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日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(16)

イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― №34

  • 鏡 明

2016/12/04

日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(16)

二足の草鞋を履く― 石上三登志[後]

 

二つの職業を持つことを、二足の草鞋を履くと言う。あまり良い意味で使われることは無いように思う。一つの仕事を全うするだけで十分に大変なことなのだから、当然と言えば当然だ。余分な仕事を持つことにより、本業がおろそかになることを戒めているように思うのだけれども、私の場合、学生の頃から物書きをやっていたので、電通が二番目の仕事になる。本業と言われても、どちらが本業なのかわからない。

石上さん
石上さん

電通に入ってわかったのだけれども、二足の草鞋の人は何人もいた。今村さんもその一人だった。小田桐昭さんは世界で最も優れたクリエイティブ・ディレクターの一人だが、同時に素晴らしいイラストレイターである。小田桐さんの同期だったと思うが、藤田誠さんは、カトゥーン・アーティストだった。一コママンガということですがね、電通に入ってから、描くのを辞めてしまった。唯一に近かったマーケットの「漫画讀本」が無くなったからだと言うけれども、藤田さんは一コママンガをやめたことを後悔しているように思えた。私に書くのをやめるなよと何度も言ってくれた。

その意味では、私は二足の草鞋を履き続けやすい環境にあったのだろう。今でも二足の草鞋を履き続けているように思う。半世紀近い間、二足の草鞋ということになるのだが、そのためにいくつかのルールを決めていた。たいしたものでは無い。ただ一つだけ、複数の草鞋の間に壁を作る。これだけは守るようにしていた。

妙な言い方になるけれども、どちらかの仕事が行き詰まったときに、別の方をやることで行き詰まりを解消できたりすることがある。それらが一緒になってしまうとそう言ったことが起きなくなるのではないか、そう思ったのだ。

実際には、電通の仕事は基本的にチーム作業であり、物書きの仕事は個人作業である。意図的であろうがなかろうが、仕事の質が本質的に違う。だからわたしは、自分たちのCMを作品と呼ぶのは違うと思っていた。それは仕事と呼ばれるべきものだ。どちらにしろ、わたしの場合は、二足の草鞋を履くことは双方の仕事の助けになっていたように思う。

今村さんの場合はどうだったか、『ヨミスギ氏の奇怪な冒険』という作品がある。1978年に雑誌に連載されたものだけれども、この4月に単行本化された(盛林堂ミステリアス文庫)。

作者曰く「フィクションエッセイ」というものだけれども、要は小説とエッセイを融合させたもの。石上三登志、つまり今村さんの子供時代の思い出や、電通での仕事を小説に仕立てている。自伝のように思うかも知れないが、実在の人物だけではなく、小説や映画の登場人物まで出てくる、それだけでは無くそうした虚構の世界に入り込んでしまうという石上三登志らしい仕掛けが楽しい。

『ヨミスギ氏の奇怪な冒険』
『ヨミスギ氏の奇怪な冒険』

この作品の中にこんな台詞が出てくる。
「とにかく、両方やってりゃ、どっかが狂ってくるわけさ。会社、やめようかなぁ」。

その台詞から数ページ後に、
「たいした仕事をやっているわけじゃ無いが、でもテレビ・コマーシャルの製作も、ちょっと遅れて雑誌への投稿から出発した映画評論稼業も、どちらも好きだからやっているのだった。好きだからこそ、手を抜きたくは無く、そう思われるのもいや」。

私はこの作品を連載中に読んでいたのだけれども、こうした部分は全く覚えていなかった。読みなおして初めて気がついた。そうか、映画評論と電通と比べれば、前者を取るという気持ちもあったのか。それは意外だった。けれども、次に引用した部分の方が今村さんの本音に近いような気がする。というのは、今村さんから二足の草鞋を履くことのつらさを感じさせるような言葉を聞かされた記憶が無いからだ。今村さんの言葉は、それがどのようなことであれ、基本的にポジティブなものだったように思う。二足の草鞋を履いたからには、それを最後まで全うするのが当然、そう信じていたように思えた。

