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加藤菊造と「営企」の青春譜(8)

イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― №42

  • 濱田 逸郎

2016/12/18

加藤菊造と「営企」の青春譜(8)

最期の奮闘

 

1986年1月27日電通とNHKエンタープライズほかの出資により、株式会社総合ビジョンが設立され、加藤菊造は社長に就任した。
これに先立ち1月18日に朝日新聞が報じた「NHK・電通が提携 ~プロダクション設立へ」の記事は業界に大きな波紋を呼んだ。

後にNHK会長となる実力者・島桂次専務理事の主導で作られたこの会社は、さまざまな憶測の的となった。NHK民営化の第一歩ではないか、NHKがいよいよ営利事業に本格進出するのではないかなど、電通と密接な関係を持つ民放各局は警戒心とともに成り行きを凝視している。

新会社の事業目的は放送やビデオなどへの映像素材の提供、ハイビジョンや文字多重放送などニューメディアのソフト開発、スポーツなど各種イベントの企画実施などなどである。
NHK、電通からそれぞれ3名の出向者を中心に業務を開始した。

日経産業新聞は菊造のインタビュー記事の中で菊造のことを、「電通の“企画屋”のボス的存在。『人と会って話の中から新しい発想を見つけるのが最高の楽しみ』と気軽に人と付き合うことが趣味であり、仕事に生きている」(1986/04/19 日経産業新聞)と紹介している。

NHKの島専務理事はNHKの営業体質の転換を意図して仕掛けたのであろう。しかし、発足時の業務内容は具体性を欠いたままスタートし、日夜6人のサムライによる車座の議論で社の行く末を語り合ったという。

総合ビジョン設立パーティーでの6人のサムライ。左端が加藤菊造、右端は森隆一
総合ビジョン設立パーティーでの6人のサムライ。左端が加藤菊造、右端は森隆一
 

電通、NHKという異業種間のJVであり、業務の基本動作を含めて多くのギャップを乗り越えなければならず、菊造の行く手にはさまざまな苦難が待ち構えていた。

菊造とともに出向した森隆一によると、当初中核事業に考えていたハイビジョン関連開発作業は、NHKが直ちに事業化できるような環境に育ってないことが明らかになり、たちまち頓挫したという。

森はNHKの番組周辺のイベントや博覧会、国際会議業務などなんでも引き受けた。折から注目を集めていたウォーターフロント開発やリゾート開発の海外事例のビデオを制作し、電通の助けも借り、企業への売り込みを図った。また、NHKのみならず民放の番組制作に携わるなど、利益が期待できれば社員一同なんでもやったと回想する。菊造はその人脈と電通との関係をフルに生かし、受注活動に励んだ。局長時代と異なり、サポートスタッフがいないだけに一人で走り回らなければならないのだ。営業力に期待されている以上、なんとしても黒字化させなければならない。

そうこうするうち、買い付けた海外の映画作品の多くに、商品化が難しいという作品のレベル問題が起こり、そのリカバリーで菊造はかなりの負担を強いられた。ご家族によるとこの時期の菊造は夜になると自室にこもり、朝になると灰皿に吸い殻がいっぱいになっていたという。

森隆一が六本木のスナックで一緒に飲んでいると、決して口には出さないが、つらさがにじみ出ていたという。
菊造のつらさは仕事のせいだけではなかった。実はこの時、すでに病魔に冒されていたのだ。

ある日帰宅した菊造の顔が蒼白だった。本人は学生時代のスキーの古傷が痛むのだと思っていたようだが、診察してもらうとすぐに胃がんだと判明。本人には告知せぬまま直ちに前田外科入院して手術。しかし予後は芳しくなかった。微熱と痛みに耐え、モルヒネを処方されながらの闘病生活が続く。胃の全摘手術も行ったがその甲斐もなく、最後はつらさのあまり自分で救急車を呼んで慈恵医大に入院し、そのまま加藤菊造は逝った。

1988年12月2日。58歳だった。

後日営まれた葬儀では、後に電通の社長・会長を務める成田豊常務が次のような弔辞をささげた。

「加藤君きみは誠実の人でした、きみはいつも人の集まる中心点に立っていました。きみの立つところに人は集まり会話がはずみ、そこから新しい仕事やヒントがうまれました。その真ん中にいてきみは寡黙におだやかな笑みを浮かべていました。(中略)きみはどんなときにも男らしく立ち向かい、果実を手にしたとき部下に惜しみなく分かちました。きみの人生はグラスに満たされた味わい深いブドウ酒でした。きみは良い香りとともに生きる陶酔を友人たちに与えました」。

今回の連載をまとめるため、秋の一日、川崎にある墓に詣でた。高津区にある緑ヶ丘霊園に隣接する寺に菊造は葬られている。緑ヶ丘の側面に作られた墓苑の最上部にある墓から見下ろすと、ふもとに向け墓石が連なっている。ちょうどジャンプ台のスタート地点のような場所だ。
日根野眞弓は「加藤さんの仕事はずっとジャンプのようなものだったのでは」と言う。

着地点は定かには見えない。失敗して叩き付けられることもあれば、K点越えの優勝もある。恐怖を抑え勇気を振り絞っていつも全身で踏み切っていたのが加藤菊造だったのかもしれない。
常にKPIを意識し失敗の懸念があれば踏み切らない昨今の風潮からは考えられないような決断を重ねてきたのが加藤菊造だった。

そういえば、緑ヶ丘の地名はどこかで見たことがある。
幼少時の小樽には多くのジャンプ台があった。そのうち最も早くできたのが緑ヶ丘シャンツェ。小樽高商(現:小樽商科大学)の敷地に作られたこのジャンプ台では、大正12年第1回全日本スキー選手権が開かれ、日本ジャンプ競技発祥の地とされている。菊造もいくたびかこのジャンプ台を飛んだことだろう。ジャンプ台を思わせるこの永眠の地は菊造にふさわしい。

こどものころからジャンプに親しみ、仕事もジャンプ精神で取り組んできた加藤菊造の魂は、その願いの通り北へ帰り、小樽の中空を飛翔しているのかもしれない。

〈 完 〉

この原稿は、多くの方へのヒアリングを中心にまとめました。ご協力くださったみなさまに厚く御礼申し上げます。

(文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。