ドミニク・チェンさんと考えるビジュアルコミュニケーションの未来No.4
写真・動画投稿に隠されたスマホ世代のインサイト
2016/02/05
電通総研メディアイノベーション研究部は、メディアや情報通信環境の変化、そしてオーディエンス(視聴者)の動向を探ることをミッションとするシンクタンクです。
このたび、IT起業家で情報学研究者のドミニク・チェンさんをアドバイザリーに招いて、10代後半~20代半ばの男女スマホユーザーの「ビジュアルコミュニケーション」をテーマにした調査プロジェクトを実施しました。
当連載ではその結果をひもとき、若年層が写真や動画アプリを通じたビジュアル中心のコミュニケーションへシフトする理由を探ってきました。
前回までは、よく使われる写真や動画アプリとその使われ方、それがもたらしたコミュニケーションのかたちの変化にフォーカスしながら、若者たちがビジュアルで投稿する心理やマーケティング的な示唆の読み解きも行いました。
最終回は引き続き、ビジュアルコミュニケーションの浸透によって私たちの価値観や文化はどう変わっていくのか、俯瞰的な視点から議論をラップアップします。
【調査概要】
電通総研メディアイノベーション研究部
「ビジュアルコミュニケーションに関するグループインタビュー調査」
■調査対象者
首都圏在住の男女18~25歳(大学生ないし社会人)
N=17(5人×2グループ+7人×1グループ)
■調査方法
グループ単位のインタビュー調査
■調査日時
2015年9月6日(日)
ビジュアルコミュニケーションの普及がセルフブランディングを変える
ドミニク:今の若い人たちのビジュアルコミュニケーションを通じた憧れや欲望について、もう少し細かく分析してみると、不特定多数にどう見られるかに加えて、狭いコミュニティーの中でも自分の見られ方をとても気にしています。
まさにそこにおいて、Instagramでよくみられる「ほのめかし」がTwitterなどのリテラルコミュニケーション(文字のコミュニケーション)ではやりにくいという差異が際立ちます。ヘビーなInstagramユーザーの女性に教えてもらうと、気になる彼にアカウントを見られる時に私ってこういうイケてる感じに演出できる、みたいな欲望導線がしっかり設計されていることに気づく。それは言葉で言ったらおしまいで、野暮になってしまう。そういう欲望の導線をしっかりつかんでいるという話は本質的ですね。
北原:女性ユーザーが主導権を握ることにも納得がいきますよね。
ドミニク:そうですね。締め出される男性が続出するかもしれません。
設樂:あるSnapchatユーザーは、Instagramを見ているとみんな「○○ブランディング」をしているように見えてくると言います。「この子は幸せブランディング」「この子はリア充ブランディング」と。
ドミニク:ほんと、そこだと思うんですよね。まさにセルフブランディングとしてのビジュアルコミュニケーション。だけど個人を強く押し出そうという肩ひじ張った感じではなく、まさに着る服を選ぶ、香水の種類を選ぶみたいな感じで、自分の香りを演出していくみたいな感じなのかな。
例えば、ある1カ月では、全ての写真にハートマークをデコって、プロフィールページもかわいく見えるようにしていたかと思えば、翌月にはいきなり色を紫系とかピンク系の色で整えるとか、ある個人の中での流行の積層が見えてくる。個々人の嗜好の遍歴を地層学的に観察できるようで面白いですよね。
天野:誰もが自己発信できる時代ならではの柔らかいセルフブランディングということでしょうか。そんな自分の新しい表現というかプレゼンテーションの形というか。
ドミニク:セルフブランディングというと、不特定多数、社会に向けて発信みたいなイメージですが、膨大なフォロワーを抱えるアルファユーザー以外の大多数の人にとっては、数百人ぐらいの規模のプライベートなつながりに向けてのブランディングではないでしょうか。
インターネット黎明期は、例えば「地球全体とつながっている」というようなイメージを標榜するシェアの仕方が認識されていたと思います。でも、今の子だったら「つながりたくない」で終わると思います。
人類学者のロビン・ダンバーの「人間の社会では、安定した社会関係を共有できるのは平均で150人程度が限界」という知見が有名ですが、ネットによってこの認知限界が少し拡張されているとはいえ、だんだんと個人単位の狭い範囲のリアリティーにソーシャルメディアの焦点も近づいてきているのかなと思います。
美和:ビジュアルコミュニケーションの浸透によって、私たちの人間関係の築き方にも影響が見られると。
ドミニク:ネットだけで充足できるという感覚、つまりネットと現実の関係が主客反転しているかたちもありますね。ネット上でアイコンがかっこいいから付き合うことにした人の話を聞いたことがありますが、それは自慢しやすいような、自己自慢のパフォーマンスが高い人格と付き合いたいニーズがあることを意味している。
