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グローバル最前線No.3

農家に希望を。進展する青森りんごのグローバル戦略

2016/12/13

グローバル化が進む中で、企業がアプローチすべき市場も海外へと広がっている。本特集では海外展開を行う企業にインタビュー。具体的な事例を交えながら、グローバル戦略における成功のポイントを浮き彫りにしていく。

日本を代表する果物として知られる「青森りんご」。歴史の長いブランドでありながら、近年その販売額が急増しているという。背景にあるのが、海外輸出の活性化だ。2015年には、年間輸出量が過去最高を記録。3万トンを超える青森りんごが海を渡った。このようなグローバル化が成功した要因はどこにあるのか。青森県りんご対策協議会事務局長の高澤至氏に聞いた。

りんご好きで親日。台湾にチャンスを見いだした理由

 

─ まずは青森りんごのグローバル化を進めた経緯を教えてください。

高澤:1993年ごろから、りんごの国内輸入が解禁されました。アメリカやニュージーランドのりんごが大々的なプロモーションと共に日本へ入ってきたんですね。そこで私たち青森りんご協会も、国内のPR強化と同時に、改めて海外マーケットに目をむけ、95年にはアメリカへの輸出に打って出ました。

特に力を入れているのが台湾です。01年までは最大2000トンの輸出枠が設けられていましたが、02年に台湾がWTO(世界貿易機関)に加盟。自由貿易となったことで枠が撤廃され、一気に日本からの輸出を増やしました。現在、海外輸出のおよそ8割は台湾となっています。

青森県りんご対策協議会事務局長 高澤至氏
青森県りんご対策協議会事務局長 高澤至氏

─ 市場という観点で見たとき、台湾で青森りんごが受け入れられる可能性はあったのでしょうか。

高澤:台湾におけるりんごの年間消費量は1人当たり7.2キロで、日本の約1.7倍もあります。一方、台湾はバナナやパパイヤ、マンゴーなどの熱帯果実は数多く栽培されていますが、りんご栽培は山間地でわずかに行われるだけで、台湾で最大の輸入果実でした。加えて、台湾は親日で青森とのつながりも昔からありました。

─ 現地で行われてきた販促活動について教えてください。

高澤:私たちが本格的に台湾でPRを展開したのは05年が最初です。まずは現地メディアから青森りんごの情報発信を増やし、認知度やイメージの向上を図りました。具体的には、贈答品の市場が盛り上がる12月~1月の旧正月前に、台湾の太平洋そごうでイベントを実施。太平洋そごうは同地で最大級の集客を誇るため、ニュースでピックアップしてもらう狙いがありました。

太平洋そごうでのイベント
太平洋そごうでのイベント
 

また、参加者10万人を超える台北マラソンの際には、スタート地点で「ミスりんご」と共にうちわを配るといったPRを行いました。日本の青森県からわざわざ来たということで、当日のニュースでもいくつか紹介されたんです。台北マラソンを伝えるニュースのトップ画に青森りんごPRの集団が入ったこともありました(笑)。とにかく目新しいこと、変わったことを行い、現地メディアに取り上げてもらおうと考えましたね。これらは毎年続けています。

台湾マラソンにおいて現地テレビ局からのインタビュー
台湾マラソンにおいて現地テレビ局からのインタビュー
 

─ その後、販促活動で新たに取り組んだことは。

高澤:今までの活動を引き継ぎつつ、09年からは現地でテレビCMを放送しました。ここで心掛けたのは、台湾でシェアの高いアメリカのりんごとの差別化。青森りんごは、アメリカのりんごより3倍ほど値段が張りますし、台湾人の昼食の4倍ほどの高値です。そこで、その値段に見合う品質であることを伝える必要がありました。テレビCMでは、実際の生産者やりんごを作る過程を映して、りんごに込められた情熱や工夫、愛情を表現。品質の高さを、農家のこだわりを見せることで訴求しました。

また、当時の台湾では、中国からの食品による事故がたびたび起きていました。食品の安全性に対する感度が高い時期だったため、このようなテレビCMで安全性や職人技をアピールしました。

 

震災により輸出がゼロに。それを乗り越えたアイデア

 

─ こういった活動により、台湾への輸出は増加していったのでしょうか。

高澤:02年に1万2000トンだった輸出量は、09年に2万4000トンまで増加しました。ですが、11年3月に東日本大震災が起きると、輸出が激減します。5月には輸出がゼロになり、年間でも9800トンまで落ち込みました。

─ 原発事故の青森りんごのイメージへの影響はあったのでしょうか。

高澤:台湾は親日で日本に詳しく、当時の東北はかなりの援助をしていただきました。それでも食べ物への警戒心は強く、また、さすがに青森の細かな立地までは知らない人がほとんどだったんですね。そのため、青森りんごは実際には安全なのですが、影響を受けているというイメージになっていました。

