国内最大規模のイベント・スペース専門会社である電通ライブ。リアル、バーチャルを問わずさまざまなイベントを企画・運営し、空間デザインも手掛けています。
本連載でお伝えするのは、電通ライブの「体験デザインを活用したビジネス変革(BX)」。現状では「プロモーション」として位置づけられがちなイベント事業を、BXのアプローチの一つとして捉え、活用していく可能性を探ります。
今回は、2026年2月に設立された「情動LABO 」を取り上げます。「情動LABO」は、人の心が動く体験を科学的に研究し、可視化が難しいと言われるリアル体験の効果や価値を定量的に測定し、その成果を事業として開発・展開する“ビジネス創出組織”です。研究の内容とそれによって実現する未来について、「情動LABO」の統括を務める中辻謙一氏に聞きました。
イベントは費用対効果が悪いと思われている ──初めに自己紹介をお願いします。
中辻:電通テック(現・電通ライブ)に入社後は、関西でプロモーションイベントなどの設計を行っていました。2024年に東京に異動し、コンテンツIPを活用したBtoC展覧会イベントなどを主に担当し、現在は、電通ライブの新しい収益をつくることを目的としたネクストビジネス開発部で、中長期的な新規事業やソリューションを開発しています。「情動LABO」では統括を務め、研究およびビジネス開発を牽引しています。
──「情動LABO」とは、どのような組織でしょうか?
中辻:人の気持ちの動き「情動」を科学的・学術的に研究し、その知見を新たなビジネスへ実装する研究開発組織で、2026年2月に設立されました。情動を研究する社内外共創を前提としたラボ(Laboratory for Open Collaboration)ということで、「情動LABO」と名付けました。「情動LABO」は、電通ライブの新たなビジネス基盤となるだけでなく、イベント・スペース業界全体が抱える課題に対して、大きく寄与できるのだと考えています。また、社会背景として、ミレニアル世代の78%が「モノより体験・情感充足にお金を使いたい」と回答(Harris Group,「Millennials Fueling the Experience Economy」2014)していることもあり、「情動」にフォーカスすることは未来の新たな経済圏の創出につながるのではと、非常に大きな可能性を感じています。
──イベント・スペース業界にはどんな課題があるのでしょうか?
中辻:イベントは費用対効果が悪いと考えられています。もちろん、チケット代や物販の売り上げなどはありますが、それは瞬間的なリターンです。私たちは、イベントで得た感動体験が心に深く刻まれて、企業や商品、出演者などの好感度が上がり、ファンになってもらえるという長期的なリターンがイベントの真価だと考えています。しかし、そういった価値は見えにくいものです。 私たちは、大規模なスポーツイベント、エンタメイベント、展覧会、企業のカンファレンス、デジタルイベントなど幅広い領域を手掛けています。イベントは総じて労働集約型で、特にリアルイベントは、来客数に限りがある一方で、多くのスタッフが動くことによって成り立っているため、見えにくいリターンよりも、コストの大きさに目が行きがちです。結果的にイベントは費用対効果が悪い印象を持たれてしまう傾向があります。
AI時代だからこそ、リアル体験が価値を持つ──イベントの費用対効果が見えにくいという課題があって、「情動LABO」が設立されたのですね。
中辻:はい。きっかけの1つとしてイベントのROIの明確化ということがあります。そして、さらに重要な視点としては、AIやデジタルテクノロジーの進化が目覚ましい現代だからこそ、人と人が同じ空間で同じ時間を体験するリアル体験が、特別な意味を持つようになる。その根拠を科学的・学術的に証明することが、「情動LABO」のミッションです。「人はなぜ感動するのか?」「感動した体験によってどんな行動変容が起こるのか?」などを明らかにすることでイベントやスペースの価値を実証し、さまざまな情動ビジネスにも応用する狙いです。
──「情動LABO」は、人々の情動をどのように捉えているのでしょうか?
