Japan Study TalkNo.1
ニューヨークで 85歳の巨匠に聞いた、日本。そして人生。(前編)
2015/04/20
2020年の日本、そしてその先の日本はどうあるべきか、日本のオリジナリティーとはそもそも何なのか。海外に出て様々なジャンルで活躍する日本人と、Talk(=interview)を通じて日本の未来のヒントを探す新連載を、電通総研Japan Study Groupがお送りします。第1回は、電通総研クリエーティブディレクターの倉成英俊が、ニューヨークで約50年活動されているアーティストの川島猛さんと夫人の順子さんに、ソーホーのアトリエでお話を伺いました。
高松からNYへ。キーワードはアンチステータス。
倉成:ニューヨークに来られたのはいつですか?
川島:1963年。ケネディ暗殺の年ね。僕は33歳だった。日本人はね、アメリカに来られなかったんですよ。戦争の敵国だから。それがね、開放されてね、観光かなんかで来られるようになってから、僕、飛び出した。ニューヨークに来たときはね、やっぱりね、ジャップって言われてたね。「おーい、ジャップ」ってね。一人で歩くのは危なかった。パーティーやら行く時もね、友達と2、3人で行かないとね、危なかった。
倉成:なぜ、ニューヨークだったんですか。
川島:みんなパリに行くから。ハッキリ言って東大と同じで、ステータスを持ってるところには行きたくなかった。それと、僕アウトサイダーでね、団体とかグループとか大学とか入ってないからね。一匹狼だったから、そういうところに興味が無い。行ったって先輩もいないし。だから新しい国へ行きたかった。
それまではね、みんなパリとロンドン。ニューヨークって結構後なんですよ。はっきり言っちゃえば、ニューヨークは、(大戦などを理由に)金持ちが世界中から逃げてきたところで、ステータスはなかったんですよ。パリに行く前に、ニューヨークに寄って行こうとして、ステイした人が多いわけです。だから、どういうんか、イメージとしてはニューヨークシティってすごくコンプレックスがあるから、無茶苦茶に文化とかねアートに力を入れたんですよ。それでアメリカが変わってきたんです。
たとえば、ソーホーのここみたいな建物とかはね、リンゼイ(ジョン・リンゼイ元ニューヨーク市長)が保存したんですよ。マンハッタンはほら、高層ビルにしてしまったから。歴史保存建造物で、市が許した芸術家だけ住んでいいという。着る物食べる物が全部違う、一般の資本社会の行動から離れたことばっかりやる人が集まってね、ソーホーは特殊地帯になってね。そうすると余計、おかしくというか、まあ貴重な場所になったわけ。
順子:主人は、多分ソーホーでね、ロフト買った最初の人かもしれない。主人の作品をニューヨーク近代美術館(以下、MoMA)が買ったから、ニューヨークシティがArtist Certificate(アーティスト証明書)をくれて。だから買えたわけ。
倉成:やっぱり子どもの頃から絵が好きだったんですか。
川島:まあ絵が好きだったというのは、当たり前のことでね。ただ、絵を描くことにステータスがなかった時代。日本は文化が多角的だよね。お茶もあるし、舞踊もあるし、日本画もあるし、洋画もあるし、多様化されている。アートは趣味という見方をされていて、「いいご身分ですね」と言われた。訳の分からん絵を描いて、金を使って、食っていけて、最高の親不孝者というね。田舎では、そういうイメージがまだ残ってる時代だった。
まあ、美術の先生とかね、コンテストで新人賞をとったり、美術団体に所属すればステータスがあるから、親はお金を貸してくれたんだけど。僕も美術団体に誘われたりはしてたけど、所属しても有名になるのは1人か2人しかいないし。でまあ、ニューヨークに来たんだけどね。
倉成:今でいう武蔵野美術大学に行かれたんですよね?
川島:行きたくなかったけど、行かないと親が仕送りしてくれなかったんですよ。近所とか親戚なんかに、「うちの猛は美術の大学に行ってるんや」って言えるじゃない。長男でしょ、家出てるでしょ。「絵を描いてる」だけでは親不孝だけど、美術学校はいいわけ。
倉成:(作品集をめくりながら)このページを見ると、裸婦描かれてて、次いきなりこの抽象的な絵に飛ぶじゃないですか。この間に何が起こったんですか?
