加藤菊造と「営企」の青春譜(7)

イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― №41

  • 濱田 逸郎

2016/12/17

加藤菊造と「営企」の青春譜(7)

営企5年の軌跡

 

1985年12月。帝国ホテルで営企の5周年パーティーが開かれた。

草創の時代の苦難を乗り越えてきた営企はこれまでにいくつかの新しいビジネスモデルを生み出し、さまざまな種がまかれていた。

岡田芳郎が先駆けたコーポレート・アイデンティティー(CI)はこの年4月のNTTとJTの民営化にあたってのCIの成功を引き金に産業界にCIブームのうねりを巻き起こしつつあり、アサヒビールの復活劇の幕を開くCIは、まさに導入準備に追いまくられていた。このビジネスはこれまでの電通になかったコンサルティングによるフィービジネスに道筋をつける業務だった。

新しいCIマークでNTT発足
新しいCIマークでNTT発足
オーストラリアへのハレー彗星観測ツアーでは1000人におよぶ観光客が「ハレー特急」に乗って観測地に赴いた
オーストラリアへのハレー彗星観測ツアーでは1000人におよぶ観光客が「ハレー特急」に乗って観測地に赴いた

1986年に地球に大接近するハレー彗星に着目し「日本ハレー協会」を設立、英国の同協会と連携し各社のキャンペーンを核にムーブメントを起こそうとする動きは、自然現象をテーマとする斬新さ以上に、知的所有権をビジネスシーズとするという意味でこれまでにないユニークな取り組みであった。アメリカのレーガン政権がプロパテント政策として知的所有権による競争力強化に乗り出したのが1985年のヤングレポート以降だということを考えれば、知的所有権への本格的な取り組みは国際的に見ても新しいといえるだろう。

営企では田原総一朗、泉真也、阿久悠などの有識者を中心に外部メンバーを集め、継続的に研究会を開催していた。菊造はよくこれらの研究会に顔を出し、応援を欠かさなかった。

この中では、田原総一朗を中心とする研究会のメンバーを集め、1985年9月に開催したテレビ朝日アーク放送センター竣工記念シンポジウムが好評を博し、この年の大晦日から元旦にかけての深夜の時間帯に放送された。視聴率も好調であったことから、これがそのままテレビ朝日の「朝まで生テレビ」に発展する。舛添要一もここから世に出ていった。

博覧会事業の巨星である泉真也のグループは、それぞれ1989年に全国各地で開かれた市政100周年を記念する地方博の中核プランナーとして活躍している。平城遷都1300年記念事業で「せんとくん」を生み出し、ミラノ万博では日本館のプロデューサーとして金賞を獲得、全広連の日本宣伝賞に輝いた福井昌平もここから育っていったひとりだ。

菊造が自身で走り回っていたスポーツプロジェクトは、軌道に乗った国際女子マラソンなどのマラソン大会の他に、ツールドフランスに範をとった自転車選手権や、生まれたばかりの新体操、はてはゲートボールまでさまざまな新しいスポーツの可能性を模索しつつあった。

5周年パーティーはそんな時期に次の飛躍に向けての気勢を上げる機会のはずだった。

しかし、前の週に加藤菊造は異動の内示を受け、局員のほとんどはその情報を知り衝撃を受けていた。

世界コミュニケーション年の切手デザインコンクールで田丸秀治社長と松田聖子さん
世界コミュニケーション年の切手デザインコンクールで田丸秀治社長と松田聖子さん

微妙な空気の中、パーティーは開催された。あいさつでは菊造を惜しむスピ-チが続く。

乾杯では岡田芳郎が「かとうきくぞう」の7文字を織り込んでゴルフコースを回りながら作ったという「営業企画局のソネット」を読み上げた。このころの営企の明るく自由な雰囲気を汲み取っていただけるだろうか。「ぞ」の字を織り込むむずかしさが伝わり、ぎごちない座に思わず知らずみんなの笑顔がこぼれた。

 けだした5年前
 んだりすべったりした5年間
 らないはいつも凶
 めわざはいつもホラ

 るひとゆくひとめまぐるしく
 うきんがけとわかれなみだのかわくまもなく
 れしいこともイヤなことも
 とうきくぞうにみんなぶつけた5年間

 りわけ大きなできごとは
 っとはきけの男所帯のこのへやに
 らびやかなる女性陣 どどっどどっと なだれこんできたことでありました

 るくるまわれ時間の輪
 るくるもどせ5年前のあの出発の緊張に
 っとするつなわたりが快楽
 んだけはつよいぼくたちだから

顔をあわせよう これからも
家族のように いがみあいながら
うらないはいつも吉
きめわざはいつもホラ

営企の次の発展が見えているだけに菊造は残念だったのだろう。次の任務への不安感も大きかったに違いない。心ならずも感極まった菊造は絶句して涙を流し、乾杯を受けてのあいさつができなくなってしまった。

後段に至り、落ち着きを取り戻してマイクの前に立つ。
感傷的になったためだろうか、ふだんは自らを語ることのまったくない菊造が、誰もが知らない少年時代の思い出を語りはじめた。

敗色濃くなった太平洋戦争末期、軍国少年であった菊造は、折から募集していた霞ヶ浦の少年航空兵に応募する。14歳以上という条件に1歳サバを読んでの応募であった。
入営に際し年齢が未達であることが発覚した菊造少年はそのまま小樽に帰されることになる。

「北へ帰ろう」や「津軽海峡冬景色」を歌うときいつもその脳裏には一つのシーンが浮かんでいたという。霞ヶ浦から帰され、これから青函連絡船に乗ろうという時、万歳の声で送られた小樽駅頭の情景を思い出すと、おめおめ北海道に渡ることの逡巡とやるせない思いから、堰を切ったように涙が流れたという。不覚にも人前で涙を流したのはそれ以来のことのようだ。

結局、逡巡を振り切り母親の懐に帰ると、すでに電報で海軍からの知らせを受けていた母親は大喜びで迎え入れてくれたという。

菊造は多くを語らないし、断定的な物言いはしないが、おそらく人生の岐路に立って逡巡したとき、この時のことを思い出し、勇気をよみがえらせて一歩を踏み出してきたのが彼の生き方だったのだろう。

いままた、新しい任務に向かうとき、再び逡巡を捨てチャレンジしていこうとの思いから、この時のことを話したのかもしれない。事実、加藤菊造がこれから挑戦するのは、これまでの電通にはない困難な任務であった。

(文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。