為末大の「緩急自在」<番外編>No.3
為末談義。近著「熟達論」の、よもやま話 vol.2
2023/09/15
為末大さんに「いま、気になっていること」について、フリーに語っていただくウェブ電通報の連載インタビューコラム「緩急自在」。その番外編が、7/13に為末さんが上梓(じょうし)された書籍「熟達論」(新潮社刊)を題材とした本連載だ。第1回では、長年、為末さんとともにアスリートブレーンズというプロジェクトを推進している電通Future Creative Centerの日比氏に、連載のプロローグにあたる文章を寄せてもらった。
つづく#02から#06では、著者である為末さんと「熟達論」の編集を手掛けたプロデューサー/編集者・岩佐文夫氏に、執筆に至った経緯や思い出、苦労話など「ここでしか聞けない話」を中心に対談形式で語っていただいた。「人間はいかにして生きればいいのか」という深遠なるテーマに基づくコメントの数々、ぜひお楽しみいただきたい。
(ウェブ電通報編集部)
「ぶつ切り」「こま切れ」な本になってしまうのでは?と実は内心、ヒヤヒヤしていたんです。(岩佐文夫)
岩佐:今だから言いますけど、五つの「章立て」が決まり、それにのっとってあがってくる為末さんの原稿に、不安を感じる瞬間もありました。よくまとまっているんだけど、それぞれの章が「ぶつ切り」「こま切れ」のようで、なめらかにつながっていない。なので、最初のうちは各章の終わりにコラムのようなものを挟んだらどうか、とか真剣に考えたりしていました。
為末:いま思えば、書きたいことがたくさんありすぎて、気持ちが先走っていたんですね。今回お話しする二つ目の文字である「型」を、完全にすっ飛ばしていた。
岩佐:よくある指導、よくある指南書では、必ずといっていいほど「型」から入りますものね。アスリートの世界でも料理人や芸事の世界でも、そう。文句を言わず、なにも考えずに、とにかく「型」から入れ。いずれ、分かるときがくる。といったような。
為末:それが、イヤだったんです(笑)。でも、「型」からは逃げられないし、逃げてはもったいない。将来、それを否定しようがなんだろうが、先人たちの教えはまず、身をもって知ることが大事。大事というよりも、知らないで損をするのは他ならぬ自分なんです。
岩佐:それで、二つ目の文字に「型」をもってきた(笑)。
為末:僕が書きたいと思う「熟達論」は、熟達のための「マニュアル本」にはしたくなかったんです。伝えたいことは、熟達には「プロセス」があるんだよ、ということ。現役の頃は、そんなことは、考えもしなかった。だから、特定のコーチにもつかなかったし、自分のインスピレーションだけが頼りだった。うまくいってるときはそれでもいいんです。でも、壁にぶつかったとき、どうしたらいいのか分からず、ただただ焦りだけが増していく。あれこれやってみたところで、当然、結果は出ない。
岩佐:それは、執筆にも言えることですよね。
為末:そこで、前回も話にご登場いただいた、新潮社の編集者・足立真穂さん、ということになる。
岩佐:単なる“編集者”ではなく、“鬼の編集者”ですね。「素晴らしい!」と言いながら、都度、鬼のような赤字を入れてくる、という(笑)。
為末:足立さんの指摘には、毎回素直に感動しました。そこにはきちっとした「型」があるから。型がない原稿とは、自分の書きたいことを書いているだけで、全体の流れが意識できていない、と気づかされたんです。それはアスリートでいうなら、自分の体の声が聞こえていないのに等しい。コンマ何秒はやくゴールしたい、ということだけを考えているものだから、頭では明確に整理できたつもりでいても、体がついてこれずバラバラになっている。
岩佐:そんなとき、頼れるものが「型」なんだ、と。
為末:さんざん「遊」んだ末に、「型」が欲しくなる。現役時代を思い出しても、若いアスリートを指導していても、それは痛感しますね。この選手はまだ、心の底から「型」が欲しいというプロセスに達していないんだな、といったことがよく分かる。
岩佐:自ら章立てした文字に、自らが救われるところが、為末さんらしいです。素直というか、気取らないというか。で、勝手に軌道修正してくる。編集者としては、頼もしさ半面、じゃあこのオレは、一体何をすればいいの?という気持ちになりました(笑)。
為末:宮本武蔵の「五輪書」のような本が書きたいな、と漠然とモヤモヤしていた時、「今、書きませんか?」と岩佐さんに言われたのも、いま思えば「そうか。編集者には、そんな型があるのか」ということだったような気がします。
岩佐:「今、書きませんか?」という気持ちではなくて、実は「今は、書かないんですか?」という質問だったんです。
為末:で、気付いたら本になってた(笑)。いや、本にしてもらった、というのが正直な気持ちです。
「個性」と「型」の関係は、難しい。だからこそ、楽しい。(為末大)
為末:以前から思っていたことなんですが、バラバラだった「個性」は、いつの間にか「型」というものに収斂(しゅうれん)されていく。で、ある程度「型」が定まると、そこからまた「個性」が暴れ出すんです。スポーツでいうなら、チームで戦う種目すべてに言えることだと思います。
岩佐:アスリートの世界については、にわか知識でしか語れないですが、為末さんの文章に関して言うなら、3次元的(立体的)で、ダイナミックだなあ、というのが僕の印象。活字の世界って、2次元で表現するものだし、静的なもの。なので、僕のような編集者は、どうしても抽象的でフワフワした物言いになってしまう。でも、為末さんの場合は、すぐさまそれを、立体的に具体化してくれます。
為末:「型」のいいところは、何度も反復練習しているうちに、それが無意識でできるようになる、ということなんです。
岩佐:なるほどね。余計なことを考える間もなく、体が反応している、という。
為末:言われてみれば、「それについて、為末さんはどう思われますか?」という質問を、よく受けますね。「個性」も「型」も、特には意識していないけど、「どう思われますか?」と言われると、頭よりも先に体が反応してしまう。それを追いかけるように、そういえば外国でこんな経験をしたぞ、とか、昔読んだ本にこんなことが書いてあったぞ、とか、そんなことがむくむくっと思い出される。それが、楽しいんです。心の奥底にしまっていたものが、抽象化され、言語化されると、こんなことになるのか、といったようなワクワク感です。
岩佐:「型」の中で「遊」んでいる、といった感じですかね?
為末:なので、五輪書のようなものが書きたい、と岩佐さんに相談したとき「ようするに、為末さんが書きたいのは『学習論』でしょ?」と言われて、なるほどな、と思った。「ノウハウ本」みたいなものにはしたくないとは思っていたんですが、「学習論」と言われると、それは「マニュアル」ではなく「プロセス(段階)」を解き明かすということか、といった具合にイメージが広がっていくんです。
(#04へつづく)
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