デジタルの旬 #05

「ネットことば」がもたらす、

500年に一度のことばの大転換

~小説家・藤原智美氏

  • 1503 fujiwara pr
    藤原 智美
    小説家
デジタルの旬
 

芥川賞作家の藤原智美氏は、今年1月刊行の著書「ネットで『つながる』ことの耐えられない軽さ」の中で、「書きことば」に代わる「ネットことば」が人間の思考の根本を変えつつあると指摘、「つながらない」勇気を持つことを提唱した。ネット化のもたらし得る弊害は日本だけでなく米国の識者らからも指摘されている。ネット化の「陰」の側面について、小説家の視点から藤原氏に語ってもらった。
(聞き手: 電通デジタル・ビジネス局計画推進部長 小野裕三)

 
  藤原智美氏_1955年福岡市生まれ。「王を撃て」で小説家としてデビューし、1992年に「運転士」で芥川賞受賞。その後、小説創作の傍らドキュメンタリー作品も手掛け、「『家をつくる』ということ」「家族を『する』家」「暴走老人!」などが話題に。ネット関連の著作として、「ネットで『つながる』ことの耐えられない軽さ」「検索バカ」「文は一行目から書かなくていい~検索、コピペ時代の文章術」などがある。
 

藤原 智美 氏

1955年福岡市生まれ。「王を撃て」で小説家としてデビューし、1992年に「運転士」で芥川賞受賞。その後、小説創作の傍らドキュメンタリー作品も手掛け、「『家をつくる』ということ」「家族を『する』家」「暴走老人!」などが話題に。ネット関連の著作として、「ネットで『つながる』ことの耐えられない軽さ」「検索バカ」「文は一行目から書かなくていい~検索、コピペ時代の文章術」などがある。

 

 

■ 集合知にはならない、コピペだらけの「ネットことば」

 

——著書では、「書きことば」でも「話しことば」でもない、いわば第3の言葉として「ネットことば」を提唱されていますが、そういう捉え方をするようになったきっかけは何ですか。

藤原電車の中で誰もがスマホを使っている様子を見た時、それは明らかに自分とはずれているという感覚を持ったことがきっかけです。そのずれは、単に私の携帯電話の使い方が遅れているといった問題だけではないだろうと感じました。

——生理的違和感がきっかけなのですね。「ネットことば」は「生みだしたことばへの反省的思考が大幅に欠けている、あるいはすぐに忘れさられてしまう」と書かれていますが、ネットでの言葉自体が自省や深みに欠けるという意味でしょうか。

藤原大きく捉えればそうです。ただ前提となるのは、言葉は自律的ではなく他律的に、外部の状況に応じて変化していくということです。最も近い変化は500年ほど前にあったグーテンベルグの活版印刷をきっかけにしたもの。そして次がネットでしょう。今の社会には、ネットが言葉自体を変えていくという視点が欠けていると考えています。

——「ネットことば」では「私のことば」と「他人のことば」の境界が希薄化しているとも指摘されていますが、そのような状況も言葉自体の変化が理由でしょうか。

藤原言葉は本来個人に根差したもので、個人の自己を表現するもの、あるいは他人の表現を受け取って理解するものです。それが今は「つながる」ツールになっています。つながることが主軸になり、自己の表現がサブになると、当然、個と個の垣根は低くなりますよね。さらに「コピペ」という道具がその垣根をもっと低くしています。2005年が一つの転換期でしょう。当時、「姉歯事件」がありました。構造計算が手書きからソフトに替わり、大変だった計算がパソコンというブラックボックスの中で簡単にできるようになりました。また同時期に、複数の大学で論文の偽造が発覚しました。それらの事件は全てコンピューターが関わっており、デジタル化した言葉でコピペされ、偽造されたわけです。やがて「人類が生み出したネットという英知を利用してなぜ悪いの?」という空気が生まれ、「知」を独り占めしているのはよくないという雰囲気が強くなっていきました。

