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広告表現のコンテクストを考える 「犬のお父さん」はなぜヒットしたか―②

アド・スタディーズ 対談 №16

  • AD STUDIES
  • 新井 恭子
  • 澤本 嘉光

2015/07/10

広告表現のコンテクストを考える

「犬のお父さん」はなぜヒットしたか―②

広告の力は何によって決まるのか。
送り手の意図はどのように理解され、受け手に共感を与えるのか。
今回は、キャッチフレーズなどの広告言語を研究されている新井恭子准教授と「ホワイト家族」など話題のCMを手がけてきたエグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクターの澤本嘉光氏との対談が実現。制作現場の実情を通じて求められる言葉の力や共感の構造など、コミュニケーションとしての広告の力に不可欠な要素等についてお話しいただいた。

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共感がコピーの力

 

新井:では次に、言葉やコピーに焦点を合わせて、話をお聞きしたいと思います。澤本さんは国文科のご出身で小説も書いていらっしゃるので、言葉の専門家でもありますね。私は主に省略された短い言葉を英語と日本語の両方で集めて10年ほど研究し、格言のような短い文章は、相手の想像力というか推論能力、つまり、コンテクストがあるから伝わる効果があるのだと思っています。
私がよく例に出すのが「そうだ 京都、行こう。」です。新幹線までは想像しないかもしれませんが、それだけで京都に行きたくなります。キャッチコピーにはそういう効果がありますね。

澤本:今、広告代理店のコピーライターに望まれるのは、目立って刺激が強いコピーでなく、商品のメリットをうまく言い換えたようなコピーです。「そうだ 京都、行こう。」は、実は京都キャンペーンで京都に行こうという意図を直接的に言っていますが、そこに「そうだ」という言葉がついているだけで、全く違った気持ちになります。
1980年代に糸井重里さんが書いた「くうねるあそぶ。」や「おいしい生活。」は、ベースではいろいろなことを考えて生まれたものだと思いますが、その言葉だけを聞くと、とても新しい概念に聞こえます。最近のコピーでそういうものはありません。求められるのは、クライアントの目線で商品についてうまく言い換えつつ、そのコピーを読んだときに共感できるかどうか、です。コピーライターの技量とは、共感できるコピーを、文字数を少なくいかに提示できるかなんだな、と思っています。

新井:聞き手のコンテクストを想像して発信するということですね。私には20歳になる娘がいますが、昔のキャッチコピーを言っても「何、それ?」みたいな反応をされることがよくあります。例えば、サントリーピュアモルトウイスキー山崎のポスター広告にある「『なにも足さない。なにも引かない。』すごいでしょ」と言うと、「何を足さないの?」と聞かれてしまいます。コンテクストが全然違うからです。私たちはバブル期を経験してキャッチコピーに多少踊らされているようなところもあったでしょうが、確かに今はだいぶ変わってきていますね。

新井恭子准教授

澤本:表現方法だけでなく、プレゼンテーションのときにクライアントの方々がどれぐらい言葉の力を信じているかにもよります。そういう意味で、昔はいい加減な部分もあったのかもしれません。以前なら「このCMはハワイで撮り、いいコピーをつけます」で通っても、今は、広告を発注する側が「今回の課題Aについては、コンテの中のこの言葉で解消していますね」といったようにチェックしてくることもあります。商品の訴求部分をきちんと言い当てているようなコピーじゃないと、なかなか通しづらくなっています。
もっと言うと、たぶんコピー中心のキャンペーンは少ないと思います。今僕らがつくっているCMはグラフィック中心ではなく、動くプチ芝居になっています。動くポスターのときには力強いコピーが大切になりますが、プチ芝居には不要です。むしろ、しゃべっている言葉が音声として機能するかどうかですから、話し言葉として何かしら残るようなCMづくりが時流なのではないでしょうか。

CMは時代を映す生き物

 

新井:動画のほとんどはYouTubeで見ている、という人もいるように、時代とともにメディアが複合的になっています。コマーシャルも相当に複雑な環境に置かれますから、制作側もそれにうまく対応しなければなりませんね。

澤本:広告の素材として僕たちが持っている手段の中で、今も一番効くと思われるのは動画です。それにどこで接するか、CMと他のWebには違いがありますから、拡散させる場合にもそれぞれ話法が違ってくる気がします。

新井:大学生はほとんどテレビを見なくなっていますね。そうなると年齢層が高いか小さいお子さんかということになりそうですが、白戸家の話は、年齢に関係なくとても共感できるものになっていると思います。その辺は最初から狙っていらっしゃったのか、たまたまそうなったのでしょうか。

澤本:続けていくうちにそうなった、というのが正しいと思います。つまり、最初の一本は犬がしゃべっているだけという段階でしたが、そこで一点突破できるぐらいの表現力を持っていたため、犬がしゃべるのが普通になってしまったということです。
それは、状況として「サザエさん」的になっているんだと分析しています。「サザエさん」は毎回、視聴率はそこそこ高いのですが、さほど面白くはありません(笑)。ただ安心して見られるし、何かしらクスッとくるものの繰り返しになっていますから、あれに少し近いかもしれませんね。

澤本嘉光氏

新井:先ほど、途中でやめようと思ったことがあったとおっしゃいました。やはり、いろいろな制限の中で、蓄積された流れの中からストーリーが生まれるのですね。

澤本:そうですね。先がどうなるかはまったくわかりません。

新井:私なんかは、樋口可南子さんの「理由があるのよ(この話には続きがあるの)」を信じて、いつになったらわかるのか、ずっと待っていますよ(笑)。
いろいろな話を伺いましたが、最後に、澤本さんにとってCMとはなんでしょうか。

澤本:CMは生き物だということです。初めのほうでもCMは制約のある芸術だと言いましたが、芸術との大きな違いは、死後10年してから評価されてもまったく意味がないということです。つまり重要なのは、その時代時代が求める言葉や表現が取り込まれているか、ということではないでしょうか。

新井:なるほど、私は華道をやっていますが、生け花と同じですね。アートとして写真集などに掲載された昔の生け花を見ても、なぜかそんなに感動しません。やはり既にコンテクストが違っているようで。生けたその場こそが大切という、アートとしての時間がすごく短いという点では、CMと似ているような気がします。今日は貴重なお話、ありがとうございました。

〔 完 〕

※全文は吉田秀雄記念事業財団のサイトよりご覧いただけます。