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脳のなかの2匹の金魚No.2

日本に八百万(やおよろず)の神がいることの幸福について

2015/11/02

アドタイ掲載の「脳のなかの2匹の金魚」を特別公開。
 

古川裕也氏、初の著作『すべての仕事はクリエイティブディレクションである。』(宣伝会議刊)を記念し、アドタイで好評だったコラム「脳のなかの2匹の金魚」が全6回で復活。これまで出会ったさまざまな名作映画、音楽、小説を手がかりに、広告クリエーティブの仕組みや考え方をつづっていきます。


今年2月。
『バードマン』イヤーだった米アカデミー賞で、印象的なスピーチがふたつあった。
ひとつは、助演女優賞のパトリシア・アークエット。ハリウッドにおける男女賃金格差の是正をストレートに訴えた。それに対して、メリル・ストリープとジェニファー・ロペスが熱狂的に拍手を送る様子が世界中にオンエアされた。ハリウッドのようなところで、男女間の賃金格差が問題になっていることが、少し意外だった。

もうひとつは、『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』で、脚色賞を獲得したグレアム・ムーアのスピーチ。映画は、第二次世界大戦中、ナチスの暗号エニグマを解読、連合国側の勝利に大きく貢献して戦争終結を早めたと言われるイギリスの数学者・アラン・チューリングの生涯を描いている。暗号解読のプロセスでコンピューティングの原理を発見したことでも知られているが、彼は、ホモ・セクシャルであることも含め、自分が他の人とちがうことをずっと悩んでいた。

グレアム・ムーアは関係者に謝辞を述べた後、次のようなスピーチをした。
「16才の時、僕は自殺を図りました。自分の居場所がどこにもないような気がして。けれど、そんな僕が今日ここに立っています。だから、僕はこの場を、自分の居場所がないと感じている若者たちに捧げたい。あなたには居場所があります。どうか変わった(weird)ままで、他の人とちがう(different)ままでいてください。そのままの自分で大丈夫。輝く時が来る。そしていつかあなたがこの場所に立った時に、同じメッセージを伝えてあげてください。」このスピーチは、今年のオスカーで最も感動的だったと、ネット上でも賑わっていた。

それからおよそ4カ月後。
今度はニューヨークで、トニー賞授賞式が行なわれた。『王様と私』でケン・ワタナベがミュージカル部門主演男優賞にノミネートされたので、見た方も多いだろう。そこで、演劇部門主演男優賞を受賞したアレックス・シャープがスピーチをした。受賞作、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(“The curious incident of the dog in the night-time”)は、くしくも、クリストファーという天才数学者が主役の芝居である。彼は、スピーチの最後を、次のように締めくくった。
「この作品の主人公の若者は、ふつうの人とはちがっていて誤解されてしまうことが多い。同じように悩む若者にこの賞を捧げます。」
偶然か。それとも、何かアメリカの現状を反映しているのか。

6月中旬、カンヌライオンズ。
今年Glass Lionというカテゴリーが新設された。「性差別撤廃に貢献した仕事に与えられる」と、規定されている。
「すべてcreativityという観点から見る」というカンヌライオンズの本質から考えて、個人的には賛成しかねるカテゴリーだった。カテゴリーは、イッシューで創るべきではない。テーマがsocially goodかどうかは判断基準にすべきではなく、あくまでアイデアとその結果を競い合うべきだ、と思うのがその理由だ。「正しいけどつまんない」ものが今年の受賞作に多かったのは、このあたりが原因だと思われる。

不幸中の幸いは、審査委員長・シンディ・ギャロップが、「このカテゴリーは、なくなることが目的だ」ときっぱり宣言してくれたこと。さすが、ニューヨークの女王と言われるだけのことはある。

そうこうしているうちに8月。
ファレル・ウイリアムスの新曲がアップされた。彼は、いつも、その時どんぴしゃの大きな概念を見つけるのが上手で、まるで優秀なクリエーティブ・ディレクターみたいだ。というか優秀なクリエーティブ・ディレクターなんだが、“Lucky” “Happy”と来て、油断してたら今回いきなり“Freedom”である。曲もクリップもいわゆるプロテスト・ソング的。正直意外だった。

1969年8月、ウッドストックの記念すべきヘッドライナーは当時全く無名のリッチー・ヘヴンスだった。持ち歌が少なかったらしく、ゴスペルの名曲“Sometime I feel like a motherless child”をモチーフに、アドリブで一曲歌った。それが、結果彼の代表作となる“Freedom”。キング牧師の“I have a dream”が1963年8月、ほんの6年前。ヴェトナム戦争終盤の最悪の状況などを考えれば、ゴスペル出身の黒人シンガー・ソングライターが、アドリブで”Freedom”とシャウトするのはむしろ必然と思える。

けれど、2015年8月に、ファレルが、“Freedom”と叫ばなければならない“感じ”がアメリカのみならず世界的にあるのだろうか。不寛容で窮屈な“感じ”が、共有物としてそんなにもあるのだろうか。ほんとわからないので、教えてほしいのだ。

