電通を創った男たちNo.104
電通営業マンの代表
根本軍四郎の生涯(3)
2015/09/19
電通時代〈1〉 入社から連絡部長昇格まで
根本軍四郎が電通に入社したのは昭和35(1960)年4月で、当時の電通は旧来のスペースブローカー的な広告代理店から脱皮し、マーケティングにはじまり、クリエーティブ、メディア・ミックス、セールス・プロモーション、PRに至るトータルな広告戦略を広告主に提案しうる代理店を目指して、第4代吉田秀雄社長が着々と改革を進めていた時期であり、優れた人材確保のため、大学新卒者を定期的にリクルートしはじめた時であった。
入社後、最初に配属されたのは当時の営業局中央部で朝日新聞、産経新聞を担当、若いころから新聞社幹部ともコミュニケーションを図り、媒体側の多少無理な依頼でも単に無理として切り捨てず、工夫を凝らし電通社内でも調整力を発揮してなんとか営業化出来るよう常に努力を重ねた。結果として「根本はなかなか頼りになる男だ、若いに似合わず説得力もある」と新聞社内に根本シンパの人脈を着々と広げていった。
また、種々の企画を立て新聞社に提案、実現させた。中でも産経新聞と組んでつくりあげた「世界一周視察企画」は、産経新聞に年間一定量以上出稿した広告主を世界一周視察旅行に招待すると言うスケールの大きなもので、軍四郎自身もアテンド要員として同行することになっていた。しかし企画が実現したのはすでに第八連絡局に異動した後であり、別の産経新聞担当者が参加することになった。残念ながら発案者である軍四郎は旅行には行けず「いやー、世界に見聞を広げるチャンスを失ったよ」と笑っていた。
昭和42年7月に軍四郎は第八連絡局に異動となり営業マンとしてのスタートをきった。担当した広告主はトヨタ自動車であった。その後、連絡総務特別連絡部、第四連絡局を経て再び第八連絡局と、各連絡局で服部セイコーをはじめ数々の重要広告主を担当した。特に服部セイコーとは関係が深く、同社の軍四郎に対する信頼は抜群であった。てらいのない誠実な営業活動と、けっしてハッタリや、見えすいたお世辞を言うわけではなく、本音で話す彼のセールス・トークが「根本の言うことなら間違いなかろう」との信頼感に結びついたのであろう。
昭和50年10月、軍四郎は第三連絡局連絡部長に抜擢された。38歳の若さであった。当時の第三連絡局長は筧一生城で、彼は自局に三菱グループの広告主を集めて担当したいとの強い念願を持っていた。筧は三菱グループ各社が数多く社屋を構える丸の内で精力的に活動し、「丸の内のロレンス」と渾名されていた。根本部が担当する広告主は三菱信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)をはじめ、三菱商事、三菱重工業、三菱自動車などであったが、レギュラーとしての取り引きがあるのは三菱信託銀行くらいのもので、部として月の扱い額も2000万に満たなかった。部員は筆者(松浦)を含めて4名であった。たしかに担当広告主としてはビッグなクライアントが名を連ねてはいたが、どちらかと言えば電通嫌いの広告主が多く、第一企画(現アサツーディ・ケイ)、三友エージェンシーなどがメインの広告代理店として出入りしていた。しかし、三菱信託銀行は筧局長が永年自ら担当し非常に大事にしてきた広告主でもありまた電通嫌いのクライアントをいかにして取り込んでゆくか、筧の軍四郎に対する期待は大きかったに違いない。

それだけに若い新任部長の軍四郎は強いプレッシャーを感じていたであろう。当時の第三連絡局は古参のベテラン部長が多く、局長の筧より先輩の人も少なくなかった。それにもかかわらず軍四郎はけっして部員に愚痴をこぼしたり、弱みを見せることはなかった。むしろ部員の方が扱いを増やそうとして焦るようなことがあっても「あたふたしても仕様がないよ。チャンスは必ずくる。その時に思い切って攻めよう。もともと失うものはないんだから、これは大変な強みだよ」と泰然としていた。
また、軍四郎は社内の協力部門(マーケティング局・クリエーティブ局・媒体局など)と常にコミュニケーションをとり、根本人脈を築いてゆくことを忘れなかった。このことは後々広告主に対しプレゼンテーションを実施する際、プロジェクトチームづくりに大いに役立った。
