左から、全国小規模多機能型居宅介護事業者連絡会 黒岩尚文理事長、山越孝浩事務局長、電通 小橋元樹氏超高齢社会となり、介護現場では人財不足が深刻化しています。
現場が忙しすぎて、介護記録を付ける余裕がない。介護のノウハウが言語化できずに、業務が属人化している。介護は介助の所作、声掛け、思想などが、職員によって、相手によっても違う。暗黙知が多く、介護職員のスキルや経験の共有もままならない……。
そんな中、AIを活用して、良い介護という「暗黙知」をモデル化する取り組みが始まりました。介護職員がスマートグラスを装着し、職員視点の映像と音声を記録。その動画をAIで分析することで、これまで言語化できなかった「良い介護」への大きな気づきが生まれました。
プロジェクトを推進した、全国小規模多機能型居宅介護事業者連絡会の理事長である黒岩尚文氏、事務局長を務める山越孝浩氏、クリエイティビティで介護業界の変革を目指した電通の小橋元樹氏に、その狙いや反響、未来への展望を聞きました。
利用者の「やりたいこと」に寄り添うケアがしたい
黒岩 尚文氏――黒岩さんと山越さんが、小規模多機能型居宅介護に取り組まれた経緯を教えてください。
黒岩:私は30年ほど前から高齢者への介護に取り組んでいます。入浴してもらいたいのに、お風呂に入ってもらえない。ご飯も食べてもらえない……。こういった方たちと接する中で芽生えたのは、「人と人がしっかりと信頼関係を築きながら、家庭的な環境の中で日常を過ごしていただきたい」という思いでした。
そこで、小さな古民家をそのまま利用して、「宅老所」と呼ばれる事業所を開業したのです。これが今の全国小規模多機能型居宅介護事業者連絡会(以下、連絡会)に至るまでの最初のきっかけです。
山越:黒岩さんの言う宅老所とは、高齢者がご自宅のようにのびのびと過ごせる「通い」を中心とした介護拠点です。1980年代から草の根的に全国で始まり、2000年代にかけて全国に一気に広がっていきました。この頃から私は宅老所の活動に賛同し、事務方として黒岩さんとご一緒させていただいています。
黒岩:私が理事長を務める連絡会を設立したのは、2006年のことです。宅老所の流れをくみつつも、「通い」「宿泊」「訪問」による介護をオール・イン・ワンで展開する小規模多機能型居宅介護が制度化されたことを受け、全国の事業者とともに、より質の高いケアを推進していく活動をしています。
山越:そして私は連絡会の事務局長を務めています。就任時から、黒岩さんたちが現場で実践されている「良い介護」をモデル化することが自分の使命だと感じていたので、今回の取り組みは、その使命を果たす第一歩になりました。
小橋:まさに、その「良い介護」を届けている施設を見たことで、私も人生が変わるぐらいの衝撃を受けました。そこについては後ほどお話しします。
――「スマートグラスと生成AIで、良い介護を可視化・言語化する」というプロジェクトは、どのような経緯でスタートしたのでしょうか?
山越:発想のきっかけは、私が3年ほど前に見たニュース番組です。農作業の技術伝承のためにメガネ型ウエアラブル端末、いわゆるスマートグラスを活用しているという内容でした。スマートグラスをかけて農作業をする学生に対し、離れた場所にいる農業熟練者が、学生視点の映像を見ながら手入れの方法を指導する姿を紹介していたのです。
農業といえば技術の習得に時間がかかるうえに、経験と感覚がものをいう「伝承系」の仕事の最たるもの。それなのに、遠隔でリアルタイムに指示を出せるとは!それを見て、介護・福祉の分野でもスマートグラスを使って介護職員の育成ができるのではないかと思ったのが出発点でした。ただ、AIを用いて動画を分析するというアイデアは、電通さんとのセッションの中で生まれたものです。
──電通および小橋さんがこの取り組みに関わることになったきっかけは?