ことにそれらの仕事が映像に関わるものである限り、そのどちらかを放り出す今村さんというのは、私には想像できない。

石上三登志というペンネームが登場したのは60年代の半ばからと記憶しているが、石上三登志が本格的に活動を始めたのは1970年代に入ってからだろう。1970年から1979年までに出版した本は6冊。「刑事コロンボ」などの翻訳を含めれば10冊以上の本を書き上げているし、雑誌の連載や評論などさまざまなものを執筆している。

この間の今村さんの仕事を見ると、1970年にはサッポロビールの三船敏郎のシリーズを始めている。74年にはIBAのゴールドだったと思うがナショナル・ハイトップの「人造人間」、この年には、「刑事コロンボ」の翻訳を三冊出している。77年には岸恵子の「マリーム」、『吸血鬼だらけの宇宙船』と『手塚治虫の奇妙な世界』を出版。78年にはカーク・ダグラスの「マキシム」、薬師丸ひろ子の「資生堂口紅」、この年には共著の本を一冊、二本の連載、『映画宝庫』を一冊、編集している。

『吸血鬼だらけの宇宙船』
『吸血鬼だらけの宇宙船』

1980年代になると、役職が代わり、現場よりも管理職としての仕事が増えたのだろう。今村さんの仕事は減ったように見える。石上三登志の仕事も70年代ほどの量では無くなったように思う。もちろんそれはわたしの個人的な印象で、実際には、石上三登志の本は何冊も出ているが、それでも雑誌連載は減ったように思う。

少々強引だけれども、二足の草鞋を履くことは、今村さんにあっても、明らかに相乗効果があったのでは無いかと考えている。

今村さんの自宅に何度かお邪魔したことがあるが、いつもその膨大なビデオテープの数に圧倒された。あるとき、そのテープの中に、当時オンエアされていたテレビドラマの録画を見つけたときに、思わず、え、こんなものまで見ているんですか? そう尋ねたことがある。今村さんの答えは、当然だ、というものであった。そして、あなたは見てないの? そう問われて、絶句した。すみません。全く見ていません。

この人は、映像作品が本当に好きなのだ、それがどのようなものでも。

映画「KRONOS」のポスター
映画「KRONOS」のポスター

「KRONOS」という1957年にアメリカで製作されたSF映画がある。モノクロです。アメリカの映画評では、それなりに評価されていたものだ。私は、それをニューヨークの中古ビデオ屋で掘り出したのだけれども、実際に見たら、これが酷い代物だった。巨大なUFOがアメリカに飛来し、アメリカ軍はそれを撃墜してしまう。ところが、UFOが墜落した海から、金属製の巨大なロボットが現れ地上の街を蹂躙していく。ロボットと言ったけれども、全体像ははっきりとは見えず、巨大な金属シリンダーがビルや車を踏みつぶしていくシーンしか記憶に無い。

この映画が評価されたのは、どのような攻撃もそれをエネルギーに変えて吸収していくというこれまでに無い形の侵略者というアイデアのおかげなのだけれども、どうなんだろう、私が見た時点では、その手の侵略者はさほど珍しいものではなくなっていたし、何よりも映像そのものに不満を感じていたのだ。で、このビデオの話を今村さんにしたら、絶対に見たい、すぐ貸せ、と言われた。何日かしてビデオを返してもらったときに、どうでしたか? そう聞いたらば、よく出来ていると思うよ。意外な高評価。少しびっくりした。今村さんは本当に映像が好きなのだ。そう思った。それだから、私には見えないものを見ているのだろう。もう一度、そう思った。

『ヨミスギ氏の奇怪な冒険』には、もう一つ発見があった。石上三登志の仕事を電通のチームが手伝っているというシーンが出てくる。小田嶋さんもOさんという形で登場する。

私自身は既に書いたように、電通の仕事と物書きの仕事は、明確に区別していた。もっと言うならば、クリエイティブの仕事と、SF関連の仕事、音楽関係の仕事は、はっきり分けるようにしていた。深い理由があるわけではない。結果として共通する仕事仲間は少なかった。

今村さんは、私とは全く別のやり方をしていたように見える。どちらが良いということではない。なるほどそういう方法もあったのか。そうは思う。ただ、二足の草鞋が融合していくと、逃げ場が無くなるように思う。私が引用した部分が示しているのは、そのことではなかったかと思う。当然のことだけれども、単純に負荷が大きくなっていくのは避けることが出来ない。

