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大﨑洋氏「吉本の本質は『家族的』、これから100年も」第2回

2013/12/18

【第2回】 私たちにも、できることがきっとある

映画祭を通じて「共に手をつないで頑張ろう」とエールを

「地方」という観点でいうと、沖縄国際映画祭にも深い思い入れがあります。

きっかけは、松本人志が初めてつくった映画「大日本人」が、カンヌ国際映画祭の監督週間部門の招待作品に選ばれたことでした。

沖縄国際映画祭は今年で5回を数えますが、2011年の第3回大会は岐路に立たされました。映画祭は毎年、3月中旬から下旬にかけて開かれるのですが、直前にあの東日本大震災が起きたのです。当初の予定通り開催するのか、あるいは断念するのか、決断を迫られました。

本音を言えば、まず考えたのはここまで頑張ってきた社員のことです。普段はタレントのマネージャーをしているスタッフが、深夜1時頃に仕事から帰ってきて、それから映画祭の会議に出る。朝の4時、5時頃まで会議が続くのはざらで、ちょっと仮眠してからまた、いつも通りにマネージャーの仕事に出向いていく。そんな連中の姿を見ていたら、「今年はナシにしよ」なんて、とても言えない。それがまず一つですね。

そして、もう一つ。われわれの仕事、つまりエンターテインメントビジネスの世界で「働く」ということの意味を、ここでもあらためて考えざるを得ませんでした。大きな災害時など、世間を揺るがす不幸な出来事があったときは、よく歌舞音曲のたぐいは慎むようにと言われる。あるいは、世間にそういう空気が流れる。しかし、われわれが何のためにこの仕事をやっているかとあらためて自問自答すればみんな誰だって、周りの人を幸せにするためと違うのか。慎むのも一つの見識かもしれないけれど、そういうときこそ元気を与えるために何かをすることも必要なのではないか。そう思い定めて、開催を決断することにしたのです。

沖縄国際映画祭は、それまで「Laugh&Peace」をサブタイトルにつけていたのですが、その第3回大会のときは、「私たちにも、できることがきっとある。「Yell,Laugh&Peace」としました。沖縄という地方から本土に向けて、そして東北の被災地に向けて、共に手をつなぎながら頑張ろうというエールを送る、そんな趣旨でした。そのエールを世界につなげるために他の映画祭の主催者側に賛同を募ったり、福島県いわき市でチャリティー映画祭を開いたりもしました。

沖縄を「エンターテインメントの島」にしたい

沖縄国際映画祭は、地元・沖縄の人たちにも共感してもらえるようになってきていると思います。出品作品の上映だけでなく、お笑いのイベントで盛り上げたりするので、最初は本土からお笑い芸人が来て大騒ぎをしているという冷ややかな目もないではありませんでした。しかし、沖縄を元気にするという映画祭の狙いを、現地の人たちにも少しずつ理解してもらえるようになりました。

先ほども触れたように、映画祭のコンセプトは「Laugh&Peace」。沖縄の人たちは、歌って踊るのが大好き。本土にはない地域固有の文化や伝統芸能もある、その沖縄で、映画を核にしたにぎやかで楽しいお祭りを開く。それは、僕に言わせれば、とても「いい感じ」なことなんだと思います。

そもそも、吉本興業がやっているのは、「毎日が文化祭」みたいなものです。大風呂敷と思われるかもしれませんが、その文化祭を、沖縄本島だけでなく沖縄諸島全域に広げたいというのが僕の夢なのです。しかも、一時期のイベントとしてではなく、通年“文化祭状態”。つまり、沖縄を「エンターテインメント」の島にしたい。芸人だけでなく、役者や演出家、ダンサーなどを養成する施設も充実させる。エンターテインメントを見せる場としてだけでなく、育む場にもできたらいい。もちろん、伝統芸能もきちんと守っていく。

おのずと、働く場も生まれてきます。エンターテインメントの世界は、金融マンのような高度な知識やスキルがなくても、体ひとつあればできるいろんな仕事があります。なにも、企画・宣伝とかマネージャーのような仕事ばかりじゃない。劇場の大道具・小道具もあれば、ポスター張りやチケットのもぎりもある。「僕には取りえがありません」なんて自信喪失の若者にも、必ず何らかの仕事がある。働く場の間口が広いのが、この業界なのです。

構想の実現には、10年や20年では難しいかもしれません。しかし、30年先くらいには、そんな「エンターテインメント島」ができることを夢見ています。いま毎年開いている沖縄国際映画祭は、その0.1歩くらいにはなっているのではないかと思っています。

地元の人々の「元気」が外にも広がっていく

「地方」をキーワードにしたプロジェクトとしては、“住みますプロジェクト”の第2幕となるようなアイデアもあります。「よしもとふるさと劇団」というのがそれなのですが、日本全国の地域の人たちを核にして劇団をつくる。地域の“住みます芸人”だけでなく、吉本が擁する脚本家や演出家も駆け付けて、役者は地元の人たちからも募集する。そんな「ふるさと劇団」をみんなでつくろうというプロジェクトです。

それぞれの地域には、その土地の文化や風土に根差した物語がたくさんあるはずです。地元の人はよく知っている話でも、全国の人にはまったく知られていない面白い話があるでしょう。笑いのネタもあれば、感動のストーリーもきっとある。それを、郷土の人たちだけでなく、全国にも発信していくわけです。

このアイデアの背景には、昔やった仕事の「いい感じ」がやはりあります。

もう30年近く前の話になりますが、京都の日本海側の網野町(現京丹後市)というところで、さんま君と一緒に、廃校を利用してバラエティー番組をつくったのです。さんま君が校長先生になって、その廃校の子どもだけでなく、そのお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんも集めて、国語・算数などの授業をするのですが、実にほのぼのとして、面白いバラエティーができた。

