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脳のなかの2匹の金魚No.1

失敗が果実をもたらす可能性について

2015/10/06

アドタイ掲載の「脳のなかの2匹の金魚」を特別公開。
 

古川裕也氏、初の著作『すべての仕事はクリエイティブディレクションである。』(宣伝会議刊)を記念し、アドタイで好評だったコラム「脳のなかの2匹の金魚」が全6回で復活。これまで出会ったさまざまな名作映画、音楽、小説を手がかりに、広告クリエーティブの仕組みや考え方をつづっていきます。


 

A
「麻薬中毒患者の幻覚のようなこの絵を見て、みんなり笑わずにはいられなかった。絵の印象を端的に言えば、この画家は妄想に打ち震えながら絵を描く狂気の画家だ」

B
「昔からよくあるうまくつくられたニセモノ」

C
「コンサート開始15分ほどで、観客の私語が聞こえはじめ、床を踏み鳴らすような音がかすかに聞こえてきた。それはやがて演奏よりもはるかに大きな音となった。そのうち、その騒音に、つまり床を踏み鳴らす音と演奏とに耐えきれなくなった多くの人たちが、不快感を隠すこともなく出て行った」

D
「戦力で国を防衛するという、自衛隊の宣伝映画のようなものだ」

E
「展覧会では、この絵の前で、その稚拙さを涙を流すほど大笑いしようとする人々の行列ができた」

F
「なんだ、こんなの単なる印象じゃないか」


なかなか強烈な罵詈雑言が並んでいる。
それぞれ正体を明かすと、

Aは、フランスの美術雑誌『アルティスト』(L’artist)誌1874年5月1日号に掲載されたセザンヌの『モデルヌ・オランピア』に対して書かれた批評。この絵は、記念すべき第1回印象派展に出品されたが、セザンヌはこの頃ほぼ無名の画家だった。

Bは、1965年、『ラバー・ソウル』発売後、初めての全米ツアーを終えたビートルズに対するアメリカでの批評の一部。百万歩譲って「ラヴ・ミー・ドゥ」や「プリーズ・プリーズ・ミー」のような初期ヒット・シングルならともかく、『ラバー・ソウル』に至っても、こんな理解だったのだ。ちなみに収録曲は、「ノーウェア・マン」「ノルウェーの森」「イン・マイ・ライフ」「ミッシェル」など。『ラバー・ソウル』は6枚目のアルバム。明らかにシングルの集成ではなく、「アルバム」(もはや懐かしい名詞だけれど)と呼ぶべき状態に到達している。

この批評が掲載されたのはニューヨーク・タイムズだが、同紙はこの2年後に、手のひらを返すように、5ページにわたる「ビートルズ大特集」を組んで、ベタ褒めしている。ちなみに、ビートルズに関するこの種の「悪口→手のひら返し」は同時期、他にもたくさんあって、「ただの10代の若者たちのアイドルにすぎない。時間と共に消え去るだろう」→「ビートルズこそホンモノ」なんていうのもあったらしい。

やはりその頃、ニューズウィークは、「髪型にごまかされるな。才能なんてありっこない」と書いている。その2年後、ニューズウィークは、ビートルズを「ポップスの大詩人」とまつりあげ、手のひら返しすることになる。2年後ということは、世界中の少年少女が初期段階から適切にも熱狂し続けたのに対して、マス・メディアがビートルズを正当に評価できたのは、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の頃になってやっと、ということになる。

Cは、ストラヴィンスキーが作曲し、みずから指揮した『春の祭典』の初演に於ける聴衆の反応。1913年5月29日パリ・シャンゼリゼ劇場は、たいへんなスキャンダルだったらしい。この傑作が世間に受け容れられたのは、1920年。その時あまりの素晴らしさに、ココ・シャネルが30万フラン寄付したというエピソードが残っているが、正当な評価を得るまで7年かかっている。

Dは、1954年、黒澤明『七人の侍』公開当時の論調。これもひとつではなく、あちこちでこの論旨の批評があったという。東西冷戦初期でそういう時代だったとはいえ、表現物をすべてひとつのポリティカルなイデオロギーから判断することの愚かさの証明にもなっている。それにしても、これほどとんちんかんな論評もめずらしい。

Eは、アンデパンダン(インディベンデント)展における、アンリ・ルソーの作品に対する観客の反応。嘲笑することをあらかじめ決めて絵画を見るということが、そもそも想像しにくいが、あと5人で自分もやっと笑えるとか思いながら、みんな並んでいたんだろうか。なかなか不健全な光景である。

Fは、クイズ(?)としては、分かりやすすぎました。この時まだ、「印象派」という呼び方はなく、マネやルノワールなど前衛的(!)な若い画家たちの展覧会で、彼らの絵を見てあるジャーナリストが吐いたのがこの悪口。それがひとり歩きして、「印象派」という名前が生まれたという。セザンヌの『モデルヌ・オランピア』よりの前のできごとになる。