それだけ人生や生活の比重がネット上で充足できるようになっているのは新しいなという感もあって、10年前のアプリやサービスだったらそうはならない。それだけネットのリアリティーが現実にロックインしはじめているのは面白いと思うと同時に、本末転倒な気もしますね。
美和:ビジュアルコミュニケーションの浸透によって人が人を好きになる仕方まで変化していくわけですね。
ディープアテンションとハイパーアテンションとの対比から見えてくること
天野:ビジュアルコミュニケーションによって私たちのコミュニケーションは簡潔かつ効率的に、そして今までにない新しいかたちを実現できるようになってきていますが、一方でやっぱり文字のコミュニケーションに飢える側面もあります。
「Quartzカーブ」(アメリカのデジタルニュースメディア『Quartz』が提唱)で知られるように、ネット上で読まれるのは短文の記事が多い半面、長文の記事もよく閲読/シェアされる傾向があるといわれています。ここから、文字へのニーズは健在であるという読み解き方が一つ、そしてもう一つはユーザー側のアテンションに細かく対応できるコンテンツが求められているという解釈が成り立ちそうです。
ドミニク:writtenafterwardsのファッションデザイナーである山縣良和さんからお聞きした言葉がとても印象的だったのですが、20代前半など若い時は言葉にしなくても感性で突き抜けられるが、20代後半になってくると感性が明らかに弱体化するので、コンセプトを立てないと個が死ぬんだという趣旨のことをおっしゃっていて。これはすごくよく分かるんですよね。
ここでの言い方にならえばリテラルコミュニケーション力も持っていないと自分というアイデンティティーが溶解してしまうのではないかとも思うんです。ビジュアルコミュニケーションへのシフトは確かにありつつも、若い子たちも大人になっていく過程で、それぞれのステージにフィットする新しいコミュニケーション環境を見つけていく際に、リテラルコミュニケーション、つまり価値や文脈を言語的に記述することが必要になるのかもしれない。
全てのステージを満たす理想のコミュニケーション方法というのはなくて、ステージごとにリテラルコミュニケーションだったりビジュアルコミュニケーションだったり、もしくはハイブリッドなものがフィットするにすぎないのでしょう。
北原:ドミニクさんが出演されているテレビ番組NHK 「NEWS WEB」で、自撮り棒を使って危ないセルフィーを撮るユーザーの話がピックアップされてましたよね。
いかにもいまどきなビジュアルコミュニケーションのあり方ですが、ああいうふうに写真を撮ることに慣れてしまうと、例えば歳を取ってコミュニケーションが言葉の方に戻っていったとしても、もともと物事に対峙する深さ、つまり考える力が落ちてしまって安易な方に走っていくのではという印象を受けました。そうしたコミュニケーション能力の課題についてどうお考えですか?
ドミニク:放送で取り上げたのは、自然公園の中で野生のクマがいるのに頑張って自撮り棒で撮って襲われてしまったユーザーの事例。これに限らず、最近では自撮りのために危ない目に遭ってしまうユーザーが増えています。
これらのケースは極端ですが、命を懸けてるというよりは、ネット的な価値基準が身体の判断基準を上書きしてるんですよね。身体的な危険性はどこかにいっちゃって、これでアップしたら超リツイートされる、超いいね!してもらえる、という方が優勢になってしまっている。
こういう状況に対して、もっと身近でプライベートな空間をネット上でも確保するというのが大事だと思っています。パブリックな場所での承認よりも、いかにクローズドな場所でのたわいもないコミュニケーションに向き合う時間を増やせるかということは、フォトメッセンジャーアプリPicsee(連載第2回参照)を開発している過程ですごく気付かされることなんですよね。
例えば子どもや家族の写真までパブリックに盛り始めると、究極的にはプライベートな人間関係がパブリックなブランディングのための手段になってしまう。パブリックな情報の価値がすごい勢いで入ってくる今日こそ、逆にそういう閉ざされた人間関係に注意をフィードバックするようにバランスを取ることも求められるのではないでしょうか。
北原:発信する情報の期待水準を自分でコントロールすることの大切さと受け取りました。ビジュアルコミュニケーションは発信もたやすいだけに、いわばそうしたもののインフレ状態にすぐに陥りやすいですね。