吉四六(きっちょむ)さんで知られる、大分県の野津町(現臼杵市)でやった“ご当地芝居”も楽しかったですね。地元の名産・名品、名物、名人を徹底的にリサーチして、それを織り込んだ芝居を吉本のタレントやスタッフと、地元の観光協会や青年会の人たちと一緒につくるわけです。町長さんを悪代官役にして、出てきたらすぐに切られてしまうとかね(笑)。もう大盛り上がりでした。

沖縄の阿嘉島という小さな島でもやりました。まず、東京から来た子どもたちと地元の子どもたちが一緒になって、あちこちにいるおじいちゃんやおばあちゃんに、島の歴史とか名産品の話を聞きに行く。その話をプロの脚本家の先生に報告して、一緒に芝居の台本をつくっていくのです。一方、地元のお母さんたちは、おにぎりの炊き出しで手伝ったり、建設業のお父さんは舞台のセットをつくるのに駆り出されたり、青年団のお兄さん、お姉さんたちは、のぼりを立てたトラックで宣伝したり、チケット販売で島を回る。

そんなふうに地元の人たちと一緒に芝居づくりをしていくと、われわれがそれまで知らなかった「地方」が見えてくるし、地域の人同士の絆も深まる。つまり、互いを知り、理解し合う輪が、木の年輪のようにしっかり、そして着実に大きくなっていく。地域が元気になるだけでなく、その「元気」が外にも広がっていきます。

よしもとふるさと劇団には、そんなパワーの発信元になることを期待しています。

足しげく通って築き上げた「アジア」の人脈

「アジア」というキーワードも、私の中では「地方」とつながっています。日本を基点にすればアジアは海外ですが、世界を基点にすれば、アジアも一つの地域、つまり「地方(エリア)」です。だから、単にアジアに進出するという感覚はなく、中国や韓国、台湾といった地域の人たちと一緒にコンテンツをつくり上げていくという発想です。一緒にコンテンツをつくっていくことで、信頼関係もより深めていくことができます。

もちろん、吉本新喜劇などの人気コンテンツを国際市場で取引できる枠組みづくりや環境整備といったことも念頭にはあります。しかし、海外進出した多くの企業がそうであるように、コンテンツビジネスの世界でも「現地化」は最重要課題ではないかと思います。中国では数年前から現地タレントを使って上海吉本新喜劇を展開したり、さまざまなイベントの企画運営をしてきています。2010年には上海メディアグループと合弁会社をつくり、中国でのコンテンツビジネスの拠点として位置付けています。昨年開局した国際衛星チャンネル「吉本東風衛視」は、台湾の会社とのジョイントベンチャーですが、アジア、北米、ヨーロッパと世界の約1500万世帯に向けてコンテンツを発信できる体制ができました。日本で制作したコンテンツだけでなく、アジア向けの番組づくも積極的に手掛けていきたいと考えています。

また、一昨年、韓国でマネジメント業務をするために設立した「よしもとエンタテインメント・ソウル」は、KBS(韓国放送公社)と共同制作した「コメディ日韓戦」が好評を博したり、コンテンツの「現地化」の面でも着々と地歩を固めていっています。

ここまでできるようになったのも、20年以上かけて築き上げてきた人脈があればこそです。僕は、中国は上海だけでも400回くらい、韓国のソウルにも350回くらい行っているのではないかと思います。特に中国は、政治体制も商習慣も違いますから、人脈は重要な鍵を握ります。足しげく通ったおかげで、メディアの重要人物や共産党幹部とのパイプも築くことができました。

コンテンツビジネスを拠点に、学校や職業訓練所の整備も

私自身がアジアに目を向けたのは、社長になるずっと前の話です。たまたまというか、自然にそうなったというのが正直なところです。若い頃は同期入社の社員に比べてそんなに仕事ができるわけでもなく、かといって、血眼になって追い付け追い越せと競争するタチでもない。自分の居所を見つけようとしたらいつの間にか、当時まだ社内でも関心の薄かったアジア市場に目を向けるようになっていたのです。

中国・上海で、歌って踊れる女の子のユニットをデビューさせたり、台湾では東京ガールズコレクションのようなファッションイベントもやりました。そういった積み重ねが、現在の人脈構築につながっているのだと思います。仕事を通じてできた現地の人とのつながりが、その周辺の人との小さな輪になり、さらにその小さな輪が大きくなって、他の輪とも重なっていく、そんな感じで人脈の輪が広がっていきました。

上海では2015年に上海ディズニーランドの開業が予定されていますが、その総裁を最近まで務めた方とは、17、18年前に自宅にまでおじゃまして、「日本の『ヤングおー!おー!』のような公開番組を中国でもつくりましょう」と熱弁を振るって以来、親交を深めてきました。そのかいあって、上海ディズニーランドで働く人材の養成・派遣事業のお手伝いをする予定です。

エンターテインメント分野で働く人材を現地で養成するビジネスは、先にお話しした日本の“住みますプロジェクト”と同じ感覚です。アジアというエリアでコンテンツビジネスの新たな拠点をつくることで、現地の若者の働く場を創出することができる。さらにそれを、学校や職業訓練所などの教育・就労環境の整備にもつなげていくことができたら、まさに「いい感じ」ではないでしょうか。

採算を前提としたビジネスとしては、まだまだこれからです。権利ビジネスに精通した社員や、海外のマーケティングに強い人間など、人材基盤もここにきてようやく整ってきたところです。道半ばですが、「よし、この方向で間違っていない」という確信に似たものがあります。僕自身は二十数年通って、もうかるビジネスはできなかったけれども、信頼関係は築くことはできた。だから「あとはよろしく!」と社員に言っています(笑)。

第3回へ続く 〕