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僕の仕事は「人間をつくる」こと

2017/01/23

先日日本でも公開されたマーティン・スコセッシ監督の「沈黙―サイレンス―」で井上筑後守役を演じ、奥行きのある演技が海外の批評家からも絶賛。一人芝居を原点に、ますます活躍の領域を広げているイッセー尾形さんに話を伺いました。

役の人物にも 自分の中で旅をさせる

今年1月、マーティン・スコセッシ監督の手によって映画化された遠藤周作原作の「沈黙―サイレンス―」が公開されます。監督は長年にわたってこの映画化を構想していて、僕が井上筑後守の役に決まってから撮影までにかなり間があったので、一人芝居のネタが生まれちゃって。踏み絵があるなら絵師や銅板を作る職人がいるだろうと想像が膨らんで。主人公の絵師の描く踏み絵が素晴らし過ぎて、キリシタンから壁に掛けて拝むから譲ってくれと頼まれて飾ってしまう。その絵師はキリシタンだと幕府から追われるはめになる、という物語です。実際に井上を演じる前に、そんな盛り上がりがあったので、僕はその想像の中でいろんな旅をしたんですね。だから、元キリシタンで今は弾圧する立場の長崎奉行という井上も、役を決め込まずに僕の中で旅をした方がいいに決まっている。残酷だったり子どもっぽかったり、理想がある一方で理想に打ちひしがれる現実もある。いろいろ揺さぶられる。それがつくれるといいなと思いました。

「沈黙 ―サイレンス― 」2017年1月21日(土)全国ロードショー 配給:KADOKAWA  ©2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.
「沈黙 ―サイレンス― 」2017年1月21日(土)全国ロードショー
配給:KADOKAWA  ©2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

監督と初めて会うとき、僕はどう接したらいいのか気をもみましたが、すごくシンプルな方でした。ただただこの映画を撮りたいだけの人がここにいる。そこに参加する僕がいる、という、ただただそれだけ。ロケ地の台湾でも、監督はずっとこの映画を撮れる喜びで、幸せにあふれているんですね。初日か2日目の夕方、僕は撮影が終わってへとへとになっているのに、まだ撮影が残っているらしく監督がジープの後ろに乗って、僕たちに「トゥモロ〜!」とか言って、ニカーッと笑ってね。それ見たときに、ああ、この人のために全力を尽くそうと思いましたね。監督は僕たちの芝居に絶対「ノー」と言わない。「エクセレント!」といつも言ってくれました。でもその後、「エクセレント!もう一回」と(笑)。

笑うことは幸せなこと なんとかそこへ持っていく

僕は、映画でも、テレビでも、舞台でも、自分の仕事は「人間をつくること」だと思っています。見かけも、発想も、使う言葉も、人間関係も違う、僕とは違う人。自分の痕跡を残さずに、どうやったらその人になれるかというのをいつも考えています。「人間をつくる」という点では、舞台だと、お客さんの反応で変わっていくところがありますね。頭の中じゃ効果的だったせりふが、実際に舞台の上で口に出すと、それほど効果がないなと感じることも多いんです。意味が違っていたのか、言い方か、言う相手を間違えたのか、その瞬間にいろんなことが頭をよぎって、焦ります。でもそれ自体、ライブだなと。昔は自分のもくろみとお客さんの反応を一致させようとしていたんですが、一致しない方が当たり前。この落差を経験できるのは舞台の上だけです。家に帰ったら頭の中でまた一致しちゃいますから。実はこれがライブの一番の醍醐味(だいごみ)なんじゃないかと、最近は思っています。

自分にとってメインの活動は、やっぱりこのライブ。新作を書く、つくる、それが全部を引っ張ってくれています。面白みを見つけるのも、創作の中から見つけられると思っていますから。そこで心掛けていることは、笑えるようにということですね。自分も、お客さんも。笑うということは幸せなことですから。人間を豊かに演じて、なんとかそこに持っていきたい。

一人芝居でも映画やイラストでも基本的に、全部言葉で追い込んでいきますね。ネタをつくるときも、せりふを書く。それから、今回の「沈黙」みたいに台本を頂いて演じる場合も、書くんですね。自分が何を言うのかと。英語のせりふがあると、これは要は何を言いたいんだみたいな当たりをつける。ここは、「ロドリゴを説得する場面」とか、どのように説得するのかとか、じゃあ井上にとって説得は何なんだ、どういうことなんだとか、突き詰めていくんです。ノートの上で。だから、換言すると、全部言葉ですね。絵を描く場合は、頭の中で書いているんですね。何を描きたかったのかとか、ちょっと甘いんじゃないのとか。じゃ、あそこを拡大して他は要らないから、そこだけのアップを描こうとか、頭の中で問答を書いているような気がしますね。言葉から逃げられないんだな、みたいな。

文豪シリーズを通して 現代人を見つめ直す

舞台では一昨年、新しく「文豪シリーズ」を始めました。夏目漱石の作品でひとり芝居を、という話を頂いて、早稲田大の大隈講堂で公演しました。夏目作品、例えば『坊っちゃん』や『三四郎』などの主人公は大概もう色付けされているから、想像の羽を広げる楽しさがある副登場人物、脇役の人に焦点を当てて、その人を主人公にした一人芝居をやったんですね。それが松山で再演になり、これって他の文豪でも成立するなと、太宰治、志賀直哉、横光利一、川端康成とどんどん増やして。これがとっても面白い作業でね。

なんでそんなに面白いんだろう。僕は一人芝居でずっと「いるいる、こんな人」という現代人を演じてきましたが、最近年を取ったせいか、あらためて現代を見渡しても、それほど刺激を感じられなくて。例えばはつらつとした若い人も、人生を経てきた老人も、まだまだピチピチの高校生も、みんなスマートフォンに視線を落としている。表情が均一化されちゃって、見えてこないんですね、現代人というのが。

そんなときに偶然夏目作品に出会って、明治の時代の人間の業や欲望、希望と挫折、出し抜いてやろうみたいな気持ちとか、宗教的な話とかがむき出しに見えてきたんです。このシリーズをくぐり抜けたら、人が何十年か前には持っていて、今は現代人の中に隠されているであろう何かがもう1回噴き出して、突き出て、僕の目に届くかもしれない。あるいは、そういうものが隠されているという発想自体が幻想で、僕自身が現代に毒されているのかもしれない、そんなことがはっきりするんじゃないかと考えています。今後は文豪シリーズを、海外の作家にも広げていきたいと思っています。

文豪シリーズ「明暗」の一場面
文豪シリーズ「明暗」の一場面