マーケティングの世界の住人が、アートの世界を覗いてみた。No.2
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2025/03/21

鳥取で・5つの箱が・3億円?
これはなかなか熱い問いだなぁと思った。「ブリロ・ボックス」というアート作品がある(原稿を書こうと思いつつ、まずは洗濯物を取り込まねば、そんな日があった。ブリロ・ボックスがプリントされたUTがあった。おー我が子、いつからこのTシャツを着てたんだ?もしかして僕がブリロ・ボックスの話題に触れようと思ったのは、知らず知らずの刷り込みだったのか?)。日用品の箱を模したアンディ・ウォーホルによる1964年の作品。いわゆる現代アートに分類されるもので、これ自体が美しいとか、胸に迫るものがあるとか、予備知識なしでぱっと見で反応してしまう類のもの、ではない気がする。見た目はありふれた箱っぽい物だから。ウォーホルはキャンベルスープ缶やマリリン・モンローなど、反復された平面作品のイメージが強いかもしれないが、ブリロ・ボックスは世界で最も有名な現代アートの立体作品の一つ。
鳥取県立美術館がこのブリロ・ボックスを5点あわせて約3億円で購入。内4点はウォーホル死後、ウォーホル関係者によって別途つくられたものだそう。反復が大事だとするならば、5点も買った、というより5点しか買っていない?それはさておき、3億円。たくさんの記事というか見出しを見かけた。数字って、鉄板のアイキャッチなんだなぁと思った。
とはいえ、県のお買い物なのだから、ビビっときたからつい買っちゃったとかじゃなく、手堅いプロセスを経て購入しているのだろう、というのが行政およびアートのアウトサイダーである僕の第一印象だった。だとすると、この現象をどう捉えたらよいのだろう?3億円は、高い。しかし3億円は、高くない。そんな判断というか、判断を下した人びと(アートの世界の人びと)の見識みたいなものがあったということか。マグロの初競りで3億円、みたいなPR効果だったり祝祭感だったり、そういうイベント的なこととはまた別の何か?
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ミュージアムには作品の収集方針というものが背骨にあるのだから、ブリロ・ボックスはそれと合致し、かつお財布事情にもおさまっていたということは大前提として。この作品を所蔵することでの波及、所蔵するからこそ描けるグッドシナリオもあるのだろう。
アートの歴史上、この作品は重要な位置付けにあり、強固な学術的価値がある。ロイ・リキテンスタインの「ヘア・リボンの少女」を東京都現代美術館が購入し、その後リキテンスタイン作品のアートマーケットでの取引額は跳ね上がるいっぽう、という先例なんかも鑑みると、買うなら今しかない、というか買えるのは今しかない。ブリロ・ボックスという実力あるものが手の届くところにきた。心拍数が上がりそう。手に入れたら入れたで、さらに化けるかもしれない。さらに心拍数が上がりそう。
作品の収集、保管、調査、教育(展示)は当然連関しているだろうから、あるコンセプトのもとで収集された作品は、そのコンセプトの中でどう人びとに見せるのか、教育につなげていくのか、ということになるはず。スター選手を獲得したら万事解決、ではなく、チームとしてそのスター選手はどう機能していくのか、チームをどう育てていくか、監督(ディレクター)は当然そう考えていく、はず。
加えてミュージアムは他館と作品を貸し借りする文化があるそうだ。貸し借りは、お互い様の精神という面もあるだろうが、交渉とも言い換えられそう。ブリロ・ボックスを持っていれば、そりゃ交渉も優位になりそうだなぁと思った。妙にスポーツっぽい例えばかりになってしまった。スポーツ選手(人)との違いは、作品は現役時代が驚異的に長い場合がある、ということか。
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数字の見方もしくは見え方というのはいろいろで、それが面白いとも言えるし、もう疲れちゃうとも言いたくなる。絶対値としての印象だったり、横並びで比較してみたり、将来の見込みも含め時系列をしみじみと眺めてみたり。
ブリロ・ボックスの件は既にメディアでもたくさん報じられており認知は高まった。広告換算すると結構いっているだろう。ここから行動までつながっていくか。もっと言うと経済波及効果までつながっていくか。人が動いて産業連関表にヒットして、2次波及効果にまで息切れせずに数字として伝搬していくか。3億円という数字がどんな印象を与える数字に化けるのか、今の日本社会が知っておいて損はないリアルがライブで進行するのだから、いざ、時代の目撃者にならない手はない!と言いたくもなりそうだけど、数字を追いかけるのはそれはそれで面倒で疲れそう。
では、数字の伝搬というものからやや見方を変えて、展覧会をつくっていく側の人びと起源の、熱量の伝搬と捉えるとちょっとは趣が出てくる、かも。開館記念展のキーワードは図らずも「リアル」だそうだ。そして、これからの美術館の未来を見通す機会としたい、との願いが込められているという。なんと高い視座。開館記念展で示される熱量というか実力は相当なものなのだろう。あぁ、たとえブリロ・ボックスを手に入れなかったとしても、この熱量と実力をもって別のリアルをつくっていたんだろうなぁと思った。平行宇宙、みたいな。
公立の美術館は都道府県津々浦々にあり、鳥取県立美術館は日本の県立美術館としては最後発。今の日本にできる、最も新しいプレゼンテーション。この熱量がコレクション展などの長い歩みも通じて、鳥取に、日本に、世界に伝搬していくと、なんてクールだ。いやぁ熱い。
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東京で・50手前で・サンサシオン
冒頭の5・7・5をトレースして、うまいこと言おうと思ったら、わけの分からない5・7・5になってしまった。僕は50歳手前です、と言いたかったわけではもちろんない。以前アーティゾン美術館で山口晃さんの「ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」展に足を運び、とても印象に残っているのだが、まさかここで、こんな形でサンサシオンというワードが顔を出すとは自分でも思ってなかった。サンサシオンとは、フランス語で感覚のことだそうだ。
ブリロ・ボックスは日用品を模したもの。その日用品は当然大量生産品。大量生産品が、そしてそれをさらに模したものが世界屈指のユニークさ(唯一性)になってしまう不思議。どんな動機で、こんなものをつくったのだろう?こんなつくり方をしたのだろう?ウォーホルの大いなる企てなんだなぁと思った。アートの歴史というものすごい重みと深みを引っさげて、あえて日用品の模倣。
そしてこの立体作品を所蔵することが館としてのユニークさの一つになるなんて、やっぱりすごく不思議な感覚を抱いてしまう。ミュージアムは個々人が感性や知性をノビノビさせたくなる場、大量消費な社会生活のスピード感とはだいぶ違う在り方の場だと仮にした場合、当然ただの箱らしきものはただの箱とは見ることができなくなるはず。有名な作品ならばなおのこと。最初のほうで、予備知識なしでぱっと見で反応してしまうものではないと書いたが、逆にぱっと見で反応してしまうのかもしれない。これ、アートなの?と二度見してしまうのかもしれない。考えてしまう。鳥取県立美術館の大いなる企て?縁遠い鳥取の地の出来事が、少なくとも僕の中には既に伝搬してしまっている(これじゃあブリロ・ボックスというか、思い出の小箱じゃん、という誰も分からなさそうなツッコミを自分に入れて心を落ち着かせてみる)。
作品という物体さえも超えて、アートの歴史、人類の脈々とした思考・営みに僕も接続している、というのは気のせいの可能性が高いが、こんな個人的な感覚を書き留めずにはいられなかった、これはささやかだけどリアル。
Ars longa, vita brevis
画像制作:岩下 智