小橋:私は、広告の枠を超えた未来づくりにクリエイティビティで挑戦する「電通Future Creative Center(FCC)」に所属する、コミュニケーションクリエイターです。私が介護の現場を訪れたのは、2025年1月のことです。福岡の認知症フレンドリーセンターと、連絡会に加盟している事業所「なごみの家しかた」を訪問したのですが、このときに介護職員の皆さんが行っているケアを実際に見て、人生が変わるぐらい大きな衝撃を受けたんです。
どういうことかというと、介護はどうしても利用者の「できないこと」を探し、「あきらめさせる・なじませる介護」が多くなります。しかしこの事業所の皆さんがやっていることは、「できること」や「やりたいこと」を探し、「利用者の意欲に寄り添う介護」だったからです。
例えば、介護施設には足の不自由な利用者が多いので、介護効率や安全性を考えると畳の部屋という設計は考えづらい。なのに、利用者さんの「これまで通りの暮らしをしたい」という希望をかなえるために、畳のくつろぎスペースがある。しかも、利用者さんたちは当たり前のように畳の上でくつろいでいるんですよ。
他にも、認知症の利用者がコンロの火を使い、油でトンカツを揚げているお話も伺いました。普通の考え方ですと、火の使用も油を使った調理も制限されることが多いと思うのですが、職員の皆さんは調理ができる方法を考え実践している。年齢だって、認知症だって、何かをあきらめる理由にはならないんですよね。
この話はあくまでも一例ですが、とにかく利用者一人一人の「やりたい」に寄り添って、実現している光景に衝撃を受けたんです。もうこれは、そのノウハウを勉強させていただくしかないと思ったことが、今回の企画に至るきっかけですね。
「加点方式」と「意欲への伴走」という、2つのキーワード
山越 孝浩氏
――そもそも、本プロジェクトに取り組むにあたって、介護業界にはどのような課題があったのでしょうか。
黒岩:まず、介護職員の高齢化と人財不足は深刻です。特に若い職員が減りつつある現在、やるべきことは、若者が仕事に誇りを持ち、家族や友人に自慢できるくらい魅力のある環境を作ること。そしてもう一つは、職員同士がお互いの仕事を認め合える、承認の仕組みを作ることが大切だと考えていました。
山越:そのためにも、「良い介護」を可視化・言語化することが必要なのですが、介護はマニュアル化できない臨機応変な対応がとても多く、ノウハウを共有することがとても難しいのです。
加えて、先ほどの小橋さんのお話にもありましたが、介護の領域では「利用者さんのできないことを探して、その分を補助していく」という、いわば“減点方式”で考える傾向が強いことも課題でした。特に認知症の高齢者は、できないことがどんどん増えていきます。でもだからこそ、「その人らしさを見つけて、一緒に希望をかなえていく」という“加点方式”のケアにシフトすべきだと感じていました。それこそが介護のあるべき姿ではないかと。
黒岩:これらの課題を解決するために行ったのが、スマートグラスとAIという異分野のテクノロジーを活用した、今回の電通さんとの取り組みです。私たちはまさかAIを使うことになるとは思っていませんでしたが(笑)、本当に良い取り組みになりました。
小橋:ありがとうございます!ずっと利用者の「意欲」に寄り添う介護に取り組んできた黒岩さんたちの思いや方針とも合致する、新しい取り組みにできたと思っています。
――具体的には、どのようなアプローチをしたのですか?
小橋:今回の取り組みは、2つのフェーズに分かれています。「フェーズ1」では、北海道から鹿児島まで日本全国約20事業所で、すべての職員さんにスマートグラスを装着した状態で介護を行ってもらい、録画した一人称視点の動画を、あらかじめプロンプトで最適化したAIツール「Google Gemini」に読み込ませることで、詳細な介護記録を書き出してもらいました。
介護職員の年齢・地域・国籍に関係なく、多様な視点の映像と音声を記録。トータル100時間以上に及ぶ159映像を、AIに読み込ませたわけですが、今のAIの性能だと驚くほど短時間に文字化・記録化できます。この記録と一緒に、職員の皆さんで録画を見ながら「振り返りミーティング」を行います。
本取り組みの報告会にて、スマートグラスを着用したケアを実演してみせる黒岩氏と、連絡会加盟事業所メンバー。小橋:さらに、そのケアの様子に対して「なぜそのタイミングで利用者さんに声をかけたのか?」「どこを見て危険を予測したのか?」などを深掘りする、職員さんへの「インタビュー」設問も、AIで自動生成する仕組みを作りました。
肝となるのは、既存のAIを「介護現場の分析・インタビュー」に特化したものにカスタマイズする工程です。Dentsu Lab Tokyoのクリエイティブテクノロジストである若園祐作さんが、スマートグラス×AIの企画だけでなく、Geminiへの詳細なプロンプトまで制作してくれました。
このAIによるインタビューを、ケアの振り返りミーティング時に活用すれば、「良い介護とは何か?」を言語化する大きなヒントになると思ったんです。このもくろみは、想像以上の成果につながりました。
──どういった成果が得られたのでしょうか?