残念ながら、正当な評価が必ずしも直ちに下されるわけではない。しばしば時差がある。極端なのは、ゴッホだろう。なにしろ生前売れた絵が一枚だけというのだから。死んでからとてつもなく高く評価される。価格的にも法外なほど高く。

おおざっぱな傾向として、今までなかったもの、得体のしれない魅力を持ったものは、最初期、まず世の中の無理解に遭遇する可能性が高い。これらとんちんかんな罵詈雑言は、その証拠だ。

こういうことが、21世紀現在、組織の中でものを考え創る仕事をしている人に起きたらどうなるか。

たいていの場合、わかりやすく「失敗」とみなされる。最初の世評が覆るまで誰も待ってはくれない。

言うまでもないことだが、冒頭の例はいずれも失敗ではない。どころか、どれも世界遺産だ。セザンヌ、ビートルズ、ストラヴィンスキー、黒澤、アンリ・ルソーだからね。けれど、第1四半期のような短期で見れば、結果的に必ずしも成功とはいえないことになってしまう。例えば、オンエアしたテレビCMが、セザンヌの傑作に対するように「麻薬中毒患者の幻覚のようだ」とつぶやかれたら即刻アウトである。

セザンヌは、ゴッホほど極端ではないにしろ、評価されたのは死後だったし、ビートルズもレコード・セールスこそ圧倒的だったけれど、世界半分が熱狂し、残り半分が憎悪する状態がずっと続いていた。1966年日本公演の時も、「ああいうものが武道館に足を踏み入れることは、日本人として許せない」なんて意見が一定数あったらしい。

僕たちの仕事は、あらゆるクリエーティブ仕事の中の商業部門なので、そのつどそのつど短期的にも結果を出すのが義務である。しかもその義務の中には、3ミリでいいから何らかの「新しさ」を付け加えることも含まれている。

無難に今までと同じであればいい、と自分たちの仕事を規定した場合、ことは単純で、「失敗はしてはいけない」がクライテリアになる。けれど、3ミリでも今までにない要素を加えなければならない仕事の場合、プロセスの中で「失敗」を積み重ねることによる新たな知見の獲得がなければ、ゴールに到達することはできない。

いちいちやってみなければわからない仕事なのだ。そりゃそうだ、誰もやったことないことやろうとするんだから。

「君が今後2週間以内に大きな失敗をしなかったら、私は君を解雇するだろう」

セス・ゴーディンは、若い社員によくこう言うという。彼に限らず、特にシリコンバレーでは、失敗経験のない人はまったく評価されない。能力的には学習が足りないとみなされ、性格的には未知のことにチャレンジするスピリットがないとみなされる。かんたんにはできないこと、大きなこと、誰もやっていないことをゴールに設定してとっとと失敗しろと急かされるらしい。

よくわかる。
最終的に獲得すべきことは、僕たちの仕事と同じだ。

ガダルカナル、ミッドウェイなど、第二次世界大戦における日本軍の作戦失敗の原因を分析した歴史的名著、『失敗の本質』以降、失敗を特にビジネス・プロセスに活かそうとする研究が盛んである。

けれど、それが役に立つのは、クリエーティブ的現場感覚からすると理論や方程式ではなく、実際に失敗してみる以外にない。つまり、失敗して実感的に学習する機会を持つことしか有効ではない。失敗から確実に見込まれる果実は、「こういうのはダメなんだ」とみんなが学習し共有することである。

「それだとダメなんだ」と認識できただけでも大収穫、しかもそれは、机上の知識ではなく、体感的であるが故に確実なクリエーティブ資産になる。

短期的成果をとにかく求めるという状況は、失敗を許さない。肌感的にも失敗できなくなっているとみんな感じているのではないか。そろそろロングタームにわたる種類の仕事に、今までと違う仕事に、僕たちのクリエーティビティを応用させるべきであるにも拘らず。

ワイデン+ケネディのポートランド・オフィスの入り口の壁には、“Fail Harder”と大きく書かれている。これにはボディコピーがあって、その中に、「あなたは人々が失敗することを許さなくてはならない」というフレーズがある。

それを見ると、いい仕事をするために必要なステップとしての「失敗」というものは、アイデアを考える個人ではなく、組織、あるいはチーム、あるいはシステム、あるいはリーダーシップ、あるいはヴィジョンの側の問題ではないかと思い至る。

だって、勇気いるし。

「若いもんは積極的に失敗した方がいい」というような精神的散文的なことではどうもなさそうだ。励ますだけならむしろ有害。それは、キモチの問題ではない。組織全体、チーム全体の作業プロセスの中に、あらかじめ「失敗」をcreative costとして、組み込んでおくべきなのである。ポジティブな理由による失敗は、「次につながるスキルアップ」として「オープンにみんなにシェア」され、「決定的にならないように修復しながら」「ダメじゃないやりかたを明確にしていく」。失敗できるようなチーム・組織でなければ、優れて新しいものなんかできっこない。

山中伸弥教授は、研究室に入りたいという学生との面談で、必ずこう質問するという。
「あなたは、失敗を楽しめますか?」
さすがです。

本コラムはアドタイに掲載。