インサイトメモNo.52
イギリスのテレビ放送サービスの展開に見るメディアトレンド
2016/07/27
デジタル化、インターネット技術の進化を受けて、テレビ放送では従来の枠を超えたさまざまなサービスが提供されるようになりました。ここでは、他国に先駆けて地上波放送のデジタル化に取り組んだイギリスにおけるテレビ放送サービスの展開の紹介を通して、テレビメディアの発展の方向性について考えてみます。
なぜイギリスの事例に注目するのか?
公共放送BBCと民放局が共存するイギリスの放送市場構造は、日本に近いといえます。BBCは免許料(日本の受信料に相当)収入を軸に、公共性の高い番組の提供と先進的な取り組みを行うことが期待されています。このBBCと民放最大手ITVをはじめとする民放主要3局が、イギリスの放送市場の中核を担っています。
こうした伝統的な放送事業者は、より多くの人に番組を視聴してもらう目的で、さまざまな施策を展開してきました。異業種からの参入や技術力を背景とするスタートアップ企業の参入が、既存放送スキームを揺るがすことの多いアメリカとは対照的な動きです。これらの観点から、日本にとってイギリスは放送サービスの今後を考える際に参考になる市場の一つと考えられます。
イギリスの放送デジタル化の訴求点は「多チャンネル」
お金を払ってテレビを見ることが一般的なアメリカや多くのヨーロッパ諸国と異なり、イギリスでは有料放送を主体とする衛星放送、ケーブルの対抗軸として無料地上波放送の存在感が大きいことが特徴です。
イギリスでは、1998年に地上デジタル放送が始まりました。日本の地上波放送がデジタル化を通して高画質化を実現したのに対して、イギリスでは多チャンネル化が進んだ点が大きく異なります。もともとチャンネル数が少なかったイギリスにおいて、多チャンネルは最も分かりやすいデジタル化のメリットと捉えられていました。しかし、当初のビジネスモデルが有料制を志向したため生活者に受け入れられず、運営会社が経営破綻するなどの混乱を経験しました。
そこで2002年に、業界は地上デジタル放送に「Freeview」というブランド名をつけ、普及のてこ入れを図りました。誤解を恐れずに言うならば、日本において地上デジタル放送について「地デジ」という愛称が広く使われているように、イギリスでは「無料で見られる」放送であることを端的に表した名称、Freeviewが地上デジタル放送そのものを指すようになりました。
Freeviewの運営の中核は、BBC、ITVをはじめとする主要放送局などが担っています。現在では60 のSD(通常)画質チャンネルに加え、15のHD(高)画質チャンネルの視聴が可能です。さらに対応テレビやチューナーをネット接続することで、後述する放送局の見逃し配信サービスを利用することができます。この環境を通して、イギリスでは無料ネット配信サービスの利用デバイスとして、パソコン、スマホなどに加えてテレビ受像機が大きな役割を担うようになりました。
リーチ拡大に向けた施策「タイムシフト・チャンネル」
多チャンネル環境を生かして2000年代に多くの民放局が立ち上げたのが、本来の編成軸の1時間遅れで番組やCMをそのまま放送する「タイムシフト・チャンネル」でした。例えばITVの場合、ITV+1というタイムシフト・チャンネルを地上波、衛星などの各放送プラットフォームで提供しています。このタイムシフト・チャンネルは録画機を持たない、もしくはブロードバンド環境がなく見逃し配信サービスを利用できない視聴者にとって、非常に利便性の高いサービスといえます。
それではタイムシフト・チャンネルはどれぐらい利用されているのでしょうか。
ここでは2014年通年のテレビ視聴率データ(16歳以上)を基に、親局とタイムシフト・チャンネルの合計を100%とした場合のタイムシフト・チャンネルの視聴シェアを見てみましょう【図表2】。民放主要局の3チャンネル(ITV、Channel 4、Channel 5)の場合、タイムシフト・チャンネル視聴が占める割合は7.7%でした。
※Channel 4は公共局だがCM収入で運営するため、本記事では民放に含める。
一方、子ども向けやドキュメンタリーといった専門チャンネルのうち、タイムシフト・チャンネルを持つ61のチャンネルでは、このシェアは16.0%に達します。見たい番組が重複した場合、趣味・嗜好性が高いチャンネルは時間軸をずらして視聴されやすい傾向がうかがえます。
放送局の立場から見ると、タイムシフト・チャンネルによって視聴機会を増やし、番組リーチを拡大することができます。実際、広告取引においてはタイムシフト・チャンネルの視聴も親局の視聴に合算され、個別に取引されることはないとされます。
