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アド・スタディーズ 対談No.7

マーケティング:実務とアカデミズム
―新しい交流の次元に向けて―①

2014/07/07

疋田聰(元東洋大学教授)×阿部周造(早稲田大学特任教授)
左から、疋田聰氏、阿部周造氏
(※所属は「アド・スタディーズ」掲載当時)

マーケティングや消費者行動研究が進展する一方で実務との乖離が危惧されるなか、アカデミズムには一体何が求められているのだろうか。
消費者行動の分析を中心にアカデミズムの世界で精度の高い予測可能な理論構築に取り組んでこられた早稲田大学の阿部周造特任教授をゲストにお迎えし、ビジネスパーソンとしての実務経験をもとに 現実に適用できる理論研究に携わってこられた疋田聰元東洋大学教授と共に、アカデミズムと実務の接点や新しい交流のあり方などについてお話しいただいた。


アカデミズムの内と外

疋田:最初に、阿部さんのほうからご自身が歩んでこられたアカデミズムの世界についてお話しいただけますか。

阿部:私は明治大学では刀根武晴先生、一橋の大学院では田内幸一先生のもとで勉強し、その後日本大学の経済学部で5年、専任講師と助教授を務め、久保村隆祐先生のお誘いで、30年ほど横浜国大に在籍しました。64歳からは早稲田の特任教授として仕事をしています。

自分の研究とのつながりでいうと、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で消費者情報処理の第一人者であるJamesR.Bettman教授のもとに1年留学させていただき、その後、半年ほどミシガン大学で共分散構造分析の第一人者であるRichardP.Bagozzi先生のもとで勉強させていただきましたが、このアメリカでの経験が自分の研究スタイルに大きな影響を与えていると考えています。

疋田:私は慶應義塾大学で村田昭治先生のゼミに入り、大学院進学後に広告というかビジネスに関心を持つようになる一方、科学哲学みたいなものもほんの少し勉強していたのですが、ドクターを終わった段階で村田先生に相談して日本経済新聞社に行くことにしました。その後も学会とはつながりを持っていたのですが、離れてみると今度は大学が恋しくなり、縁あって東洋大学に就職しました。いろいろなことをやっておいたほうがいいというのが私の人生観ということになります(笑)。

ところで、よく学問や理論は実務に役立つのか、あるいは理論と現実は違うんだということが言われます。しかし、私は自分の経験から、実務と理論は違うという立場をとりません。理論と現実は違うと言うマスコミや、評論家、知識人といわれる方々は現実をほとんどご存じないし、理論もしっかり勉強していないように思えます。

阿部:私は実務というものは、理論があると、より優れたものになると思っています。例えば、月ロケットを考えてみればわかります。ニュートン物理学の引力の法則などを使っているからこそ正確な軌道の計算ができ、目的を達成できるからです。理論と現実の世界は対極にあるという考え方は根本的に理論を誤解しているからではないでしょうか。

私は大学というアカデミズムの世界で純粋培養された人間ですが、最初の10年はけっこう実務のほうも睨んでいました。日本生産性本部で業界の方々と消費者行動のシミュレーション・モデルをつくったこともありますし、民間企業の意思決定に関わったこともあります。大型のショッピングセンターがどのくらいのお客さんを引き付けることができるかを予測したのですが、かなりの精度で年商額を予測できました。それは理論が役立ったからです。

しかしまだ、高い精度で予測ができる理論やモデルを十分に開発できていませんので、多くの実務家の方々に理論は役に立たないと言われても仕方がない面はあると思います。

説明と予測、そして制御

疋田:実務家とアカデミシャンでは理論という場合の中身に違いがあるのでしょうか。

阿部:違うかもしれません。マーケティングや消費者行動の研究者は現実の世界を説明する理論をつくろうとしているわけですから、現実から遊離することは考えていませんが、実務家は理論は難しくて現実には役に立たないと考えているかもしれませんね。

疋田:そもそも学問、あるいは研究とは一般的にはどう定義されているのか、『広辞苑』で調べてみましたら、学問とは「勉学すること」、研究とは「よく調べ考えて真理をきわめること」と書いてあります。阿部さんの近著『消費者行動研究と方法』の中には「必要から生まれた学問」という言葉がありますが、どのような必要性があったのか、だれが必要と思ったのか、あるいは、必要がないのに生まれる学問はあるのか、その辺はどうお考えですか。

阿部:理論がどう生まれどう使われようがかまわないと思います。例えば、知的好奇心から遠い宇宙の星の動きを研究している場合、それはすぐ何かに使えるということではありませんが、ある種の学問は、知的好奇心だけではなくて必要から生まれています。例えば病気を治したい、無駄を省きたい、マーケティングでいえばリスクを避けたいという必要性から生まれているのです。また、必要とする主体でいえば、企業あるいは消費者自身、行政でも消費者団体でもかまわないと思います。

