昨年4月、本連載で何度も紹介させていただいた野中郁次郎先生を追悼するセミナーで、奥村昭博慶應義塾大学名誉教授はいくつもの温かいエピソードをご紹介くださいました。
ハーバート・サイモンの「情報処理(組織を情報処理の装置とする見方)」やピーター・ドラッカーの「知識社会(ナレッジワーカーが中心となる社会)」を超えた、野中先生の「知識創造」の価値。その根幹には(西田幾多郎などの)「哲学」があったこと。酒の席でも、そのような話が多かったことなどなど。
ですから、その時に告知された製薬会社エーザイを研究対象とした一冊、「知識創造企業エーザイ『生き方』の経営」(奥村昭博・野中郁次郎・川田英樹著/日経BP)の刊行をずっと心待ちにしていました。
企業活動に経営理論を当てはめて解釈する事例は数多くありますが、エーザイは野中先生が提唱した「組織的知識創造」の、文字通り最高峰と言える「実践企業」です。その理論を組織の隅々まで浸透させ、アルツハイマー病治療薬レカネマブなどを、世界を舞台に展開しています。
少しだけ「おさらい」をしておくと、組織的知識創造理論の中核をなすのは「SECI」。次の4つのモードを無限のスパイラルとすることで、組織の知識創造を説明する動態モデルです。
①動く現実のただ中で直接経験を通じて暗黙知を獲得・共有・形成する「Socialization(共同化)」
②対話などを通じて、その暗黙知の本質を概念としての形式知に変換する「Externalization(表出化)」
③さらにあらゆる形式知を総動員し、組織や社会で共有できる集合知(理論、モデル、製品、サービスなど)を創造する「Combination(連結化)」
④そして集合知を試行錯誤する中で、実践する個人一人一人に暗黙知が充実する「Internalization(内面化)」
さて。このSECIの中で、エーザイの内藤晴夫代表執行役CEOが重要視しているのが「①共同化」です。同社のグローバルを含む全社員は、業務時間の1%を患者や生活者とともに過ごし、まさに直接経験を通じて、なかなか表に出てこないその想いを知ることが推奨されていると言います。
そして、この取り組みの後ろ盾となっているのが、「ヒューマン・ヘルス・ケア(hhc)」という企業理念です。ビジネス上取引のある医師や薬剤師を顧客と考える製薬会社が多い中で、エーザイは「全社員が、患者様と生活者の皆様の喜怒哀楽を第一義に考え、そのベネフィット向上に貢献するために何をなすべきか、顧客の立場で議論し、それをビジネス活動で実践し、実証し、世界に発信し、社会を変えていく。」ことを目指しています。(公式ウェブサイトより)
ここで注意したいのは、「hhc」という企業理念が、「パーパス・ブーム」の頃によく見られた理想をうたった美辞麗句ではなく、組織メンバー一人一人が「いま、ここ」で何をすべきかを指し示す行動指針になっている、ということです。
たとえば行き詰まっている研究者に対しては(海外の文献を読みあさることも良いけれど)、「あなたは本当に、患者や生活者の喜怒哀楽をわかっていますか?」「堂々と業務として、現場に行って直接体験をしてきてください」というメッセージが内包されています。
そしてなぜ「hhc」に現場へのメッセージが内包されているかといえば、医師や薬剤師を顧客と考える製薬業界の「常識」を本気で変えようとする圧倒的な「当事者意識」があるからです。
「すべての食卓に、おいしさの笑顔を」とか「イノベーションで、未来を拓く」といった類いの美辞麗句とは違います。実際、エーザイは熱帯病制圧のためにリンパ系フィラリア症治療薬22億錠を世界保健機関(WHO)に無償提供しています。そこには、やるべきは「社会善の実現」であり「利益は結果である」という覚悟が明確に示されています。
「組織的知識創造」の実践を目指す流れの末席を汚すものとして、エーザイの約40年にわたる取り組みを著したこの一冊は、とても貴重です。「本当の意味で組織を“動機づけする力”は知識創造以外にないと思います」という内藤代表執行役CEOの言葉にもある通り、本気で組織変革を志すすべての人におすすめします。
今年92歳になる母も、少しずつ認知の低下が進んでいます。劇的な改善を見込める治療薬もなく、いまはただ自然の流れに任せる日々。以前はよく出してくれたトライフルやポルボロン、クリスマスプディングといったヨーロッパの伝統菓子の話をしても、「わたし、そんなの作ったかしら?」と笑っています。
とはいえ相変わらず食欲旺盛で、いきつけのお寿司屋さんでは毎回、ぼくたち夫婦と同じ貫数を平らげています。かつては認知の低下とか介護に「絶望」のイメージしかありませんでしたが、それはそれで幸せな喜怒哀楽に、感謝する毎日です。
どうぞ、召し上がれ!
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著者

山田 壮夫
株式会社 電通
第1CRプランニング局
クリエーティブ・ディレクター
明治学院大学 非常勤講師(経営学) 「コンセプトの品質管理」という技術を核として、広告キャンペーンやテレビ番組製作はもちろん、新規商品・事業の開発から既存事業や組織の活性化といった経営課題に至るまで、クライアントに「棲み込む」独自のスタイルで対応している。コンサルティングサービス「Indwelling Creators」主宰。2009年カンヌ国際広告祭(メディア部門)審査員等。受賞多数。著書「〈アイデア〉の教科書 電通式ぐるぐる思考」、「コンセプトのつくり方 たとえば商品開発にも役立つ電通の発想法」(ともに朝日新聞出版)は海外(英語・タイ語・前者は韓国語も)で翻訳・出版 されている。