——確かにネットはもともと、みんなで知恵を出し合っていいものをつくるという「集合知」の発想が根本にありますね。

藤原コピペされた論文は集合知ではなく、単なるデータの集積でしかありません。それらが解析され、新しい何かを生み出さなければ集合知にならないのです。いろいろなところで集合知といわれていますが、その姿は具体的には見えておらず、なんとなくつながっているというイメージでしかない。

——緊急時など、必要な時に必要な情報を瞬時に広く届けられるといった「ネットことぱ」の軽さや早さがむしろよいという側面もあると思います。

藤原リアルなつながりが他にあって、それとは次元の違うつながりがネットにあるからいいだろうという考え方は確かにあります。ただ、しっかり弁別しているといっていても、仮想と現実は簡単に入れ替わります。構造計算の偽造も、デジタルな仮想空間における改造が現実世界に大きな影響を与えたし、最近のネットを利用した論文偽造も現実に社会問題化しました。ネットとリアルとで分けられない部分が出てきて、生活や社会で現実が浸食されていくかもしれません。そこにどのように折り合いをつけていくか、われわれはまだ分かっていないと思います。

——ネットにおける反応や考え方が「短絡的」で「暴走しやすい」とも書かれていますが、その原因は「ネットことば」にあるとお考えですか。

藤原「ネットことば」が「話しことば」の悪い部分を継承しているからだと考えています。私自身、酔った勢いで人にメールをして後悔したことが何度もあります(笑)。一方、手紙でけんかをするのは大変です。手紙には、書いて、切手を貼って、住所を調べて、投函して、といった物理的なハードルが幾つもありますから。ネットではそういうハードルがほとんどありません。

■ 言葉は断片化し、本の時代が終わり、社会の景色も変わる

 

——印刷された言葉は、「ことばとの距離感が近く、それをたどることに静かな興奮を覚える」とも書かれていますが、ネットの言葉と、印刷された言葉には質的な違いがあるということでしょうか。

藤原例えば長編の物語を読む時、言葉は他人とはつながることなく完結し、自己の中に深く入っていきます。それに対してネットの言葉は散漫で拡散的です。本が「井戸」だとすると、ネットは「海」です。井戸は1人1本ずつ掘られていますが、海は個の垣根がよく分からない融合したような状態で、言葉の質が違います。例えば電子書籍です。「ネットことば」だけで発想され生み出された本は、従来の「書きことば」の本とは全く違うものになっているでしょう。ケータイ小説がその萌芽だったと思います。ケータイ小説はリアルなゲームみたいなもので、内容よりも作家と読者、読者同士のつながり感に意味がありました。携帯の画面に収まる100文字程度の作品と読後感がつながっていくことに価値があったのです。

形の違いでいえば、ネットでの言葉は短文化するだろうと思います。最近、箴言(しんげん)やアフォリズムのブームで、誰かの言葉が並んでいるだけのビジネス書があふれています。文脈と関係なく、それだけ抜き出して解釈し、なんとなく分かったような気になるという形です。簡単に読めて、小さな画面の中で完結することが大事なわけです。

——確かにツイッターなどを見ていると、ちょっと気の利いた一言を書いている人が受けたり、一方でちょっとした失言を捉えて一気に炎上する傾向もあるように感じます。どちらも短い言葉を捉えて反応している点は同じですね。

藤原今後、そういったコピーフレーズのようなものが、言葉として価値があるとされる可能性はあります。ドストエフスキーの「罪と罰」みたいな大作は受け入れられなくなります。もし私が企業の管理職なら部下に「全ての企画は100文字でまとめられなければダメだ」と言うでしょう。

——ツイッターは短くて軽いからこそいいのだという見方もあります。過剰なレトリックを省いて単刀直入に自分の意見を言わなければならないので、結果としてその人の「素」の部分が出るという意見です。