ドミニク:当日の放送でコメントしたのは、そういう世界を僕たちはつくりたいと思っているのか、という問い返しでした。ビジュアルコミュニケーションであろうとテキストであろうと、発信し続けている人の方が基礎体力は絶対的に強くて、今はそこにデジタルデバイドみたいなものが生まれているように思える。
僕も幸運なことに学生のころから文章を書かせてもらう機会を与えられて、10年間書きためたものを時折見ていると、自分の関心とか欲望とかコンセプトが変化している部分もあるし、変わってない部分も見えてきます。でもそれはアウトプットしたからこそ見えるものだと思うんですよね。
テキストというのはディープなアテンション、つまり特定の対象にダイブして思考して、そこから論理を介して身体にフィードバックする方法ですが、ビジュアルコミュニケーションはハイパーアテンション型。つまり、ハイパーリンクをどんどん踏み続けるような、論理を要さないがゆえにどんどんたどったり応答したりできる。
だからInstagramで毎日パンケーキでも洋服でも尽きない関心に関するビジュアルをアップし続ければ、その表現に対するレスポンスを得る過程で気付きを得てセルフフィードバックがかかり、変化していく。しかし、追従的にシミュラークルの流れの中の一結節点だけになってしまうと、表現よりも摂取の量の方が多くなってしまうので、旧来の意味での「自分」というものは浮かび上がってこなくなるのかもしれない。
天野:「情報の表現と摂取」というキーワードは、ドミニクさんのご著書『電脳のレリギオ ビッグデータ社会で心をつくる』(エヌティティ出版)でも触れられていましたよね。現代に生きる私たちにとって非常に重要なテーマであると思いました。
ビジュアルコミュニケーションは私たちの無意識の興味・関心・欲望を垣間見せる
北原:それでは最後に、ビジュアルコミュニケーションのこれからを考えるに当たってのキーワードをお願いします。
ドミニク:「インタレスト」(興味・関心)ですね。今だったら画像認識の機械学習で、投稿者の基本的なデモグラを推測するといったことも可能になっているので、その先に本人さえも気付いていないようなインテンションとかインタレストが分かることも期待されている。ターゲティング広告にも活用されるだろうし、それをどうユーザーの利益にフィードバックさせてあげるかという点もそこから考察できる。
ビジュアルコミュニケーションかリテラルコミュニケーションかということを抜きにしても、セルフフィードバックというのはあらゆる情報と向き合う中で起こることですが、インタレストという意識に上がっている状態だけでなく、自分でも気付いてない無意識の関心や興味、思考の流れをユーザーの認知能力がより拡張されるかたちでフィードバックできないか。そして、そういう技術を使って言語以上に人間の内面に肉迫できそうなのが写真や動画といったビジュアルデータなのだと思います。
そうしたとき、Instagramで発信していることは、実は「こう見せたい」といったコントロールが介在する意識レベルの事柄ですが、対照的にPicseeとかSnapchatなどのプライベートなツールで送っているのは、もっと自然に特定の相手に撮って見せたいというレベルでどんどんたまっていくもの。そうしたビジュアルコミュニケーションの自然なデータをどうユーザーにとっても企業にとっても良いかたちで還元できるかが、ビジネスでも面白くなるポイントだと思います。
美和:ビジュアルコミュニケーションは新しいマーケティングの可能性をも内包する分野だということですね。
ドミニク:雑誌『WIRED』の記事でも書いたことですが、触覚インターフェースの研究などに取り組む渡邊淳司さん(NTTコミュニケーション科学基礎研究所人間情報研究部主任研究員)が、「無意識っていうのは人間にとってのビッグデータだ」と言っていたのが印象深くて。つまりビッグデータと呼べるほどの膨大な量の情報を僕たちは無意識に処理していて、そこの振り分けをやっているのが意識という機構であると。
今、私たちがアクセスできるネット上のビッグデータは、みんなが意識をフィルターした結果出ているデータなんだけれども、認知心理学でいうところのより深い「情動」をどう捉えて、データとして扱えるようにしていくのか。ここに、技術的なフロンティアがあるし、コミュニケーションの視点からも面白い領域が残っている。
言語データも量がないと本質が見えてこないのと同様に、ビジュアルコミュニケーションのビッグデータの分析の末に見えてくるものは非常に興味がありますね。
設樂:欲求や欲望という、無意識の中の本質みたいなものをビジュアルコミュニケーションは表に出してくれるものなのかもしれないですよね。自分の意識していなかった自分とか。
ドミニク:そうだと思います。同じコミュニティー、同じハッシュタグの中で生息していると世界が自分の関心事項の情報で充足してしまうという「フィルターバブル」の問題が昨今では取りざたされています。それってビジュアルコミュニケーションもニュースメディアも抱えている問題と、くしくも同じだと思っていて、それこそ各種のニュースアグリゲーターも試行錯誤している領域です。