黒岩:この取り組みは、何と言っても現場の職員に大変好評でした。スマートグラスをかけるだけで介護記録の代わりになるというのも喜ばれたのですが、驚かされたのが、AIが生成するインタビューです。「職員が工夫したポイント」を、AIが的確に捉えてくれているんですよね。
自分視点の映像を見ながら、独自の工夫や思いを皆の前で語る職員の顔を見たら、皆とても誇らしげにほほ笑んでいたのが印象的でした。
この一覧は、スマートグラスで録画された映像分析により、3つの着眼点とその時の行動を時系列で表したものであり、介護記録としても有効。小橋:職員の皆さんに動画とAIを用いた「振り返り」をしてもらうことで、これまで可視化・言語化されてこなかった「良い介護」を共有することができ、黒岩さんからもあったように、職員の皆さんが自分の介護に「誇り」を持てる場が生まれました。この取り組みは、全国の連絡会加盟事業所で好評を得ています。また、こちらは主目的ではありませんが、もちろん介護記録の自動化という意味でも喜ばれています。
ただ、今回の取り組みはそこで終わっていません。フェーズ1終了後には、いいケアを導く「14の心得」と「30の所作」をイラストとコピーで表現したカード形式のツール「ケアのまなざし」を制作。また、このツールを活用した育成プログラム「いいケア探求プログラム」も開発しました。
いいケア探求プログラム
http://shoukibo2.net/2026_nippon-foundation/
ケアの質、やりがい、利用者の笑顔……多くをもたらす結果に
小橋 元樹氏――「ケアのまなざし」とは、どのようなものですか?
山越:スマートグラスで記録した膨大な映像から、「良い介護」を象徴する44のシーンを抜粋し、それぞれの「所作と心得」のポイントをイラストとコピーでまとめた、カード形式のツールです。
小橋:「ケアのまなざし」のカード作成に当たっては、映像の抽出、イラスト化、コピー作成にAIも活用しつつ、プロジェクトメンバーの皆さんからも意見をいただき、「現場の思い」をたくさん詰め込みました。
上段が「心得」、下段が「所作」。このカードのクリエイティブ作成にも生成AIを使いつつ、人間のクリエイターたちの手が入っている。黒岩:このツールは、ミーティングの際に使うことを想定しています。例えばテーブルにカードを並べてから1枚を選び、「今週は、この所作を心がけていいケアを実践しよう」という共通の目標を立てるといった使い方もできますよね。
小橋:個人的に特に気に入っているのは「笑っていても、怒っているかも悲しいかも。」というカードです。表情に表れない利用者さんの本当の感情をくみ取っている職員さんの心がけは、介護業界でなくとも深い学びが得られると思います。
クリエイティブ面では、黒岩さんがよく口にされる「空気感」を表現したいと思いました。食事しているときの料理の匂い、言葉を交わさずとも感じる安心感……そういったものを含めて、「職員さんの優しく温かいまなざし」をビジュアル化しています。
黒岩:まさに空気感までも感じられるツールになったと思います。そのおかげで、プロジェクトの「フェーズ2」で行った、「ケアのまなざし」を活用したモデル研修「いいケア探究プログラム」の実証実験は、とても充実したものになりました。
――この実証実験では、各事業所にどのような変化が生まれましたか?