藤原ツイッターでは、その人の素は出ていない気がします。ツイッターの世界やルールに自己を順応させて言葉を発信するからです。他者のための言葉は、例えば日記のように自分の井戸に入っていく言葉とは全く違うと思います。だからこそ、ツイッターでは成りすましも可能なのです。ツイッターとは99%が言葉を使った遊びだと捉えています。

——歴史を遡ると、言葉をめぐる人間の在り方は決して不変のものではありません。例えばソクラテスは「書きことば」を有害な発明だと見なしました。それ以後も、長い間音読することが普通で、今のように「書きことば」を黙読する行為は長い歴史を持っていません。

藤原同感です。昔は、書店で大声を出して本を音読して立ち読みしているおじいさんもいましたね。そんな時代からまだ50年もたっていません。だから、今の本の形がこれからもずっと続くとは思いません。それでいいかどうかは別の問題ですが。

——「情報社会は情報の処理と効率的運用にはたけていますが、反面、言語感覚や語彙は細ってきているようにみえます」とも書かれています。そもそも言語感覚自体が貧しくなっているということでしょうか。

藤原例えば文字変換予測のソフト。携帯で「あ」と入力すれば「ありがとうございます」と出る。パソコンも、予測変換で今一番使われている言葉が出てきます。そうすると、自分のボキャブラリーではなく、社会に合わせた言葉を使うようになってしまいます。

世の中ではビッグデータも話題になっています。この状況が進むと、常に自分の言葉はオープンであるという認識を前提に自己表現していくことになり、言葉がパーソナルなものではなくなる可能性が生じてきます。個人的な言葉とオープンな言葉を分けて使うと言いながら、結局それができなくなるかもしれません。

——ネットにつながっていると気が散りやすいとよくいわれます。そのことは、深い思索や創作の妨げとなるのでしょうか。

藤原ネットにはものすごく誘惑があります。書いている最中に分からないことがあれば、かつては図書館に行かなければならなかったのですが、今はネットで検索すればすぐに分かります。そしてついつい、他の余計なものを見てしまったりもします。私はネットを拒否しているのではなく、ある一定時間、ネットを断ち切るべきだと思っています。個人が何かを生み出すためには個人の時間と忍耐が必要で、それがないと思考は散乱し、断片化して、短文化するようになります。

——ネットにつながることには弊害のある一方で、おっしゃるように調べものがしやすくなったメリットもあると思います。

藤原ウィキペディアの存在は大きいですね。百科事典には記載のない新しい事柄を調べるのに役立ちます。そこに真実があるかどうかは別問題なのですが、何でも出てくるので、どうしても使ってしまいます。

少し話は変わりますが、これから世の中で何がなくなっていくかと考えたとき、まず図書館がなくなると思います。ネットで調べられますし、いずれ電子書籍で見られるようになります。その次は学校。いずれ縮小されていく可能性があります。教科書はタブレットに移行していくので授業はネットで行われ、週1回登校という学校も出てくるかもしれません。このように言葉だけではなく、ネットによって社会の景色や空間自体も変わっていきます。

■ 出版文化を発展させた入力デバイスの進化は、次に何を生むか

 

——ネット化とデジタル化とは重なる部分がありながらも基本は違うものです。例えばワープロ登場以来のキーボードでの文字入力はデジタル化の典型で、そのようなデジタル化は肯定的に捉えていらっしゃるようですね。ご自身はワープロが出てきた時には違和感はありましたか。

藤原むしろ面白くて仕方なかったです。紙で書いていた時代は、原稿用紙を切り貼りしていましたが、ワープロが出て変換や編集が簡単になりましたので。今でも私は、長い文章は1行目から書かずに編集していきます。1行目から書くというのは作文教育の弊害だと思います。ワープロは印刷できるというのもうれしかったですね。手書きではなく活字になるということが新鮮でした。