「先様はなにしろ天下のスリーダイヤ(三菱)だからネ。力でごりおししたんじゃ嫌われるだけヨ。なんか今までとは違うアプローチを考えようや」と軍四郎は話していたが、電通嫌いの広告主に対しても決してガツガツ扱いを欲しがるとか、ペコペコするでもなく、また電通のスケールやパワーをひけらかすこともなかった。
当時、社会現象として「総合商社は巨大すぎて、その本体が完全には見えないし仕事の内容もわかりにくい」という商社にとってはマイナス・イメージが醸成されつつあった。その様な時期に三菱商事を担当した軍四郎と筆者が同社の広報室(広報・宣伝担当部署)を訪問したある一日、彼が残した次のような会話が印象に残っているので出来るだけ正確に記してみたい。
「今は、電通もパワーとスケールの大きさだけで商売が成り立つような時代じゃないですよ。第一、それだけで勝負出来るなら、大相撲なんて体がデッカクて力のあるやつが毎場所優勝する筈だしネ。やっぱり知恵がなくちゃ、それには勉強ですよ。お得意さまのことをよく勉強させてもらって信頼をちょうだいしませんとネ。なにしろ勉強させてもらいます。信頼していただいてこそ、はじめてスケールとパワーが生かされるわけですから。(やや間をおいて)ところで最近、世の中へんな風評が出始めて商事さんも企業イメージづくりに大変なんでしょうね。総合商社ってわれわれも含めて世間一般の人には奥がふかすぎてなかなか理解しにくいところもあるし。御社の社員の方々なんか仕事をこなしてゆく上で、どんな企業イメージを会社に創ってもらいたいと思っているのかな、一度その辺を含めて御社内と外部から、しかるべきグループをいくつか選んで座談形式でブレストでもやってみませんか、われわれの勉強にもなるし。うちのマーケも少しはお役に立てるかもしれません。企画書作ってみてご提案しましょうか」。帰社後早速マーケティング局の協力を得てプロジェクトチームを立ち上げ、企画書を作成提出した。
結果、企業イメージ調査企画が実施される運びとなり同社の月刊英文広報誌『M・Cニュース・レター』の編集・印刷というレギュラー扱いも獲得することに成功した。地味ではあっても広告主が一番取り組んでゆかねばならぬ課題を把握しアプローチした軍四郎の営業姿勢の現われであろう。
やがて三菱自動車でもチャンスが到来した。新車のテレビスポット・キャンペーンの競合プレゼンテーションへの参加である。「よし、思いきった提案をしよう。電通はもともと扱いがないんだから恐れるものはなにもない」軍四郎の日頃培ってきた媒体局とのコミュニケーションづくりが役立つ日がきた。テレビ局も「根本の頼みだ、少しの無理は聞いてやろう」と大いに協力してくれた。結果は億を超える扱いの獲得である。しかも永年の念願であった他代理店からの扱い奪取であった。
根本部は総勢で5名、家族のような感じがあった。毎晩のように全員でアルコール文化に浸り、大いに語り合った。当初はやや暗い感じのあった部員も軍四郎のリーダーシップによりまとまりのある明るい部になっていった。軍四郎が幼少時に学んだ「生長の家」の谷口雅春の「心の持ち方で、その人を取りまくすべての環境が変わる」と言う教えがいかされたのではないだろうか。
昭和53年11月、軍四郎は第七連絡局局次長兼連絡部長となる。当時の第七連絡局長は成田豊(後に第9代社長)であった。さらに翌年には連絡部長兼務を解かれ局次長専任となった。成田局長の軍四郎に対する信頼感は非常に大きなものであった。軍四郎はこの時期、局次長とはいかにあるべきかを考察した。局次長と言う役職はなかなか難しい立場で、特に専任局次長ともなると下手をすれば浮いた存在になり全く機能しなくなる恐れがある。それでは無用の長物といわれても仕方がない。軍四郎は「局次長とは局長の意を体し局員との意思疎通を計り、局内の風通しをよくすることを心掛ける。また、対広告主の立場では、連絡部長のバックストップとして動き、最も良いタイミングで局長の出番を作る」と自らのポジショニングを明確にした。このことは彼が局長になった時、いかに局次長を機能させるか、その活用の巧みさに表れる。
(文中敬称略)
◎次回は9月20日に掲載します。