二年)へ電通から出張ということになる。われわれは早速、アメリカで調べてもらいたいことをいっぱい書き出して頼んだ。新井はアメリカをむさぼるように吸収して日本へ帰ってきた。

…新井の帰国直後に、アートディレクターについてのアメリカのホットな情報を聞くためにわれわれは集まった。早速そこで、日本にアートディレクターの会をつくろう、ということになり準備にとりかかった。

世話人として、藤本、土居川、川崎。主旨・規約の草案は今泉と決まる。八月二十九日に第一回打合せ会を開き、十七名の会員を推薦し、九月五日創立総会を開く。ADC創立の反響は、まださして事業が進行していなかったのに、広告関係者や評論家からの激励の声が多かったことはまったく予想外だった」(『アート・ディレクション・ツデイ』美術出版社)。

ADCの第1回PR展会場
ADCの第1回PR展会場

では、当の新井は当時なにを考えていたのか。昭和57年の『ADC年鑑』(美術出版社)に見てみよう。新井はその中に「東京ADC・あれから三〇年」を書いている。

「あれからとはもちろん、東京ADCの結成の時からである。結成は昭和二十七年(一九五二)の九月であった。創立当時の会員数は十七名であった。

その僅かな人名を見ると、今でも強い感慨を覚えずにはいられない。アートディレクターの存在とその必要性とは、頭の中では私たちにも分かりかけてきていた。しばらく前から何人かの手によって研究が行なわれてきていたし、私も結成の年の春にアメリカに渡り、ニューヨークでアートディレクターの活躍振りを実際に見てきていた。

しかし会員の人選を始めて、アートディレクターの一応の人間像をあてはめて見ると、大体に重なり合う人間というのは、なかなか見出しにくかった。

アートディレクターにいちばん近い存在は、なんといってもグラフィックデザイナーである。しかしデザイナーならアートディレクターになれるかというと、決してそうではない。デザイナーにはない能力とか本能を、併せ持たなければならない筈である。

しかもその特殊な能力は、コピーライターにも、プランナーにも、プロデューサーにも持てる。数は少ないかも知れないが、管理者の中にもいるに違いない。

私たちは、その人の実際の業績のほかに可能性の計算をしなければならなかった。半ば手探りの状態ではあったが、今までのデザイナーとは異なる機能を持つものだということを示したかった。──このようにして、組織はささやかながら、自負と誇りは大きく持って、東京ADCは発足した」。

いかにも新井らしい緻密かつ誠実な対応ぶりだが、後に広告デザイン界であれだけの影響力をもった東京ADCが、発足当時わずか17名で出発したということには驚きさえ感じさせる。それだけメンバーを厳選したということでもあったろう。東京ADCは、発足当時、先行する「日宣美」との小さなトラブルはあったものの、その後展覧会の開催、機関誌の発行、年鑑の発刊など、活発な活動を通じて大きな跳躍を示す。日本におけるアートディレクター輩出の土台となったのである。そして、昭和38年には、ライバルであった「日宣美」からすぐれたグラフィックデザイナー8名を迎え入れ、いっそうの充実を果たした。新井は言う。

「今までの(日宣美との)多少のわだかまりや不安を捨てて、私たちは喜んでこれらの人たちを迎え入れることができた。陣容が整い、行動力に幅と活気がいっそう出てきたように思われた。この頃から、作品に裏打ちされたアートディレクティング活動が著しく評価を高めたことは事実である」(『広告のなかの自伝』)と。

そんなわけで、戦後の広告クリエーティブ界での新井の活躍を総括するのは容易ではない。電通での仕事はもちろん、上記、日宣美や東京ADCだけでなく、新井がその創設や運営に深く関わった団体や会は、東京コピーライターズクラブ、東京広告協会、日本広告技術協議会、朝日広告賞など多岐にわたる。

一時は、「行動表をつける小さなノートを持っていたが、ひと月前から毎日の時間割が決まってしまう。ひどい時には同じ時間に二つも三つもの予定が重なる。顔を出すのが精一杯で、会議に出席しても最初は何の会議なのかが分らず、話の進行を待ってやっと趣旨が分るということなどがしばしばあった」といった多忙さであった。まさに「困った時の新井さん」「広告クリエーティブの水先案内人」の面目躍如である。「今振り返って見るとただやたらに忙しかっただけで、仕事をしたという実感は少しも残っていない」と新井は謙遜しているが、広告クリエーティブの世界で、新井の残した足跡は間違いなく大きかったと言えるだろう。

そこで、最後になるが、戦後広告界の「長老」的な存在であった全広連事務局長・長沢千代造の言葉を借りて新井の業績と人となりを偲びたい。

「…拙老は昭和二十二年の春、故吉田秀雄氏から、日本広告会という職場を与えられたが、それより一足先に新井さんも電通へ入社し、しかもお互いの仕事が楯の表と裏に等しい内容だけに相互の交遊は頻繁だったが、当方は満州育ちの田舎者、人心の先取りをねらう広告技術等は全くの素人、万事同氏の教えを乞うことしばしばだったが、ただ一度何が原因か忘れたが自席で立ち上がり、『そんなことをいうなら即刻やめたまえ』と一喝された(恐らくご本人は覚えていまい)。

約四分の一世紀に等しい長い間に、同氏が腹を立てた姿をみたのは後にも先にもこれが一度だけだった。

アートディレクター・クラブのフランク・ベーカー副会長と
アートディレクター・クラブのフランク・ベーカー副会長と
 

…今日まで各方面の関係事業活動に参加し、電通の新井というより広告技術界の新井としての存在の方が大きく輝いていればこそ、今次褒章授与者(新井は昭和45年に藍綬褒章を受章する)に選ばれたわけだ。また同氏が美校出身とか特技を持つ専門家でなく、慶大経済学部出身というところに人間としての真の価値がある。

それは、同氏のあたたかな人情味と、何人に対しても終始変わらぬ行き届いた態度によって構成された豊富な人徳のしからしむるところ、今日すでに電通の現役は離れても、広告界から寄せられる信望は決して揺ぎない」(「全広連報・新井さんの受賞に寄せて」)。

〈 完 〉

(文中敬称略)

プロフィール

  • Fukagawa1
    深川 英雄

    1935年生まれ。東京外語大卒。コピーライターとして電通入社。在社中「違いがわかる男のゴールドブレンド」などを起案。クリエーティブディレクター、クリエーティブ統括局次長などを経て、駒沢女子大教授を務めた。広告学会、広報学会、映像学会会員。著書に『キャッチフレーズの戦後史』(岩波書店)、『キャッチフレーズ事典』(電通・共著)など。

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