——キーボードで書くと“ライターズ・ハイ”が起こりやすいと著書にあり興味深かったのですが、それはやはり早く入力できるということが理由でしょうか。

藤原そうです。ランナーズ・ハイと一緒です。実際に、米国では19世紀にタイプライターが一般化した時に小説が急速に発展しました。そして日本ではワープロやパソコンが出てきて、長編小説が増えました。

——なるほど、入力デバイスの変化が出版文化に貢献したわけですね。ケータイ小説は書くのも携帯の画面なので、河原で横になってとか、布団にもぐってとか、そんな書き方をする人もいたそうです。これからウエアラブルなどいろいろな端末が増えたり、音声入力が進化したりして入力デバイスが変われば、また言葉も変わっていくのでしょうか。

藤原変わっていくと思いますが、言葉も形式も変わっていくので、どんなものになっていくのか想像できません。まさに携帯メールやLINE、ツイッターなどのように、「話しことば」的表現が「書きことば」として流通するかもしれません。これは今までになかったことです。

——「ネットの記憶機能で、これからは記憶するという行為そのものが時間の無駄とされるかも知れません」とも書かれていますが、そうなることで記憶力が弱まり、さらには思考力も弱まる可能性はあるのでしょうか。

藤原例えば、カーナビの出現によって空間認知などの能力が甘やかされ、退化をもたらした可能性はあります。言葉もそれと同じ状況だから検索を頼るのだと思います。論文で結論まで無断引用してしまうのはその結果でしょう。

——一方で、検索によって記憶しなくてよくなったことを肯定的に捉える意見もあります。記憶に費やされていた時間や負担が軽減され、その分をより創造的なことに使うことができるというものです。

藤原例えば工場がオートメーション化して、単純で退屈な作業から人間が開放され、よりクリエーティブな仕事ができるようになるという話が過去にもありました。しかし、実際はそうなっていない。記憶しなくていいということが、考えなくていいという方向に進んだのでコピペの問題が生まれているのです。

——もう一つ、今のネットの在り方に適応した知性が生まれるという意見もあります。流れていく大量の情報を高速でスキャンしていくような、今までにない新しい知の姿が生まれる、あるいは生まなくてはいけないという意見です。

藤原それは人間ではできないので、ソフトの力を借りてやるのだと思います。人間の思考というものはトランプゲームの「神経衰弱」に似ていると感じています。つまり、離れたところにある記憶と記憶を結び付けることで、人間の深い思考や創造が始まる。だから、記憶しなくてよくなるとそのゲームも成り立たなくなります。今、世界が向かっているのはその方向です。記憶とは身体感覚です。人は身体感覚がない状態で記憶することができるのか疑問です。それを得意とする人が現れてくるのかもしれませんが、今のところ何とも言えません。

——ただし、ネットに限らずいつの時代にも新しいものはそれだけで有害で危険だといわれがちな傾向もありますね。

藤原確かに映画やテレビも最初はそういわれていました。ただ、ネットに関しては、そのインパクトとは違う気がします。映画やテレビは受け取る方法が新しかったわけですが、ネットは相互に発信し、受け取ることになります。100年後に本がどれほど残っているかは分かりませんが、その時には本が知を代表するものではなくなって、もはや歴史的遺産のようになっているかもしれません。

■ 「つながり至上主義」の中で揺らぐ、作家性と作品性

 

——今の時代を「つながり至上主義」と呼ぶ識者もいます。つまり、つながることはいいことで、しかもつながればつながるほどいい、という考え方が世の中に強くあります。

藤原私自身はネットでのつながりがない人間ですが、確かに一理あると思います。しかしそれは、個人を個として成長・発展させることとは別の話だと思います。つながり至上主義は、極端に言うと個の成長を求めないものです。昔は悩みができた時、自分で考えたり、日記に書いたり、本を読んだりして悶々としていましたが、今はネットで相談できます。人間はほとんどの問題を結局は自分で解決しなければならないのですが、つながれば解決ということになるかもしれません。しかしつながった時の個同士の力が弱いと、結果的に解決できない、何も生み出せないとなるかもしれません。