中辻:「情動(Affect)」とは、鳥肌が立つ、涙が出る、心拍が上がる、といったことで、「なんかわからないけれど胸が熱い」「気づけば涙している」といった言語化できない「心が動く瞬間の本質」です。「感情」との違いは、情動は体で感じるもので、感情は頭で理解するものと区別しています。解釈や思考を含んだ情報処理的な側面を持たず、純粋な感情の高まりによって記憶に刻まれるような心の動きが「情動」で、情動は人を突き動かす生々しいエネルギーを持っていると思っています。 「情動LABO」では、イベントやスペースのリアルな体験の設計に深くかかわる情動として、電通ライブで独自の情動の6つのタイプを定義しました。「期待感」「共感」「感動」「一体感」「達成感」「満足感」です。
中辻:これらは、独立して存在するのではなくて、1つの体系の中で連続的かつ複合的に行き来したりします。例えば、イベントでは、事前の情報で期待感が高まり、体験の中で共感や感動が生まれ、一体感によって増幅される。そして、達成感や満足感を得て記憶に残る。私たちはこのような流れを「情動ジャーニー」と呼び、瞬間ごとの情動6要素の強さの総和を、「熱狂度」と定義しました。
中辻:情動は、積み重なりながら体験価値を形成していくと捉えているので、情動の総和を数値化して検証しようとしています。1つのイベントの中で、いつ、誰が、どのくらい情動を感じたのかを定量的に計測できれば、そのイベントの効果や意義を数値として可視化できるようになるのではないかと考えています。
──「熱狂度」がすなわち、体験価値になるということですね。では、熱狂を構成する情動データはどのように取得するのでしょうか?
中辻:最も実現ハードルの低い計測方法は、アンケートをとることです。イベントのどの部分でどんなことを感じたか。お客さんの主観にはなりますが、アンケートで情動の6要素について答えていただく方法が考えられます。さらに、もう少し研究寄りの計測方法でいうと、生体データを取ったり、脳波を測定して調査する方法も挙げられます。 ただし、脳波やバイタルデータを計測するためには、個人に装置を取り付けて行う必要があるため、一度に大人数の調査を行うことはできません。今後、私たちが開発したいのは、非接触で大衆の熱狂度や興奮度を感知したり、分析・計測できる手法です。例えば、カメラやマイク、さまざまなセンサーを用いて、データをとれるようにしたり、非接触で「群」の情動データをとれるシステムや装置を開発することも、「情動LABO」では目指しています。
情動データ×フィジカルAIで、イベントは大きく進化する──非接触で情動データをとれるようになると、イベント業界はどのように変化するでしょうか?
中辻:ゆくゆくは、イベントが物理的に、リアルタイムでアップデートされていく世界が実現できると考えています。それには、フィジカルAIとの組み合わせが必須です。 フィジカルAIとは、AIがカメラやセンサーで現実世界(物理空間)を理解し、ロボットなどの体を通じて「自律的に行動・操作する」技術です。つまり、デジタル空間で動く生成AIとは異なり、物理的な実体を持ち、認識→判断→行動のプロセスを現実世界で実行できるAIです。現在、フィジカルAIは、製造業や工場のロボティクスや自動運転などの主にBtoBの領域で活用が期待されていますが、われわれはイベントやスポーツ、エンターテインメント、リテールなどの領域にも活用できると考えています。
中辻:非接触での情動データ取得技術とフィジカルAIが組み合わされば、イベントは大きく進化するでしょう。例えば、音楽ライブ会場にカメラやマイク、各種センサーを設置し、観客の表情や音声、温度・湿度などの環境情報を取得します。それを受けて、AIが照明・音響・映像ギミックを操作したり、匂いやミストなど環境を制御したりして、熱狂を後押しする。そんな未来も実現可能だと思います。
──「情動LABO」の今後の展望を教えてください。
中辻:情動データを通してイベントの効果や価値を可視化することが第一歩です。その先にあるのが、前述した情動データとフィジカルAIを掛け合わせるような進化したイベントだと考えています。また、そのような情動の測定から生み出される情動ビジネスを増やし、最終的に情動データと体験価値が循環する仕組みを社会に実装し「情動経済圏」まで構築するビジョンを持っています。 情動データを収集して分析し、今後のイベントに反映していくことで、生活者にこれまでにない「最高の体験」を届けることができるのではないか。スポーツやエンターテインメントのイベントもそうですし、リテールでは最高の購買体験みたいなものも広げていけると考えています。 さらにもっと先の未来を思い浮かべるとすれば、大衆の情動によってスペースそのものが改変されるようなことも想像しています。ライブ会場や音楽フェスのテントなど、箱そのものは昔から変わっていません。情動データをもとに、箱も中身もリアルタイムに最適化を繰り返すことができれば、リアルな体験価値である熱狂度はさらに高まっていくことでしょう。 アリーナ、スタジアム、劇場、展示会場などでの常設体験空間におけるフィジカルAIのプリセットや、商業施設、公園、街にも広げることで人々の情動からにぎわいをリアルタイムに可変していく、そんな未来も描いています。 「情動LABO」は設立したばかりで、本格的な調査・研究はまだまだこれからという段階ではあります。しかし、幸いにして電通ライブは年間数千件のイベントに携わっていて、研究対象は数多くありますし、従業員には多くの暗黙知が蓄積されています。その暗黙知を明文化させるという意味でも、私たち電通ライブが情動について研究し、イベントやビジネスに還元することは、大きな意義があると考えています。
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