ただ、私の本の中では消費者行動論をはっきりマーケティング論の中の各論として位置づけていますが、そうしないと駄目とは限定していません。どういう観点から研究されてもけっこうだと思いますが、マーケティング論の中の各論といったとき、それがどういう意味を持ってくるのかというと、3つの大きな目的があります。

1つはなぜ消費者はその商品を選択するのかを説明したいという説明目的です。2つ目は、将来を予測したいという予測目的。3つ目はそれを望まれる方向に誘導したいという統制目的です。消費者行動研究者はどちらかというと、3番目の統制のことにはあまり関心を持っていない。マーケティングや実務の問題になってしまうからです。

消費者行動の研究者が関心を持っているのは説明と予測で、ここに科学哲学が絡んできますが、説明と予測のどちらを主眼に置くかによって科学哲学の立場も自ずと決まってくると思います。実務家や研究者を含めたかなりの方は予測に関心があり、説明にはあまり関心がないようですし、企業は知識や理論で現象を解明するより、目の前にある現象を系統立てて経済的に把握できたらよいと思っています。

疋田:そういう面はありますね。

阿部:説明に重点を置いて予測を軽く見てしまう人は、どちらかというと、つくった理論は実務の側でどう使われようがかまわないと考えています。説明をより深い真実に接近させることが目的だからです。この説明だけにウエートを置いた考え方が反証主義の科学哲学的立場で、予測はどちらかというとテクニシャンの仕事だと考えられています。予測というのは帰納、inductionです。こういうことがこういう状況のもとで生ずることが過去に観察されているので、明日も同じことが起こるであろうということですが、帰納は論理的な問題を抱えています。

例えば、カラスを10万羽も観察して全部黒いからカラスは黒いとしたときに、黒くないカラスが1羽発見されたときその命題は崩れてしまいます。この帰納を含まない知識体系をつくるべきだとするのが反証主義で、科学から帰納を排除しなさいと主張しています。しかし私は、確実に予測に役立つ説明理論やモデルができているわけではないので、そこを突かれると弱いのですが、説明と予測の両方を目指していくのが研究者、学者の仕事ではないかと考えています。

道具主義の限界

疋田:ところで、どのくらい説明が可能かを突き詰めていくとどんどん抽象化され、理想を追い求めているだけになってしまうかもしれません。少し極端なことを言いますと、たしかに青い鳥を求めることは尊いかもしれませんが、一市民ならいいとしても、アカデミシャンという立場の場合には少なくとも社会からある種の負託を受けているわけですから、それが許されるのかという問題もあると思います。

阿部:理想だけを求めていて現実問題には関心ないというのはまずいと思いますが、科学は理想に向かってより説明力を高めようとしています。私の立場は科学的実在論というものですが、そこでは説明と予測の両方を考えようとしています。それは科学とは真実への接近なんだという考え方です。たしかに理論というのは過謬性を持っているし、間違う可能性がありますが、長期的に見ればかならず現実にも役立つと思っています。
今、ある消費者行動の理論やモデルで、どのぐらい現象の統計的なばらつきが説明できているかというと、せいぜい十数%。では残りの八十数%は説明されていないから、そんなものは役立たないと捨てるべきなのかというと、そうではないと思います。やはり、いろいろ改善を加え、説明できる領域を増やしていく努力をすることが大事なのです。

例えば、実務家が競争相手に対して十数%先を行く知識を持って競争優位に立つ。別の面で10%、5%といった具合にいくつかの有効な理論を整合的に組み合わせて展開していけば決定打にならなくても大きな差をもたらすでしょう。研究者にはそのレベルを上げて少しでも使えるようにしていく責任があると思います。

疋田:よく、テオリアとプラクシスを分離させて議論しますが、基本的にはテオリア的な道のりを頭に置いたプラクシスでなければならないという理解になりますか。

阿部:プラクシスにより役立つものを出していこうということですから、理論は予測のための道具であるとする道具主義が役に立たないということではありません。けっこう道具主義は優れた研究成果を出していますが、基本的な前提に矛盾があってもともかく使えたらいいということになれば、本当に目指したものとは違うものでも満足しかねません。

極端な例で言うと、太陰暦は地球を中心に月や太陽が地球の周りを回っているという考え方からきていますが、それに則って調べれば何月何日には大潮が起きるとか、寒くなるといった予測ができるように、農業や漁業には太陰暦を使える部分が相当あります。しかし、使えるからそれでいいといったら、地球が太陽の周りを回っているという知識は必要ないということにもなりかねません。

しかし、太陽の周りを地球や月が回っているという、一貫した説明と予測ができたときにはより精度の高い実用性につながります。科学は現実の世界や現象がなぜ生じているかをより精度を高めて説明しようとするものです。一度説明できたからといってそれが真理だということではありません。科学はより優れた説明を目指しているのです。実務家が道具主義になるのはいいでしょうが、研究者や学界が道具主義的な雰囲気に染まるのは好ましいことではありません。

第2回(最終回)へつづく 〕


※全文は吉田秀雄記念事業財団のサイトよりご覧いただけます。