ふつうの日本人の感覚からすると、人間の多様性を認めるという点では、アメリカは先進国という印象がある。他人と同じであることをよしとする日本のような国とは真逆の空気を持つ国だと。アメリカは、デモクラシーのひとつの見本であり、みんながそれぞれ異なる意見を持つことに価値を置く国であると。他人と同じであることを暗黙の裡に要求する傾向のある日本とはそこがちがうと。日本だと最近では、「同調圧力」などというだめな単語もある。

アメリカはすべての他者を受け入れるフェアネスを重要なプリンシプルにしている。世界中からチャンスを求めて人が集まり、それがアメリカの力の源泉になっている。いろんな意見のあるところだと思うが、このフェアネスとオープンこそが軍事力、経済力なんかより、アメリカ最大の強さだと僕などは思う。なぜなら、軍事力、経済力は量であり一時的なものであり、フェアネス、オープンなど抽象的価値は基本永遠だから。

事例に挙げたスピーチの中に共通して出てきた“different”という言葉が、決定的に重要だと思われる。他人とちがうこと、変であること(weird)を、社会がよいことと考えるか、悪いことと考えるか。はたまた、どっちでもいいじゃんそんなことと考えるか。
言うまでもなく3つ目がいちばん洗練されている。

1960年代後半から70年代。
寺山修司が実験的な演劇を連発していた。例えば、役者がふつうの家を突如訪問して、そこの住民を演者として芝居に突然参加させたり、鞍馬天狗とか月光仮面とかフランケンシュタインとかドラキュラとかを街に突然出現させて、それに対する市民の反応を芝居にするとか、ま、そんなことを。大昔のことなので記憶が曖昧だが、それによって騒乱罪だかなんだかで逮捕されたりされなかったりしていたと思う。

彼は、インタヴューに答えてこう発言している。
「世の中は、街の中に突然フランケンシュタインが現れることを、迷惑だと思う人と面白いと思う人の2種類でできている」。フランケンシュタインだったか、ドン・キホーテだったか、ドラキュラだったかよく覚えてないけれど、要は、その手のものである。

これをおもしろいと思う人が少ないと、やっぱり世界はつまらない。ましてや、けしからん、許せんとまで思う人が多いと、ますます世界はつまらない。最近だと、それのKPIは何だと言い出す人とか現れて、ますます。

そういえば、佐々木宏さんが、もう20年くらい前、近くにいたCMプランナー3人をつかまえて、「岡(康道)はいい奴だ。(佐藤)雅彦はいやな奴だ(アタマよすぎるという意味です、おそらく)。古川はヘンな奴だ。」という何の役にも立たないフレーズを本人だけ気に入って連発していた。

端的に言えば、自分とちがう類の、ちがう意見の、ちがう好みの人の存在を許容できるかどうか。実はこれ、21世紀前半のいちばん重要なイッシューではないかと思うのだ。

そう問えば、誰しもイエスと答える。
自らを、不寛容と認めることは不寛容な人ほどできない。なぜなら、不寛容は、客観性の不在から多くの場合立ち現れるからである。そして、さらに始末の悪いことに、疑いを知らぬ正義感から。

本居宣長が規定した日本人の「神」の概念とは、何かとてつもなく特別な力を持ったものということで、神は、人でもいいし、自然でも、動物でも、植物でも、場所でも、食べ物でもいい。どんな形をとってもいい。隣のおばあちゃんでも、田んぼでも、タヌキでも、ススキでも、台所でも、米粒でも。要は、日本には神さまはいっぱいいるのだ。八百万(やおよろず)の神というやつである。
しかもこの場合、姿は見えなくてもよい。生贄は要求されない。敬う対象は何でもいい。どこかにいるにちがいない人知のおよばぬ超越的な存在に対する想像力さえあればいいのだ。

絶対ひとつしか信じない、場合によっては、他のものを信じる人を排除するような態度に比べて、なんと柔軟かつ強靭な態度だろう。近代現代と経るにしたがって、日本人は、自由平等民主の先輩・欧米人に比べて、「人とちがうことに対する寛容性および多様性」という科目に関して劣っていると思いこんできた。確かに現状、不寛容、非多様性のようなことが目につくし。

けれど、もともと全然ちがっていたのである。
おおよそ『古事記』のころ、僕たちの先輩たちは、「神さま?基本みんなの好き好きでいいんじゃないかな。どんな神さまもありってことにしようよ。足し上げると、だいたい八百万種類くらいになるんじゃないの」という自由で大きな考え方を、少なくとも概念的には獲得していたと推測される。

どの言語も、どの文化も、どの民族も、どんな風習も、どのような存在のしかたも、同じくらい豊かで同じくらい価値がある。そこから先、どのように考えるにせよ、いつも、そこを出発点にすべきだと思うのだ。

多様性を機能させるのは、哲学にほかならない。
それは、「いろんな人がいた方がいいよね」などより激しい概念なのであって、理解できないヒトやコト、共感できないヒトやコトをも、いったん100%許容する態度のことである。

いちおうヴォルテールが言ったことになっている有名な言葉がある。
「あなたが言っていることに私は不賛成だが、あなたがそれを言う権利については、死を賭してもそれを守る。」

発言は18世紀中ごろ。すでに決定的な水準まで到達している。

本コラムはアドタイに掲載。