山越:一番は、現場により多くの笑顔が生まれたことですね。自分ですら重要さに気づかなかった暗黙知を、職場に共有できたというベテラン職員。「この部分のケアがとても良かった」と皆の前で褒められた新人職員。
ベテランも若手も分け隔てなく全ての職員のモチベーションアップにつながったうえに、可視化して初めて「こんな工夫をしていたの?」と新たに発見できたことがとても多かったんです。
黒岩:さまざまな職員の視点を可視化し、皆で共有して、お互いの良さを認め合い、学び合う。その結果、事業所内のコミュニケーションが円滑になって、チーム力や一体感も高まったと思います。
山越:また、今や欠かせない存在である外国人介護人財とのコミュニケーションにおいても、同時通訳ができるAIの利点が発揮されました。今後もこのツールを積極的に活用していきたいという声が、全国の連絡会加盟事業所から寄せられています。
「効率化」ではなく「幸福化」のためにAIを活用する


――「ケアのまなざし」や「いいケア探求プログラム」の開発を終え、感じたことを教えてください。
黒岩:最大の収穫は、AIを使いながらも「私たちが目指しているのは効率化ではなく、幸福化である」という共通認識が、全国の介護職員の間に生まれたことです。
「できないなら、代わりにやってあげたほうが早い」ではなく、「その方の尊厳を第一に考えて、自分は何を大事にケアしたらいいのか?」を考える。「人としてどうあるべきか」を、自分や仲間と一緒に振り返る貴重な体験になったと思います。
小橋:介護の現場でAIを使うというと、効率アップやコスト削減、あるいはロボティクスのような人間の代替活用を想像される方が多いと思います。もちろん効率よく介護することは大切ですが、介護現場の皆さんが大切にされているのはそこだけではないんですよね。
私も、AIで効率化ではない大きな付加価値を皆さんとつくり出せたことを最重視しています。何より、利用者さんや職員の皆さんの笑顔を見るとうれしくなります。「効率よりも幸福」は、私自身の今後の仕事の仕方や、人生の指針となるような考え方になると思います。
黒岩:私たちも、小橋さんたちに新鮮な視点を補っていただけて、とてもうれしく思っています。ともすると介護の現場では「見る側=職員」と「見られる側=利用者」の2極の関係性に偏りがちです。ですが、利用者たちは「常に見られているのは嫌だ」「自分でできることは自分でやりたい」という思いも持っているのです。「ケアのまなざし」では、そういう思いも可視化することができました。
山越:私たちの新しいチャレンジという意味でも、意義のあるプロジェクトでした。「パソコンでは文字しか打ったことがありません」というメンバーが、AIを活用してケアの質と人間性を高めていく姿には、本当に驚かされます。今年はその挑戦の、元年になったと感じています。
小橋:私も学ばせていただくことばかりでした。特に最後のセッションで黒岩さんから聞いた、81歳の女性職員さんのエピソードはとても印象的でいつまでも心に残っています。
黒岩:60歳を超えてから国家資格を取得して、20年間近く私の事業所で働いている職員の話ですよね。その方は日頃から「ありがとうございます」という言葉がとても多く、AIによるインタビューでも「ありがとうと何度も言っていますが、なぜですか?」と聞かれていたんです。そうしたら、その方の回答が、「ケアをさせていただいていること自体が、私にとってとてもありがたいことなので」というので、その場にいた皆が「そうか!」と感動したという出来事がありました。こういった気持ちが、「いいケア」の根幹にあるのだとしみじみ思います。
――今後の展望を教えてください。
山越:まずは、多くの現場で「ケアのまなざし」を使ってみてほしいです。どなたでも無料でダウンロードしていただけます。今回の取り組みは介護領域だけではなく、「暗黙知が可視化できない」という課題を持つ違う分野の方々にも有効だと思っています。
小橋:たしかに、介護に限らず「人と人との関わり」の中で大切にしたいまなざしばかりなので、全ての方にお勧めできますよね。山越さんのおっしゃる通り、今回の手法は、暗黙知が共有されにくい他の分野でも活用できると思います。例えば、「子育て中の方」「学校や塾の先生」「営業職の方」などの持つ暗黙知を、可視化・言語化できる余地があるのではないでしょうか。
黒岩:連絡会としても、今回の取り組みを発展させていきたいと思っています。そのために今後も電通さんをはじめ多様な業界の方と協業して、いろいろなアイデアを吸収させていただきたい。一つ一つの出会いを大切にしながら、「お互いの長所を認め合える社会」への試金石となる取り組みをしていきたいです。
小橋:今回のプロジェクトで、私はすっかり皆さんの事業所の大ファンになってしまいました。今後も勉強をさせていただきたいですし、一緒に日本の介護業界の幸福化を実現させていきたいです。同時に、さらなる異業種の掛け合わせで、また違う豊かさ、付加価値を作っていきたいと考えています。
2026年3月に実施された、本取り組みの報告会にて。実際にスマートグラスとGeminiを用いた「振り返り会」を実施した、プロジェクト検討メンバーと、電通メンバーも交えた記念写真。