それでも、今村さんの場合、二足の草鞋は、クリエイティブの面でもうまく機能していたように思える。今村さんの代表的なCM「レナウン・イエイエ」は、欧米のミュージカルやコメディからインスパイアされたものであり、「男は黙ってサッポロビール」は、黒澤明、三船敏郎の組み合わせから来ていると、今村さん本人が語っている。

私の場合は、そういう経験はほとんどない。パナソニックの「ルーカス・キャンペーン」は、確かに「スター・ウォーズ」が大好きだったから、何としても実現したいと思っていたのは、たしかだけれども、それは私がSFのプロであったことは無関係だ。「スター・ウォーズ」のファンであれば、誰でも思いつくだろう。いや、もちろん、思いつくことと実現することの間には大きなちがいがあるが、そこでも私のSF体験が有効だったとは思わない。

大先輩の仕事について、何か語るというのは僭越だけれども、今村さんの仕事にはいつもどこかに映画があるように思う。「日曜洋画劇場」で「レナウン・イエイエ」を初めて見たのは、10代の終わりごろだった。60年代の終わりごろから70年代にかけての「日曜洋画劇場」には、松下電器、サントリーといった当時の日本のクリエイティブを代表する大作CMが並んでいた。その中で「レナウン・イエイエ」は、明らかに異なったテイストを持っていた。

松下電器やサントリーのCMは、たとえばわたしが大好きだったアメリカの60年代の広告を感じさせるところがあったり、言ってみれば、CMの文法に沿って作られていたように思う。アイデアを中心に作られていた。けれども、今村さんの仕事は違っていたように思う。

今村さんの仕事には、映画を感じさせるところがあるとしたけれども、もう少し具体的にいうと、どこか長い物語の、つまり映画のワンシーンを取り出しているように思えるところがある。それらの物語は今村さんの頭の中にしか存在しない映画だが、ちゃんとした形で見たいものだと思っていた。そして、1986年に石上三登志は、映画「竹取物語」のシナリオを書いている。それは、当然のようにわたしには思える。

現在では、澤本嘉光や高崎卓馬が劇場映画のシナリオを書いていたりするわけで、CM業界と映画業界はかなり近い関係にあるように見えるが、石上三登志/今村さんは、その先鞭をつけたことになる。

日本のCMの初期には、多くの映画関係者たちが、この業界に流れ込んでいた。撮影スタジオもほとんど映画会社の撮影所だった。今村さんは、CMの側から映画に入っていった最初の人間のひとりだった。

今のウエブ・ムービーを見ると、今村さんがいたらどうしただろう。そう思うことがある。ようやく時代が今村さんに追いついてきた。いや、今村さんが必要な時代がやってきたように思う。

今村さんとわたしの唯一の仕事は、中止になった都市博用の大型映像の制作だった。フルCGの3Dでプロデュースが電通プロックス、フランスのCGプロダクション、ADとシナリオがフランス人、ディレクターがポーランド人、CDはわたし、この国籍が入り乱れたチームに、今村さんは総合プロデューサーというかたちで参加してくれた。いろいろおっしゃりたいことはあったと思うが、それは最小限にとどめて、わたしのバックアップに徹してくださったように思う。

それでもさまざまな場面で今村さんのアドバイスで助けられたことがあった。

参考にすべき映画や映像の話になると、シナリオライターもディレクターも今村さんの意見に敬意を払って接していた。フランスのチームのメンバーにとって、そこにいるのは、今村昭というプロデューサーでも石上三登志という映画評論家でもなく、自分たち以上の映画に対する知見を持ったクリエイティブの人間であるということだったのだと思う。

白熱していく議論を聞きながら、わたしは、今村さんの履いている二足の草鞋が、どこか一つになっているのを感じていた。それはもしかすると今村さんが理想としていた状態なのかもしれない。そして石上三登志として最初に知り、今村昭という電通の大先輩として知ることになったわたしにとっても、それらが一つのものとして感じられた貴重な瞬間だったように思う。

(文中敬称略)

〈 完 〉


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。