——ネットのつながりが金融危機のような社会的危機を加速したという意見もあります。

藤原そうですね。かつてのトレーダーがそれぞれの個性で考え、分析していた時代から、ソフトで簡単にできる時代に変わると、当然、瞬間的にある方向にどっと流れることはあると思います。その時、勝敗を決するのは最速のツールを持っているかどうかです。ある意味で、個人が個人の裁量で大きく稼いだり損をしたりする時代は終わっているのかもしれません。科学の分野でも、個人の発見・発明の時代は終わったという議論があります。

——「作家という個から読者という個に受け渡されて、読者の思考のなかで完結する現在の文学は、そもそもネットというメディアとは相容れない」と書かれていますが、やはり小説家として危機感を持っているということでしょうか。

藤原そうです。電車の中で本を読んでいる人はすごく少なくなっていて、市場も縮小しています。本に没入している間は誰ともつながれません。人とつながれない読書時間はそれだけで不安なのかもしれない。

——パソコン通信の時代に、筒井康隆氏による「朝のガスパール」という、読者からの投稿を作品世界に反映させる試みもありました。ネットが新しい小説や文学を生み出す可能性もあると思いますが。

藤原可能性はあるのでしょう。が、私は完結する作品はできないと思っています。想像し得るのは、流動化という形です。紙の本のように完成作として作品性を持つものではなく、未来では、時間と共に形が変わっていくものが漠然と大きな意味での作品になるのではないでしょうか。そう変えていくのが作家なのか読者なのかは分かりませんが。朝のガスパールの取り組みについては、筒井さんはおそらく文学的実験に興味があったのではないでしょうか。先駆的ではあっても持続的な成果があったとは思えません。

——音楽や映像の領域では、デジタル化によって制作への敷居が下がり、さらにネット化で配信が簡単になったので、新しい才能が多く世に出るようになったという話があります。小説にもこのようなことが起こると思いますか。

藤原少なくとも紙の本ではあり得ないと思います。全ての本が電子書籍だけになった時にどうなるかは分かりませんが、今のところ成功例はないです。

——作品を発表することの敷居を低くしたケータイ小説は、ある意味でそのような例だったとも捉えられます。

藤原ケータイ小説には作品性・作家性があるようでありません。一個人に帰属するものというつくり方になっていないのです。象徴的なのは、あの作家たちの正体がよく分からなかったということ。従来の小説のように一個人が書き上げて受け渡すというものではなかったのです。また、ほとんどのケータイ小説は2作目がありませんでした。つまり、あの人の作品を読みたいということがなかった。目新しいイベントとして消費されて終わってしまい、作家性・作品性が育ちませんでした。

——ネットによりコンテンツの量は増えるが、作家性・作品性はどんどん消えていく可能性があるということでしょうか。

藤原そうです。不特定多数でつくっていくようなものが出てくるかもしれません。全ての表現において、一個人に帰属するものが減っていく可能性があるのです。

——なるほど。ちなみに作家ということでは米国のスティーブン・キングも、なるべくネットにつながっていない時間を持てるように習慣を改めようと思ったそうです。いわく、「死の床で『もっとインスタント・メッセージを送ればよかった』と思う人などいないはずだ」と。いずれにせよ、ネット化・デジタル化の持ついい側面と悪い側面のそれぞれを私たちはきちんと見つめる必要がありそうですね。本日はありがとうございました。

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    藤原 智美
    小説家

    1955年福岡市生まれ。「王を撃て」で小説家としてデビューし、1992年に「運転士」で芥川賞受賞。その後、小説創作の傍らドキュメンタリー作品も手掛け、「『家をつくる』ということ」「家族を『する』家」「暴走老人!」などが話題に。ネット関連の著作として、「ネットで『つながる』ことの耐えられない軽さ」「検索バカ」「文は一行目から書かなくていい~検索、コピペ時代の文章術」などがある。

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