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為末大の「緩急自在」<番外編>No.6

為末談義。近著「熟達論」の、よもやま話 vol.5

2023/10/06

為末<番外編>シリーズタイトル

為末大さんに「いま、気になっていること」について、フリーに語っていただくウェブ電通報の連載インタビューコラム「緩急自在」。その番外編が、7/13に為末さんが上梓(じょうし)された書籍「熟達論」(新潮社刊)を題材とした本連載だ。第1回では、長年、為末さんとともにアスリートブレーンズというプロジェクトを推進している電通Future Creative Centerの日比氏に、連載のプロローグにあたる文章を寄せてもらった。

つづく#02からは、著者である為末さんと「熟達論」の編集を手掛けたプロデューサー/編集者・岩佐文夫氏に、執筆に至った経緯や思い出、苦労話など「ここでしか聞けない話」を中心に対談形式で語っていただいた。「人間はいかにして生きればいいのか」という深遠なるテーマに基づく連載も、本稿(#06)をもって最終回。ぜひお楽しみいただきたい。

(ウェブ電通報編集部)

最後の文字は、「遊」とともに最初から浮かんでいたんです。(為末大)

岩佐:「遊」「型」「観」「心」と進んできた「熟達論」のラスト1文字が、いよいよ明らかになりますね。

為末:人間の「熟達」のプロセス(段階)を示す漢字1文字。結論から言ってしまうと、それは「空(くう)」というものになります。文字通り「空っぽ」の「空」。頭も心(こころ)も空っぽの状態。自分の存在すら忘れてしまう境地、といった感じです。

岩佐:「ゾーンに入った」などとも言われますね。
 

「熟達論」章立て(その5)


為末:アスリートでいえば、体が勝手に動いて、意識がそれを後追いしていく。ハードル競技でいうなら、自分がハードルに近づいているのか、ハードルが自分に近づいているのかわからなくなる。               

岩佐:意識ではなく体が勝手に動くんですか?

為末:この瞬間から「空」に入るぞ、ということはできないと思います。ただ準備をするだけで、入れるかどうかは運に任せるしかない。僕の体験では、人生に三度ですね。世界大会などの強いプレッシャーの中で、つぶされそうになりながら、最後の瞬間に開き直ってこの「空」に突入する。                    

岩佐:なんだか、夢みたいな話ですね。

為末:感覚的には、夢そのものです。熟達論の「論」にもなっていませんが、「遊」の段階からいきなり「空」へワープしたみたいな、そんな感じです。あれはいったい、どういうことだったんだ?という気持ちが、「熟達論」を書かせたといってもいいのかもしれない。

岩佐:僕のような凡人には、一生、体験できないことなんだろうな。

為末:そんなことは、ないと思いますよ。

岩佐:だったら、うれしいけれど。でも、そんな経験は、これまでの人生でなかったような気がします。

岩佐文夫氏:プロデューサー/編集者。自由学園卒。日本生産性本部、ダイヤモンド社でビジネス書編集者、「ハーバード・ビジネス・レビュー」編集長などを歴任し2017年に独立。書籍「シン・ニホン」「妄想する頭  思考する手」ならびに為末大著「熟達論」のプロデューサー。現在は、音声メディア『VOOX』編集長であり、英治出版フェローも務める。
岩佐文夫氏:プロデューサー/編集者。自由学園卒。日本生産性本部、ダイヤモンド社でビジネス書編集者、「ハーバード・ビジネス・レビュー」編集長などを歴任し2017年に独立。書籍「シン・ニホン」「妄想する頭  思考する手」ならびに為末大著「熟達論」のプロデューサー。現在は、音声メディア『VOOX』編集長であり、英治出版フェローも務める。

為末:なにかに没頭しているとき、それはゴルフでも、釣りでも、そば打ちでもなんでもいいのですが、夢中になっている時は「空」の状態に近いと思います。

岩佐:おっしゃりたいことは、なんとなく分かります。その「空」が最終到達点だとすれば、「熟達論」を「成功論」にはしたくない、という為末さんの思いもよく分かります。

為末:何のために学ぶのかというと、社会に必要とされたり、より能力を発揮して対価を得るため、という側面がありますよね。私もそもそも、世界でいちばんになりたいと思って学習していたわけですが、ところがこの「空」を経験すると、それそのものに強烈な実感があるわけです。結果じゃなくて最中に喜びを感じる。まさに生きてる感じがするというか。               

岩佐:つまりこの熟達のプロセスは、資本主義での成功のプロセスとは関係ないということですね?

為末:資本主義自体が一つの大きなシステムとも考えられますから、そのシステムでより上位にいくことが努力であり、そのシステムのより上位にフィットすることが良い技術だと言えます。でも、そのこと自体が自分を制限もしますよね。そのシステムから解放された本当の力を出すにはどうしたらいいのか。

岩佐:システムに適応するのが熟達ではなく、システムの制約を超えた領域に自らを解放するのが熟達なんですね?

為末:その思いを「言語化」してみたい、というのが、今回「熟達論」を書こうと思った根っこにあるような気がします。

「熟達論」書影

「空」の章では、涙が出ました。(岩佐文夫)

岩佐:ネタバレになっちゃうので詳しくは言えないのですが、「空の章」では、どういうわけだか涙が止まらなくなりました。なぜ、涙があふれてきたのか、ロジカルに説明できないんだけど、生命の儚(はかな)さとか、それでもひたむきに生きようとするけなげさとか、わびとか、さびとか、編集者として失格かもしれないけれど、そんな言葉にならない思いに襲われた感じでした。

為末:たしか、スペインの人が書いた本だったと思うのですが、「生きがい」という言葉があります。ベランダで名もなき花を育てるのが生きがいという人もいるし、出世こそが生きがいという人もいる。この生きがいは、仕事がうまくいったとか、立派な花を育ててそれが評価されたとは違う、自分自身がそれを行うことで充実感を得て、自分自身がそれを理解することに喜びを得る世界です。     

岩佐:為末さんにとって、現役時代の「生きがい」はタイムだったんですか?

為末:どこまでいけるんだろうというのが僕の興味だったんですね。タイムもそうですが、自分自身を解放したかった。体力の限界や努力の限界をいくら超えても、自分自身がこう走らなきゃいけないという無意識の思い込みがあったら解放しきれない。ずっとそれを考えてきたのですが、無我夢中の「空」に入った経験をして、ああ、そもそも考えるのではなくて夢中になることで解放されるんだ、と気がついた感じですね。だとしたら、結局、夢中で遊んでいる状態がいいんじゃないかと思って、また遊びが始まっていく。                    

岩佐:「空」が最終到達点ではなく、まだなにかその先があるんですか?なんだか、息苦しくなってきた。

為末:僕が思うに、その先にあるのは、まだ見ぬ「遊」ではないかと(笑)。

岩佐:つくづく、参りました、それはどんな「遊」なんだろう?自分で編んでおいてナンですが、もう一度、そのつもりで「熟達論」を読み返してみます。

為末:もしかしたら、とんでもない誤字を発見するかもしれませんよ。為末だと信じて疑わなかった文字が、実は「偽末」と印刷されていた、とか。(笑)

岩佐:そのテのジョークは、出版業界ではNGです。(笑)

「空」は、新たなる「遊」へと通ず
「空」は、新たなる「遊」へと通ず
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