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為末大の「緩急自在」<番外編>No.5

為末談義。近著「熟達論」の、よもやま話 vol.4

2023/09/29

為末<番外編>シリーズタイトル

為末大さんに「いま、気になっていること」について、フリーに語っていただくウェブ電通報の連載インタビューコラム「緩急自在」。その番外編が、7/13に為末さんが上梓(じょうし)された書籍「熟達論」(新潮社刊)を題材とした本連載だ。第1回では、長年、為末さんとともにアスリートブレーンズというプロジェクトを推進している電通Future Creative Centerの日比氏に、連載のプロローグにあたる文章を寄せてもらった。

つづく#02から#06では、著者である為末さんと「熟達論」の編集を手掛けたプロデューサー/編集者・岩佐文夫氏に、執筆に至った経緯や思い出、苦労話など「ここでしか聞けない話」を中心に対談形式で語っていただいた。「人間はいかにして生きればいいのか」という深遠なるテーマに基づくコメントの数々、ぜひお楽しみいただきたい。

(ウェブ電通報編集部)

「観」は、アナライズ。でも、それだけでは「守破離」の「破」にならない。(為末大)

岩佐:前回は、いわゆる師匠と弟子の関係を表す「守破離(しゅはり)」の「破」の部分を「破」=「なになに」×「これこれ」と因数分解してみた、というお話のいわば前編でした。

為末:「なになに」=「観(かん)」。つまり、物事の、それもディテールを「観る」ということだと定義してみたんです。

岩佐:ビックリしたのは、その先の「これこれ」に「心(しん)」という漢字をあてた、ということ。

為末:「こころ」ではなく、中心の「心(しん)」。つまり、自身の考えの背骨というか、骨盤というか、とにかく真ん中にあるものを作る、ということなんです。ディテールを観察しているだけでは、「破」には至らないですから。

岩佐:肝心かなめの「心」というわけですね。
 

「熟達論」の章立て(その4)



「心」が出てきたことで、なるほど、と膝を打った。(岩佐文夫)

岩佐:「心」とは、車輪でいうところの「ハブ」にあたる所ですね。その周りに無数の「観」があるイメージです。

為末:確固たる「心(しん)」があるから、安定性が生まれる。最初は「芯」と表現しようか、とも思ったのですが……。ゴルフのティーショットで「芯を食う」みたいな言い方をするじゃないですか?

岩佐:それについては、侃々諤々(かんかんがくがく)やりましたよね。

為末:そもそも、「心」にせよ「芯」にせよ、それが何なのかを定義することはできない。

岩佐:ある意味、感覚で捉えているものですしね。イメージとしては「体幹がしっかりしてる」みたいなことだと思いますが、じゃあ、「体幹」ってどこで決まるの?どういう形をしているの?どうやれば鍛えられるの?と言われても、明確には答えられない。

為末:心をつかんだ状態とは、イメージとしては、高層ビルの「免震構造」みたいなものなんです。やわらかいけど、しっかりと中心を外さない。トップアスリートは大体「脱力」できるのですが、これは、並大抵のことでは手に入れられない。

岩佐:聞いた話では、工場の視察に現れたカリスマ経営者の視点などが、まさに「心を会得した人」(のそれ)みたいです。明日は社長がやってくるということで、工場長以下、ありとあらゆるところに目を配ってその日を迎えるらしいのですが、カリスマ社長は思いもよらぬ箇所を二つ、三つ指摘するだけ。でも、その指摘が、恐ろしいほどに的を射ていたりするのだそうです。

為末:ディテールを「観る」ことも大事だが、おい、そことそこの「心」がぐらついてないか?みたいなことですね。

岩佐:僕がいる出版業界でいうと、校閲がそれにあたりますね。プロ中のプロたちが、誤字・脱字はないか、言い回しにおかしなところはないか、歴史的事実に反することはないか、と、それこそ目を皿のようにしてチェックしたはずが、一番大きな級数(編集部注:文字の大きさのこと)のタイトルにミスがあったりする。しかもそのことに、誰も気が付かない、といったような。

岩佐文夫氏:プロデューサー/編集者。自由学園卒。日本生産性本部、ダイヤモンド社でビジネス書編集者、「ハーバード・ビジネス・レビュー」編集長などを歴任し2017年に独立。書籍「シン・ニホン」「妄想する頭  思考する手」ならびに為末大著「熟達論」のプロデューサー。現在は、音声メディア『VOOX』編集長であり、英治出版フェローも務める。
岩佐文夫氏:プロデューサー/編集者。自由学園卒。日本生産性本部、ダイヤモンド社でビジネス書編集者、「ハーバード・ビジネス・レビュー」編集長などを歴任し2017年に独立。書籍「シン・ニホン」「妄想する頭  思考する手」ならびに為末大著「熟達論」のプロデューサー。現在は、音声メディア『VOOX』編集長であり、英治出版フェローも務める。

為末:「心」が分かるようになるには、「数」と「量」、僕の言葉でいうなら「型」と「観」の“実践知”が必要ですからね。つまり、「型」と「観」のプロセスを経ずして「心」の段階には到達できない。

岩佐:これは想像ですが、為末さんのような人は選手時代、「観」を重視していたのでは?

為末:おっしゃる通りです。言語化することが好きなタイプは、基本的に「観る」ことが好き。ここでの落とし穴としては、観すぎて、観すぎて、考えすぎちゃうことなんです(笑)。

岩佐:その結果、大切な「心」に目がいかなくなっちゃう。そのあたりが、「熟達すること」の難しさですね。

為末:と、同時に、「熟達論」の最後の1文字も、おぼろげながら見えてくる。実際、読者からの質問で多いのは、「観」と「心」についてなんです。

岩佐:守破離の「破」を「観」と「心」に因数分解したところに、ある種のとまどいがあったのかもしれません。その一方で「守破離のつながりや構造が、よく分かりました」なんて声が届くと、編集者としてはうれしい限りです。「観」が客観的、西洋的であるのに対し、「心」は主観的、日本的な概念ですからね。

為末:熟達には、その両方が必要なんだと思います。緻密なデータ分析と、なにがあってもブレない信念、その両方が。

岩佐:かくして「熟達論」も、この連載も、いよいよ佳境を迎えるというわけですね。

「熟達論」書影

為末:「心を手に入れる」ということは、物事の「中心」をつかむことで「自在」になれる、ということで、ある種の解放に近づいていることを意味します。

岩佐:優れたアスリートは軸がブレないので、相手がどのような動きをしようが、突風のような自然現象が起きようが、ならばあの手、ならばこの手、と変幻
自在な対応ができる。「遊」を知り、「型」を知り、「観」を知り、「心」を知る。もはや、無敵じゃないですか。

為末:いえ。熟達への道を究めるには、あと一歩、仕上げの段階が必要なんです。僕自身、まだそこを究めた、と胸を張って言うことはできませんから。

「心」とは、柔らかく伸びやかな「芯」なり
「心」とは、柔らかく伸びやかな「芯」なり

岩佐:“世界のタメスエ”をして、いまだに完全には到達できていない、それが「最後の1文字」。と、同時に、そこが「熟達論」の魅力でもあるんですよね。

為末:子どもの視点、「遊」の視点で言うなら、簡単には到達できないからこそ、オモシロイんじゃないか、ということになるのでしょうね。

「熟達」への道は、決して平たんではない。
「熟達」への道は、決して平たんではない。

(最終回#06へつづく)

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