川島:いやあ、好きなの描こうと思っただけじゃないかな。それと、お金が無いから白い紙にペンでね。これ黄色になってるけど、白い紙なんですよ。でも、紙っていっても安物の紙だから。
順子:こういうのは、日本ですでにやってた。だから、急に飛んだわけじゃなくってね。
倉成:川島さんの作品って、日本人だからできる表現だなって思うことってあります?
川島:そういうことは考えたことない。
倉成:「ああ、なんか日本っぽいね」とかって言われることは?
川島:日本らしさとか、それを言うのはもうカラスの勝手でね。人の見方っていったら十人十色で、異性の好みと同じ。ただ、日本の作品で、日本の作家が、こっちの人に影響を与えるような、そんな絵を描きたかった。みんなね、ヨーロッパとかアメリカのね、前衛の作家たちをまねするからね。ピカソ、マチス、ルノワールだとかね。だから僕は、そういうのはやりたくなかった。正反対に行こうと思って。
順子:あの話してあげたら?ニューヨークに来てすぐね、美術館とか画廊とか、全然行かなかったんだって。半年くらい、長ーいこと。要するに、見ると影響を受けるから。影響を受ける前に「とにかく自分の作品を描こう」って言って。そのためにニューヨークに来てるから。みんなは普通、来たらすぐ見に行くじゃない。少なくとも画廊とか。
倉成:まあ、市場調査を先にしちゃいますよね。
順子:それを一切しないで、とにかく絵を描いたんだって。その時の絵がね、MoMAの永久保存になってる。
MoMAのパーマネントコレクションとなっている「New Symbolism –Red and Black」1964年
順子:だから、全然影響を受けてない。そういうこだわりがすごくあってね。
川島:「影響を受けたらいかん」というわけじゃないんよ。影響を受ける前に、自分が日本でやってきた仕事をやろう、ということで。
二人を出会わせたのは、「何を考えて、何をしようとしてるか」
倉成:順子さんはいつ来られたんですか?
順子:私は1972年。日中国交の時。沖縄が日本に復帰した年。
倉成:何でニューヨークに来られたんですか。
順子:(川島さんを指して)あなたですよ。とか言ったりして(笑)。
川島:あ、日本で知って連れてきたんだ、俺が。
順子:東京の青山にピナール画廊っていう、一世風靡した大きい画廊があって、そこに私はいたのよ。ピナール画廊のオーナーに「川島猛っていうニューヨークで活躍してるのがいて、7年ぶりで里帰りして、香川県で展覧会をしてる。うちの画廊でもやろうと思うんだけど、君どう思う?」って言われて、それがきっかけ。その時は作品だけ見たんだけど、びっくりしてしまってね。「ひえー、これが絵か」って。一体、どんな人が描くんだろうと思って、数日後に会ったらこの人だったの。
だからうちの主人はいつも「彼女は俺に惚れたんじゃなくて、絵に惚れたんだよ」って言っていて。「最高じゃないのそれ」とか言われて(笑)。私は人を見る時に、どうしても中まで見に行くのね。何に興味があるか、何をしようとしてるか。
倉成:そういわれてみると、順子さんからいただいたメールとか手紙、内面を探られてた気がする(笑)。
(※倉成氏が川島夫妻と会うのは3度目で、インタビュー現場となるスタジオに宿泊したこともある)
順子:どうしても、そこを見たいわけよね。よく言うじゃない。背の高い人がいいかとか、優しい人がいいかとか。収入は、職業は、とか。そーんなこと、どうでもいいんじゃないの、って。要するに、何を考えて、何をしようとしてるか。
川島:褒め殺し。(笑)
(後半につづく)
お知らせ:
2015年4月18日(土)〜4月29日(水)
神戸市のギャラリー島田で、川島猛さんの個展が開かれます。
詳細はこちら http://gallery-shimada.com/