今後、ネット経由の番組配信の利用がますます拡大すると、タイムシフト・チャンネルがその役割を終えるタイミングが到来するのかもしれませんが、放送局が既存伝送路を利用して自らタイムシフト視聴の機会を与えるという動きは非常にユニークです。その背景には、放送のデジタル化によって多チャンネル環境が誕生したこと、そしてもともとイギリスでは1991年以来、ビデオデッキなどの録画機を用いた録画再生視聴も放送後7日以内であれば視聴率測定対象とされていたことが挙げられます。
「テレビ」のさらなる拡張へ~いつでも、どこでも、どんなデバイスでも
ネットの普及に呼応して、イギリスでは放送局による番組のネット配信が盛んに行われています。この先鞭をつけたのがBBCで、2007年12月に見逃し配信サービスとして「iPlayer」サービスを開始しました。開始当初、視聴デバイスはパソコンのみでしたが、その後対応機器は充実し、現在ではパソコン、タブレット、スマホ、テレビ受像機などでの利用が可能です。2016年1月の月間利用実績(アクセス数ベース)によるとデバイス別利用状況は、モバイル(タブレット含む)41%、テレビ受像機29%、パソコン26%となっており、特定デバイスへの利用集中は見られません(出典:BBC, iPlayer Monthly Performance Pack, January 2016)。
民放各局も同様の見逃し配信サービスを順次立ち上げ、当初は放送後7日間の配信が主流でしたが、近年では放送後30日内にまで配信期間を延長するケースが増えています。また、見逃し配信だけではなく、権利処理された番組については放送の同時再送信も行われています。
その結果、ライブ視聴か録画再生視聴に限られていたテレビ視聴スタイルは多様化し、中でも若年層では自分の都合に合わせてテレビ番組を視聴する傾向が強くなりました【図表3】。
BBC Threeは放送を中止して「ネット専門チャンネル」に
放送局によるネット活用が活発に行われているイギリスですが、若年層をターゲットとするBBC Threeチャンネルは放送波での提供を中止し、ネットでのみコンテンツを提供するとBBCが発表し、驚きを与えました。
2003年に誕生したBBC Threeは実験的な番組も放送する「とがった」チャンネルと評価されていただけに、「ネットで視聴する手段を持たない人の切り捨てではないか」といった批判が多く挙がりました。しかし、一部の番組は基幹チャンネルのBBC Oneで放送するなどの措置を取りつつ、2016年2月にBBC Threeは放送を終了し、同ブランドのままネットに移行しました。ネットに合わせた新しい番組フォーマットの開発に今後注力するとされています。
既存チャンネルの放送をやめて完全にネットに移行する事例は、おそらく世界的に見ても先例がありません。BBCは実施理由として、財政状況の厳しい見通しと並んで若者対策を挙げています。若者のネットへのシフトはイギリスの放送業界でも課題となっています。そのネット上でコンテンツを提供することで、BBCブランドとリーチの維持を図る狙いです。この流れに追随する動きは見られませんが、放送局自らが「テレビ」の定義を拡張する最新事例として今後の展開に注目したいと思います。
イギリス放送業界の課題は、クロスプラットフォーム測定
デバイス、伝送路、配信形態に捉われないコンテンツ配信を進めているイギリスの放送業界ですが、課題は視聴傾向の可視化だとされています。特に広告収入に依存する民放局が持続的にサービスを運営するためには、ネット経由の視聴を正しく把握し、価値化することが重要です。民放局の場合、見逃し配信ではCMは別セールスされていますが(【図表4】のオンライン広告収入を参照)、その売り上げは本来の放送における広告収入と比較するとまだ小規模にとどまっています。しかしネット配信における広告収入は成長領域であるため、デバイスやプラットフォームを超えたクロスプラットフォームの視聴測定をどう行うかが大きな課題となっています。
イギリスの視聴率測定・運営団体BARBは、視聴率測定パネル世帯の視聴デバイスに測定アプリを導入するなどの対応を進めており、2015年からその成果を段階的に公表しています。
イギリスの施策から、日本の放送サービスの未来を考える
技術とインフラの発展によって情報やエンターテインメントに接する手段は格段に広がりつつあります。これからも新しい技術やサービスの登場により、生活者のメディア環境は一層変わる可能性があり、その方向性を占うことは容易ではありません。イギリスの放送事業者が行っている取り組みが全て成功するとは限りませんが、生活者を取り巻く環境の変化に対応し、デバイスや伝送路を超えて番組の視聴機会を増やそうとする姿勢やクロスプラットフォーム測定の実現に向けた業界横断的な動きから学べる点は大きいといえます。