─ このときはどんな対策を取られたのでしょうか。

高澤:とにかく台湾の消費者に正しい情報を伝えなければと思い、10月から11月にかけて現地メディアや消費者保護協会を青森に招きました。ただ、彼らの警戒心は強く「家族に止められた」という人もいたほど。実はこのとき、りんご園の視察などをしてもまだ安全だと信じてもらえなかったんです。

そこで、視察していた農家の方から急きょ、りんごを二つ頂いて、試験場に持っていき、メディアの前で放射能測定検査を行いました。結果を見て放射線の汚染がないと分かると、やっと納得してもらえたのです。帰国後、メディアでは大々的にこのニュースを報じていただき、その後、12年の輸出量は1万4000トン、13年は2万トンへと輸出が完全に戻りました。今思えば、あの二つのりんごが青森を救ってくれたのかもしれないと感じています。

台湾メディアプレスツアーの様子(1)
台湾メディアプレスツアーの様子
台湾メディアプレスツアーの様子(2)

─ 震災前の水準に戻しただけでなく、その後14年には3万トン、15年には3万6000トンと最高記録を更新したそうですね。これにはどのような要因があると考えられますか。

高澤:円安や他の果物の輸入環境もありますが、PRの方針を変えたことも功を奏していると思います。それまではイベントやテレビCMなど、メディアからの発信に力を入れていましたが、それだけでは一定以上の消費アップは見込めません。高級品としてだけでなく、一般の方が普段食べるところまで消費を広げる必要があります。そこで、この時期から現地のインストアプロモーションに着手しました。最初はスーパー1社から始めて、現在は全土のスーパーでプロモーションをしていただいています。

─ 海外に進出する際、現地とのコネクションづくりは苦労すると思います。そのあたりはどう構築したのでしょうか。

高澤:私たちも、そこが大変だったところです。最初は現地の業者や量販店とコネクションがないので、とにかくこちらから現地を訪れて話をし、関係づくりを行いました。その上で、11年に行ったメディア招待を、翌年からは流通関係者の招待へと拡大しました。

─ まずは現地に足を運んで接点をつくり、その後に招待をして関係強化につなげたんですね。
 
高澤:そうですね。また、同じ時期に青森県りんご輸出協会によって、台湾の輸入業、仲買業者らで組織する「台湾青森りんご友の会」が発足しました。約60社が加盟しており、私たちもその集まりに参加してネットワークを活用することができました。その他、農協や青森県内の各市町村の担当者も台湾に足を運んでいます。青森りんごはいろいろな組織が関わりますが、それらが一致団結して台湾への輸出を行えたことがよかったと感じています。

 

グローバル進出が国内での売り上げアップに

 

─ 輸出量が増えるとともに、国内外を合わせたりんごの販売額も上がっています。

高澤:輸出が増えるのに比例し、青森りんごの販売額も上がっています。というのも、輸出増で、国内マーケットの需給がタイトになるため価格が安定し、これが青森りんご全体の販売額増につながっています。輸出増加や国内での消費者の健康志向の高まりなどの要因があいまって、少しずつりんごの価値観が上がってきているのではと思っています。

─ 市場をグローバルに広げた結果、国内での需要や売り上げにも好影響が出たのですね。

高澤:当然これは生産者の方の収入増にもつながります。農業は後継者不足や高齢化などに直面していますが、収入が増えれば、生産意欲も上がりますし、後継者も出てくるかもしれません。実際、ここ2、3年は青森りんごの収穫量は増加傾向です。こういった好循環を維持できればと考えています。

-さらに、青森りんごで生まれた台湾との関係性が、観光のインバウンドにも役立っているようですね。

高澤:台湾からの誘客を考えたとき、どうしても青森は観光地としてのイメージが強くありません。そこで、台湾で知られている青森りんごをきっかけに、「青森りんごが取れる場所」というイメージを打ち出して、県としてインバウンド政策を行っているようです。トップシーズンには台湾からのチャーター便も来ているようで、その点でも良い影響を生んでいると思います。

青森県りんご対策協議会のキャラクター渡辺直美さん
青森県りんご対策協議会のキャラクター渡辺直美さん

-最後に、今後のグローバル戦略について、展望をお聞かせください。

高澤:アジア各国は経済発展が著しいので、どのタイミングで各国へのPRを仕掛けるか、国際情勢を見ながら考えていきたいですね。また国内外問わず、大切なのは「どうやったら青森りんごの価値観を高めてもらえるか」ということ。常にその発想を持ちながら、今後もグローバルな目線で物事を見ていきたいです。