為末大の「緩急自在」<番外編>No.2
為末談義。近著「熟達論」の、よもやま話 vol.1
2023/09/08
為末大さんに「いま、気になっていること」について、フリーに語っていただくウェブ電通報の連載インタビューコラム「緩急自在」。その番外編が、7/13に為末さんが上梓(じょうし)された書籍「熟達論」(新潮社刊)を題材とした本連載だ。第1回では、長年、為末さんとともにアスリートブレーンズというプロジェクトを推進している電通Future Creative Centerの日比氏に、連載のプロローグにあたる文章を寄せてもらった。
つづく#02(本稿)から#06では、著者である為末さんと「熟達論」の編集を手掛けたプロデューサー/編集者・岩佐文夫氏に、執筆に至った経緯や思い出、苦労話など「ここでしか聞けない話」を中心に対談形式で語っていただいた。「人間はいかにして生きればいいのか」という深遠なるテーマに基づくコメントの数々、ぜひお楽しみいただきたい。
(ウェブ電通報編集部)
「私は今、なになにをしている者です」が、大事。(為末大)
岩佐:お久しぶりです。
為末:お久しぶりですって、岩佐さん。1カ月前にもお会いしましたよ。
岩佐:なにしろあの頃(編集部注:書籍執筆時)は、ほぼ毎週お会いしてましたから。
為末:そうでしたね。振り返ればなつかしいような、苦しかったような……。(笑)
岩佐:「熟達論」は、五つの章で構成されています。この対談では、その一つ一つの「章」にまつわるエピソードというか、背景というか、裏話のようなものを聞かせてほしい、とウェブ電通報の編集部の方がおっしゃってます。あっ、思わず司会者みたいなことを言っちゃった。まずは、執筆を思い立った経緯について、伺いましょうか。
為末:きっかけと言えるかどうか分かりませんが、はじめて岩佐さんにお会いした時から、岩佐さんという人物に興味があった、というのがきっかけといえば、きっかけです。どういうことを考えている人なのか、実際にお会いして話をしてみたかった。
岩佐:光栄ですね。たしかその時は、肩書の話をされてましたよね。
為末:いま思えば、ご縁だったのかもしれませんが、ちょうどその時、引退して10年もたつのに「元陸上選手」という肩書から抜け切れていないというか、この先、なにをしていけばいいのか、悩んでいた時だったんです。海外でよく聞かれるんですが、「一言でいうと、あなたは何をしている人なの?」ということが大事で、「過去にこれだけの実績と栄光を……」なんて話をしたところで、スルーされちゃう。
岩佐:“世界のタメスエ”でも、ですか?意外ではあるけど、正直、ホッとした。僕自身、フリーのエディター(特定の企業に属さない編集者)という仕事を楽しんでいるものの、正直な話、どこそこの出版社(編集部注:ダイヤモンド社のこと)でかつては編集長を務めていました、みたいな肩書から抜け出せない自分もいたりします。
為末:そうした負い目もあって、会社経営という、アスリートとは全く畑違いなことをやり始めました。スタッフにも恵まれているし、心躍るものではあるのだけれど、この年になって「再び、個人技をしてみたい」という気持ちがむくむくと湧いてきたんです。
岩佐:はじめてお会いしたとき、「今年は、経営のことばかりに奔走するのでなく、自らをじっくり見つめ直して、それを世の中に対して語りかけてみたい」とおっしゃってましたね。
為末:そこで、ぽんと頭に浮かんだのが、宮本武蔵の「五輪書」でした。ちょっと恥ずかしいのですが、「為末版の五輪書」のようなものが書けないものか、と昔から思っていたのを思い出したんです。
岩佐:なるほど。
為末流の五輪書。まずは、「遊(ゆう)」からスタート
為末:「熟達論」の五つの章は、人生の熟達に必要なヒントを端的に示したいという思いから「漢字1文字」で表現しました。
岩佐:一つ目は「遊(ゆう)」。僕はもう、さんざん知っているけど、どういうことですか?「遊」って。熟達の極意を語るのに「遊」から入るというのが、いかにも為末さんらしいなあ、というのが、僕の最初の印象でした。
為末:そうですか?僕にとっては、自然な入りなのですが……。
岩佐:でも、「遊」って、考えてみれば大切なこと。鬼の編集で有名な新潮社の足立真穂さんに、どれだけやり直し!と言われたことか……。「遊」の気持ちがないと、やってられない(笑)。
為末:えっ、そこに赤字が入るの?みたいな(笑)。でも、だんだん楽しい気持ちになっていきましたね。プロの目からすると、ここに問題があるのかあ、といった感じで。私の日本語力がかなりアップしたと思います。実際、そうした心のゆとりというか、「遊」の部分がないと、へこたれたり、投げ出したり、しまいには、心がぽきっと折れてしまったりする。
岩佐:アスリートとしての、自己肯定というか自衛手段のようなものですね。
為末:それもあるのですが、「遊」(遊び)から入ったほうが、物事、長続きするんですよ。小さい頃、お兄ちゃんのマネをしてプラスチックのバットを振って遊んでいた、みたいなバックボーンや子どもなりの工夫や発見というものは人の成長にとってとても大事で、ふと気が付いたら大リーガーになってました……みたいな話、よくありますよね?
岩佐:そこに、野心や計算などというものはない。純粋に好きだという。純粋だからこそ、ああ、オモシロイとか、カーブってどうやって投げるんだろう?とか、いろんなことに興味が湧いてくる。
為末:初心に返れ、じゃないですけど、オトナになると、記録だとか、名誉だとか、おカネだとか、いろいろなことに心を乱されますよね。なにもそれは、アスリートに限ったことではないけれど。「あの頃は、無我夢中だったなー」というバックボーンがあるかないかは、人生を豊かにする上で、極めて重要なことだと思うんです。
岩佐:なるほどね。とかくオトナは、「勝利の方程式」とか「効率の追求」とかといったものにどうしても縛られてしまう。当然、壁にぶちあたることもある。そのときに思うことは、逃げられない以上、歯をくいしばってでもやり遂げなきゃならない、といった使命感なんですよね。
為末:で、苦しむ。ところが、「遊」を原体験として持っている人は、そこで心が折れることはない。遊んでいるつもりが、いつの間にか夢中になっていただけ、という心のゆとりとともに「さてこの壁、どうやって乗り越えてみましょっか」といういたずら心が湧いてくる。
岩佐:いたずら心、ですかあ。そういうのって、大事ですよね。オトナになると、自分でも気づかずにブレーキを踏んでいたりする。経験上、これは冒険すべきではない、と勝手に判断したりして。いたずらするのって、子どもからすれば、それこそ大冒険ですから。こうすると、怒られるのか。でも、ここまでだったらニコニコと許される。といったことを経験する中で、いろんなことを学習していく。
為末:その意味でいうと、「遊」とは「不規則なもの」「不確実なもの」を恐れないタフさ、おおらかさ、といえるのかもしれません。とはいえ、「遊」は熟達への第一歩。二つ目の文字は、正直、僕自身が苦手とするものなのですが、それについては次回、お話しさせていただきます。
岩佐:言われてみれば、確かにそうですね。第二章を執筆されているときの為末さん、なかなかつらそうだった(笑)。
(#03へつづく)
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