「Cannes Lions International Festival of Creativity 2026(カンヌライオンズ2026)」で、Innovation Lions(イノベーション部門)の審査委員長を務めた電通の志村和広氏は、世界中から集まった多様なエントリーと向き合い、審査員との議論を重ねました。
10年以上にわたり、「クリエイティブ産業が社会に提供できるイノベーションとは何か」を考え続けてきた志村氏は、AIが当たり前となった2026年、その問いにどのような答えを見いだしたのか。審査委員長として示した方針と、グランプリに選んだプロジェクトを手がかりに、これからのイノベーションのあり方を聞きました。
審査委員長は、その部門が目指す未来を示す──イノベーション部門とはどのような部門なのでしょうか?
志村:Innovation部門には、広告やコミュニケーションの枠を超えた仕事が集まります。プロダクト、サービス、プラットフォーム、社会システム、ビジネスモデル。応募主体もエージェンシーに限られません。事業会社やスタートアップ、研究機関/大学からのエントリーもある。いわば、クリエイティビティの「自由演技の部門」です。この部門はプロトタイプのエントリーも受け入れている唯一の部門で、少し先の未来を見ています。実際に、イノベーション部門の受賞作が、数年後、世界中で話題になったり、カンヌの別部門で受賞したりすることもあります。また、審査の特徴として、ショートリストに選ばれたチームによる、現地でのライブプレゼンテーション審査があります。複数回、事前審査を行い、選ばれたチームがカンヌでのプレゼンに臨みます。
――今回、イノベーション部門の審査委員長を務めることになったとき、どのように受け止めましたか。
志村:最初に依頼をいただいたときは驚きましたが、同時に、とてもありがたい機会だと思いました。私は2010年代半ばから、「クリエイティブ産業が世の中に提供できるイノベーションとは何なのか?」を考え続け、さまざまなチャレンジを続けてきました。今回の審査は、その問いに対して、自分なりの答えを出す機会になるのではないかと考えたのです。 世界中から集まるエントリーを見て、多様な背景を持つ審査員と議論することで、私たちの産業ならではのイノベーションを見つけたいという期待がありました。一方で、審査委員長が何を選ぶかは、今後のイノベーション部門が向かう方向にも影響します。楽しみ以上に、非常に身の引き締まる思いがありました。
審査員集合写真 ――審査員もご経験されていますが、審査委員長では、役割は大きく異なるのでしょうか。
志村:審査員であれば、自分が作品をどう評価したか、その意見を伝えることが主な役割です。審査委員長はそれだけではなく、異なる価値観を持つ審査員のチームを、一つの答えへと導く役割を担います。 もちろん、審査委員長自身の意見も伝えます。ただ、特定の作品を強く推すというよりも、審査全体の方針を示し、その方針に沿って議論をリードすることが重要です。 イノベーション部門は、他部門のように評価項目や割合が細かく定められているわけではありません。だからこそ、審査員長の方針はとても重要になります。そもそも、イノベーションは立場や産業、国によって捉え方が違って当然です。だからこそ、最初から一つの定義を押し付けるのではなく、複数回行われた事前審査では、それぞれの審査員が考えるイノベーションを引き出していきました。 その議論を受けて自分自身の考えもアップデートし、現地審査に入る前に、2026年の審査方針として提示したのが「From Proof of Concept to Proof of Change」 です。
イノベーション部門審査委員長スピーチ
AIが当たり前になった年に、イノベーションの定義を更新する――「From Proof of Concept to Proof of Change」には、どのような意味が込められているのでしょうか。
志村:生成AIの普及によって、新しいアイデアを生み出し、形にすることのハードルは大きく下がりました。では、誰もが新しいものをつくれる時代に、何をもって「イノベーション」と呼ぶのでしょうか。 かつては、今までにない新しいコンセプトを考え、それが本当に動くことを示す「Proof of Concept」自体に大きな価値がありました。「新規性」「実現できるのか」「機能するのか」という問いに答えることが、イノベーション部門の一つの評価点だったのです。 しかし、AIの時代には、Proof of Conceptはもはやゴールではなく、スタート地点になりつつあります。新規性や技術的な実現可能性は、今もイノベーションの重要な前提です。ただし、それだけでは十分ではありません。しかし、AIの時代には、そのアイデアが人々の生活やビジネス、社会を実際に変えたのか。これから何を変え得るのか。そして、未来にどれほど深く、力強い変化を起こせるのか。そこまで見る必要があると考えました。 なぜなら、AIによってアイデアを形にするのは以前に比べて容易になったけれど、社会や未来に本当に意味ある変化を起こすことは依然として難しいからです。しかし、そこにこそ、これからのイノベーションを評価するポイントがあると考えました。 そこで、審査では変化を三つのレンズから捉えました。 一つ目は「Proof of Change」 。既に現実の変化が起き始めているか。 二つ目は「Possibility of Change」 。この先どのような変化や、より良い未来が可能になるか。 三つ目は「Power of Change」 。そのアイデア自身が持つ、変化を起こす力(新規性や技術など)。 AIが当たり前になって初めて行われる今回の審査は、イノベーション部門にとって大きな節目だったと思います。テクノロジーが先進的であることや、見たことのないアイデアであることだけではなく、そのアイデアが持つ「変化を起こす力」を評価する。そこに、2026年以降のイノベーションのあり方があると考えました。
