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マーケティングの世界の住人が、アートの世界を覗いてみた。No.1

マーケティングの世界の住人が、
アートの世界を覗いてみた。

2025/03/11

アート

キュレーターの内田まほろさんが、文明、それから文化について話されていた(それぞれの正確な定義というよりも、性質の違うものを分かりやすく区別するために引き合いに出して話してくださったものと思われる)。その話をもとに、尾ひれをずいぶん付けてしまったかもしれないが、僕のふわっとした理解はこんな感じ。

文明というのは、圧倒的困難とか慢性的な不便とかちょっとしたお悩みとか、レベル感はさておきそういったものを克服していくための、人類の知恵、武器、イノベーションなんかの蓄積。文明は便利や快適をもたらすものだから、必然的に人類は文明を共有していく。均一化の方向でジワジワと版図を広げていく。あれよあれよと一つの色が覆っていった時のオセロ。それに高揚する。僕はそんなイメージを持った。つるっと、ぬめっとした情景。

一方で文化は地域性だったり個性だったり、いわゆる多様性が発露したもの。もしくは発露はまだしていないけれど固有性の原石のようなもの。多様であるがゆえに、複雑で、雑味もあったりして、時にはほぼ理解不能、そんなふうに捉えられることも当然ありつつ。文明よりも面倒くさそう。

ふと、文化においても一つの色でつるっと、ぬめっと覆われていく情景を想像してみた。ジワジワと快適とか豊かさが世界に広がっていく、感じがまったくしない!高揚感と言えば高揚感かもしれないが、なんかヤバくないかこの感じ、のドキドキ。複雑で、雑味もあったりして、時にはほぼ理解不能、そんなものが取り除かれた虚無。豊かさの源泉は文明よりも面倒くさくてザラザラデコボコしていそうなところにあるのでは、と逆に思えてきた。内田さんは文明も文化も両方大事と言っており、僕はその感じがとても好きだ。

受験生である娘の格闘っぷりを追体験するために、問題用紙を借りてみることがある。ある日は国語(25分)だった。池内了さんの『なぜ科学を学ぶのか』という書籍からの長文問題。基礎研究に対し、「金にならないことをだらだら続けて甘えるな」という考え方の人もいるが、そうじゃないでしょ、といった趣旨のことを述べている。失敗という名の無数の成果によって、荒野におぼろげながら道らしきものができてきて、結果としてようやく物質的豊かにたどり着けること。科学は音楽や芸能、宗教などとも同等に精神的豊かさにつながる文化でもあること、などなど。面白い!僕は25分を大幅にはみ出してゆっくり読んだ。結局丸善に行ってこの本を買った(受験の戦力になるかは甚だ怪しい父を、娘はどう思っているのだろう)。

文明の担い手代表と思われがちな科学者も、文化の担い手代表と思われがちなアーティストも、徹底した探究者という点ではそっくりだなぁと思ったりする。アート教育を実践している末永幸歩さんとのご縁で、とある大学で講義をさせてもらう機会に恵まれた。末永さんは著書の中で、アーティストとは自分だけの興味のタネを持ち、そこから無数の探究の根を伸ばしていく存在と定義している。表現の花も咲かせるが、それはさておきタネと根にこそアイデンティティがある、というのが核心。

最初の年も翌年も、僕を含むビジネスパーソンと将来のビジネスパーソン候補たる学生は、末永さんが定義するところのアーティストになれるのかについて議論した(もう少し正確に言うと、アーティスト的な価値観を持ってビジネスを実践できるものか)。終わりなき問いの連続だが、参加者それぞれの言葉での深い思考があった。探究の根が伸びていた。豊かさがあった。

アートの世界は茫洋で、その茫洋の中で巡り会えた方々がいる。その想定外の衝撃を通じて、僕のようなマーケティング会社(もしくは広告会社)の人間にとって、ギフトがあることに気づいた。「私は文明(マーケティング)のほうを担当するから文化(アート)のほうは宜しくね」といった具合にコミュニティ内で分業するのではなく、個々人の中にマーケティングとアートが渦巻いていてもたらされるギフト。常に自分の中で渦巻きせめぎ合っていると、マーケティングというレーンでの思考・実践とは違うところに至ることがある(僕がこのコラムを書いているのも、言ってしまえば脱線の実践だ)。

的確な描写もしくは気の利いた例えは思い浮かばなかったが、走るクルマにかかるダウンフォース。いや、これだとパフォーマンス向上みたいだからちょっと違うかな。飛び立つ飛行機に働く揚力。こっちのほうがいいかな。今までになかった力が自分の中に作用し、かつ、それと渾然一体となって新しい自分の形になる、そんなイメージ。イメージの話になってしまい、すみません。しかしこういう状態を体現している人はけっこういると思う。時々出会うこともある(お詫びついでに、自分をマーケティングの世界の住人と位置付けておきながら、たぶん、とか、気がする、とか、感覚的な表現のオンパレードになっていますこと、連載の最初にお詫びします。ごめんなさい!)。

マーケティングの世界では、入社してほどなくイノベーター理論なるものの存在を教わる。60年以上前に提唱されたもののようだ(今、新入社員に聞いたところ、知らないです、と言っていたので、過去の遺物なのかもしれないが)。最初に食い付く人(イノベーター)がいて、そこからジワジワと普及していくという話である。新しい価値がそこになければ、最初に食い付く人もおらず、最初に食い付く人がいなければ、それに続くジワジワ話も起こらない。ということで最初に振り向いてもらうための(いや、今の時代においてはもしかするとイノベーターに対してさえ、振り向いてもらうよりも嫌われないための)常套手段は日々したためておくのが得策なのだろう。また、ジワジワと普及するという話は、文明のジワジワ版図拡大話とオーバーラップしてくるが、キャズム越えも含めそのためのマーケティングのノウハウを日々研鑽していくのも良いマーケター、かも。

こういった眼差しは、先ほどのダウンフォースというかマーケティングの高度化ということだろう。高次元化は、また別のところに存在するのだと思う。コグニティブダイバーシティの内部化と言ってしまえばそれまでかもしれないが、僕はもうちょっとロマンティックに捉えている。なにか別の世界を獲得した、その先の自分。

マーケティングの世界の住人が、アートの世界を覗いてみた。

略してみる。「マケアト」。ああ、誘惑に負けて略してしまった。マ・ケ・ア・トという音から、「負け跡」という文字が思い浮かんだ。たぶん僕にたくさんの負け跡が染み付いているからだと思う。こわいこわいこわい、今思い出しても身震いしてしまう失敗も複数回。負け跡がザラザラデコボコ。敗者の弁だけど、なかなか味があるなぁ、負け跡。

隈研吾さんも、「負ける建築」と言っていた。独創的な痕跡を持ちながらも、周囲に溶け込む建築。そんなふうにマーケティングの世界にアートの世界が溶け込みつつもせめぎ合う感じを想像してみた。これはかなりいいんじゃないか。ワクワクする。

画像制作:岩下 智