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為末大の「緩急自在」<番外編>No.4

為末談義。近著「熟達論」の、よもやま話 vol.3

2023/09/22

為末さん<番外編>シリーズタイトル

為末大さんに「いま、気になっていること」について、フリーに語っていただくウェブ電通報の連載インタビューコラム「緩急自在」。その番外編が、7/13に為末さんが上梓(じょうし)された書籍「熟達論」(新潮社刊)を題材とした本連載だ。第1回では、長年、為末さんとともにアスリートブレーンズというプロジェクトを推進している電通Future Creative Centerの日比氏に、連載のプロローグにあたる文章を寄せてもらった。

つづく#02から#06では、著者である為末さんと「熟達論」の編集を手掛けたプロデューサー/編集者・岩佐文夫氏に、執筆に至った経緯や思い出、苦労話など「ここでしか聞けない話」を中心に対談形式で語っていただいた。「人間はいかにして生きればいいのか」という深遠なるテーマに基づくコメントの数々、ぜひお楽しみいただきたい。

(ウェブ電通報編集部)

「守破離」の「破」をどう表現するか、で悩みました。(為末大)

岩佐:「遊」「型」と進めてきた「熟達論」ですが、いよいよ三つ目のキーワードです。

為末:正直、これには悩みました。言いたいことは「守破離(しゅはり)」の「破」なんですが、「型」が大事、と言っておきながら、それを壊しなさい、では支離滅裂で読者にきょとんとされてしまいますから。

岩佐:古くは日本の茶道や武道などの芸道・芸術の分野で使われていた師弟関係と修業の過程を示したものですよね。「守」は為末さん流でいうと「型」になる。

為末:「破」は、熟達にとって確かに必要なプロセスなんですが、これをもう少し丁寧に因数分解できないか、と思ったんです。抽象的な物言いになってしまいますが。

岩佐:「破」=「なになに」×「これこれ」ということですね?その「なになに」にあたるものが、三つ目のキーワード「観(かん)」である、と。
 

「熟達論」の章立て(その3)


為末:前出の「遊」と「型」のあるべき関係性は、二つのプロセスの間を行ったり来たりできることだと僕は思っているんです。「遊」というプロセスは、その人のバックボーンだと言いましたが、「型」を学んでいくうちに、あれ?この感覚、以前、「遊んでいた」時に味わったことがあるぞ、とか。それでいうと、いまの「型」よりも、こういう「型」のほうがいいんじゃないだろうか、とか。

岩佐:その「型」の先にあるプロセスを考えた際に、それは「観(み)る」ということだと思った、と。

為末:そうなんです。型をいきなり「破壊」しちゃうんじゃなくて、ね。「観」とは、文字通り「観て、分析する」ということで、英語でいうところの「アナライズ」にあたるものだと思っています。

岩佐:で、ここがオモシロイところだと思うんだけど、為末さんの言う「観」とは、大局観の「観」ではなく、ディテールを観る、ということなんですよね。

為末:そう。たとえば走るという行為一つをとっても、足の指先からくるぶし、膝(ひざ)、腿(もも)、腰、胸、腕、首……など、数えきれないほどの「部位」を使い、なおかつ、その「部位」同士が連携しあっているんです。そのディテールに目を向ける、ということが「型」の次のプロセス(=熟達の段階)なのではないか、と。

岩佐:その発想こそが、まさに「熟達論」の真骨頂と言えるでしょうね。

「熟達論」書影

「観」がないと、「対話」が生まれない。(為末大)

為末:もう一つ、「観る」という行為で大事なことは、物事を抽象化できる、ということなんです。これは「遊」や「型」から一歩進めて、「自分は、現状をこのように捉えている」といった理性的な説明ができるようになるということで、それがないと、他人との「価値のある対話」ができないわけです。

岩佐:「価値のある対話」とは、自分や相手にとって「発見がある対話」ということですね?

為末:「遊」という自分の殻にこもっている段階、あるいは「型」という常識の枠にとらわれている段階から、一歩前へと踏み出す、そんなイメージです。抽象度を上げていけばいくほど、たとえば将棋の棋士とか政治家とか、料理人とか、それこそありとあらゆるジャンルの人と対話ができるようになる。メタ認知ができるんですね。

岩佐:世界観や人生観の「観」、ですものね。ある体験を通じて、それは海外旅行でもなんでもいいのですが、その「観」が変わったということは、いい意味での「破」が始まった瞬間といってもいい。

岩佐文夫氏:プロデューサー/編集者。自由学園卒。日本生産性本部、ダイヤモンド社でビジネス書編集者、「ハーバード・ビジネス・レビュー」編集長などを歴任し2017年に独立。書籍「シン・ニホン」「妄想する頭  思考する手」ならびに為末大著「熟達論」のプロデューサー。現在は、音声メディア『VOOX』編集長であり、英治出版フェローも務める。
岩佐文夫氏:プロデューサー/編集者。自由学園卒。日本生産性本部、ダイヤモンド社でビジネス書編集者、「ハーバード・ビジネス・レビュー」編集長などを歴任し2017年に独立。書籍「シン・ニホン」「妄想する頭  思考する手」ならびに為末大著「熟達論」のプロデューサー。現在は、音声メディア『VOOX』編集長であり、英治出版フェローも務める。

為末:「観ること」を通じて、部分そのものや、部分と部分の関係、物事の構造などが明らかになってくる。いままで漫然と眺めていたものに、輪郭や奥行き、重みなどが感じられるようになる。

岩佐:そうなってくると、「破」=「なになに」×「これこれ」の、「これこれ」の方にもがぜん、興味が湧いてきますよね。でも、それについては……。

為末:次回、詳しくお話しさせていただこうと思っています。

岩佐:やはり、そうなりますか。(笑)

部位に通じれば、道理が「観」えてくる
部位に通じれば、道理が「観」えてくる

為末:おもしろいのは、AIは「膨大なデータ同士の関係性を理解する」ことで成り立っている、ということ。人間の場合、AIとは比べものにならないほどの少ないデータから結論を導き出すしかない。それができている、ということが、そもそも不思議ですよね。

岩佐:AIの話は、興味深いですよね。なにしろ、2045年には全人類がAIに支配されている、などとうわさされているくらいですから。

為末:少しテーマがそれるので深入りはしませんが、「AIとの幸せな協業」という意味では、人間にしかできないことって、なんだろう?人間の底知れぬ、AIのはるか上をいく能力ってなんだろう?ということを考えるときにきているのは、事実だと思います。その意味では、今回、岩佐さんや足立さん、多くのスタッフの方と、あれこれ議論したことは何かのヒントになるような気がします。

岩佐:足立さん、というのは新潮社の“鬼の編集者”こと、足立真穂さんのことですね?(笑)ますます、「×これこれ」の正体が気になってきました。

「熟達」への道は、決して平たんではない。
「熟達」への道は、決して平たんではない。

(#05へつづく)

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