ライブプレゼンテーションでの審査の様子。実際にプロダクトを触って審査を行っている。 「新しい靴」ではなく、「走れる未来」を生み出した――今回のグランプリは、この考え方をどのように体現していたのでしょうか。
志村:グランプリに選んだのは、アディダスの「Supernova Adaptive」です。ダウン症のあるランナーの足の特徴に合わせて開発された、高性能なランニングシューズです。 表面的に見れば、新しいシューズを開発したプロジェクトだと思うかもしれません。しかし、私たちが評価したのは、単に製品をつくったことではありません。
ケースフィルム
このプロジェクトは、ダウン症のある人たちの中に「走りたくても、自分の身体に合うシューズがないために走れない人がいる」という課題を発見しました。そして、当事者やアスリートとの長年にわたる関係を起点に、技術とクリエイティビティによって製品を開発しています。 さらに、特別な商品として限定的に販売するのではなく、世界各国で、一般的なランニングシューズと同じ販路、同じ価格帯で提供しました。 つまり、生み出したのは靴だけではありません。これまで走ることを諦めていた人たちが、走ることができる社会に変えたのです。 アディダスというブランドの規模や流通網、経営レベルでのコミットメントをなければ起こせない変化であった。今後さらに大きな変化を生み出していく可能性がある。課題の発見、アイデア、それを形にする技術、社会へ届ける実行力の全てが高い水準にありました。また現地でのプレゼンテーションも、アスリート自身が登壇し、素晴らしいものでした。 「イノベーションとは、見たことのない先端技術や、未来的なプロトタイプである」という従来のイメージから見ると、なぜ一足の靴がグランプリなのかと感じる人もいるかもしれません。 しかし、イノベーションを技術やコンセプトの「新しさ」だけでなく、そのアイデアが「何を変えたか/変えうるのか」として捉えれば、このプロジェクトが持つ革新性が見えてきます。グランプリはまさに、今回の審査方針を体現する存在でした。
グランプリチームの受賞シーン イノベーションは、一つの会社では起こせない――今回の審査を通じて、イノベーションを生み出す方法について、新たな気づきはありましたか。
志村:審査を通じて改めて感じたのは、イノベーションは一つの会社だけでは起こせないということです。従来の広告制作では、クライアントからオリエンテーションがあり、エージェンシーが企画し、プロダクションが制作するという、ある程度決まった役割分担がありました。 しかし、今回、プレゼンテーションに登場したプロジェクトのチームの多くは、そのような直線的な構造ではありません。クライアント、エージェンシー、パートナー企業、研究者、自治体、アスリートや当事者など、異なる専門性を持つ人たちが、一つのアイデアを中心に集まっていました。
重要なのは、「誰がどこまで担当したのか」を切り分けることではなく、チーム全体として、そのアイデアをどこまで実現し、変化につなげられたかです。 審査の中でも「エージェンシーは具体的に何をしたのか」という議論が出ることはありました。しかし、これからの時代にエージェンシーだけで完結するイノベーションはありません。クライアントだけでも、テクノロジー企業だけでもイノベーションは起こせない。 イノベーションは、多様な専門性が融合することで生まれます。 だからこそ、個々の会社の貢献を細かく測るより、チームが生み出したアイデア自体の力を評価しようと考えました。
――そのようなチームの中で、エージェンシーにはどのような役割が求められるのでしょうか。
志村:中心となる吸引力のあるアイデアを発明し、実現に向けてチーム全体をリードすることだと思います。クリエイティブの役割は、新しいアイデアを考えることだけではありません。同じアイデアであっても、誰と、どのような体制で実現するかによって、社会を変える力は大きく異なります。 必要な専門性を持つ人を集め、異なる目的や立場をつなぎ、アイデアを実現可能な形へ育てていく。さらに、プロトタイプで終わらせず、企業活動や社会の仕組みとして実装し、変化が広がるところまで導く。そこには高度なクリエイティビティが必要です。
カンヌライオンズ2026のプレスカンファレンスの様子 クリエイティビティで、よりよい未来に変えていく――審査委員長を務めた経験を、今後どのようにつなげていきたいですか。
志村:今回改めて感じたのは、私たちが持っているクリエイティビティは、広告やマーケティングのためだけにあるものではないということです。 企業の経営、事業、プロダクト、サービス、社会システムなど、クリエイティビティを必要としている領域は数多くあります。広告の外へ出て、企業や社会のあらゆる場所にクリエイティビティを組み込んでいくことで、より良い未来をつくることができる。その可能性を、今回のエントリーから強く感じました。 AIによって、アイデアを生み出し、形にする力は、これからさらに広く行き渡っていくでしょう。だからこそ問われるのは、何をつくったかではなく、そのアイデアで社会や未来にどのような変化をもたらすのか、です。 「これは新しいのか」、「これは実現できるのか」という問いから、「これは何を変えられるのか」という問いへ。 2026年のイノベーション部門が示したのは、アイデアや技術の新しさを競う未来ではなく、クリエイティビティによって現実の変化を生み出す未来だと思っています。
アワードセレモニーでの、イノベーション部門審査委員長スピーチ動画