だからさっき言った欲求、欲望みたいなのをあぶり出すということと同時に、個人が他律的に影響を受けやすい情報環境がどんどん広がっていく中で、それが良いことか悪いことなのかという価値判断を保留すれば、Individual(個人)がDividual(分人)にゆるやかに解体されていると見ることもできると思うんです。
ではその行き着く先に、個人が持っている欲望とかインタレストというのがどれだけ自律的に生成できているものなのかということが、情報社会を生きる人間のコミュニケーションの問題として改めてフォーカスされるようになると感じています。
【動画】ビジュアルコミュニケーション・7つのポイント
ディスカッション後記:論点のおさらいとビジュアルコミュニケーションに着目する意義(天野)
連載第2回で言及したように、ユーザーと情報テクノロジーの共進化というかたちで、今後もビジュアルコミュニケーションの持つ重要性はどんどん確固たるものになっていくと思われます。私たちが実施したユーザーリサーチでも、手軽に写真や動画を送り合うことに時間やアテンションが集中していくようなビジュアルシフトが、使われるSNSの移行というかたちで顕在化していました。
そうしたビジュアルコミュニケーションを象徴するアプリを一つ挙げるならば、ユーザーたちからも頻繁に言及されていたInstagramということになるでしょう。①憧れの人や友達の近況を知るものとして、②自分自身の日常をオシャレに記録するログとして、③そしてトレンドや欲しいものを探すための検索窓として、若年女性の間で存在感は増すばかりです。
そして当部の仮説的な提唱として、ビジュアルコミュニケーション優位のコミュニケーション環境で発生する「シミュラークル」という文化的な現象も取り上げました。シミュラークルとは、ビジュアルコミュニケーションのやりとりの中で表れてくるある種のビジュアルのパターンであり、さらにいえば私たちの憧れやニーズが媒介の連鎖をたどる中で結晶化してくる「オリジナルなきコピー」としての欲望のイメージと表現できます。
連載第3回では、私たちの社会のコミュニケーションのかたちを「マス型」「インフルエンサー型」「シミュラークル型」とモデル化して整理しましたが、ビジュアルは与える情報量が多く伝播性も高い性質ゆえ、人々の欲望を媒介する能力が非常に高いということ――そして、ビジュアルコミュニケーションを通じてシミュラークルが形成され、ユーザー間で「こういうことがしたい」という体験消費への欲望が創発されるということに言及しました。
「シミュラークル型」についてはまだ事例や考察を深めていく段階とはいえ、マーケティング活動に従事する人間にとっては、見逃せない現象だと考えています。
そして、ビジュアルは私たちのインタレストをよりよく表現し、伝えやすくするものでもあります。先端的なユーザーが今やビジュアルコミュニケーションアプリをサーチエンジンとして活用する実態からも示唆されていたように、今後ますます人々がビジュアルでサーチを行う社会へと移行していくでしょう。
そのとき、ドミニクさんからの指摘にもあったように、それをどうユーザー側のベネフィットに還元してくのかという視点はますます重要性を帯びてきます。そしてそこには、画像解析にまつわるコンピューティング技術の発展も深く絡むものになっていくと予想されます。
つまり、自分がやりとりしたビジュアルコミュニケーションのログを通じて、自分自身のインタレストやインテンションがフィードバック的に発見されてくるような社会がいずれ訪れる可能性もあるということです。そのとき、私たちはいかに自分自身の無意識の在り様を発見したがっているのか、その逆説的な欲望に直面することになるかもしれません。
ただしその際に注意するべきは、ビジュアルコミュニケーションが持つ顕示的な(見せびらかし的な)面だけに目を奪われるのではなく、より身近で何げない日常の中でなされる表現と摂取とを重視していくことではないでしょうか。
今回、議論が深められたように、それはドミニクさんがPicseeを運営しそのユーザーのコミュニティーを育てる中で実践されていることにもつながってきます。
スマホとビジュアルコミュニケーションによってアテンションの獲得がより苛烈さを帯びてくることはここでも議論してきた通りですが、一方で私たちの日々を構成するビジュアルコミュニケーションは目立つか目立たないかというコードに回収しきれない多様さを持っており、それは私たちのインタレストが多様であることがもたらす豊かさの裏返しでもあるという視点が、なお重要になってくるのではないでしょうか。