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都市の界隈性とインキュベーション開発No.1

21世紀のイノベーションに必要な「界隈性」

2017/01/26

界隈性のシンプルな例は、学生にとっての学生街

「今どこそこで飲んでいるから、おまえも来いよ」と友人に呼ばれて向かうと、呼び出してきた親しい友人もいれば、それほど親しくない顔見知りもいて、中には知らない学生もいる。たまたまその場に居合わせただけの人も一緒に騒いでいる。

しかし、そんな知らない人も、その日から友達になり、今度みんなで遊びに行く約束をする。こうしてコミュニティーやネットワークが広がってゆく。そんなコミュニティーのより所としての「たまり場」が、点ではなく面として街に散在し、機能している状態が「界隈性(かいわいせい)がある」状態なのだと思います。

新宿のゴールデン街や下北沢辺りを想像してほしい

「界隈性」という聞き慣れない言葉は、建築や不動産業界で用いられる専門用語です。ざっくりいうと界隈性がある街というのは、地元民や来訪者も含めた多種多様な人々が往来し、つながり、コミュニティーを形成している街を指します。

たまり場として居心地の良い、多くの場合はチェーン店ではなく「場を仕切る店主」のいる小さい居酒屋やバーの存在、連れ立ってブラブラ歩くことのできる、歩きたくなる治安も景観も良い風情のある街並み、交通事情が良く、路上でも気安く会話ができるベンチやオープンテラスの配置…。

多様な要素の複合として人々が開放的になり、気軽に知らない人に話しかけたりできる、それが許される雰囲気を身にまとった街、ということでしょうか。界隈性のある街では、その辺のバーで飲んでいると、気のいいおじさんが話しかけてきたりします。新宿のゴールデン街や下北沢あたりは独身時代に私もよく行きました。行きずりの学生や若手社会人が、常連のおじさん、おじいさんと楽しくおしゃべりができるような、そんなイメージです。

界隈性のある街のコミュニティー

ただただ雑踏にまみれてごちゃごちゃしているだけでは界隈性は生じず、かといって整然と機械的に計画された、きれいなだけの町並みでもなかなか界隈性は生まれません。界隈性は街のハード的な条件と、そこにいる人々のコミュニティーというソフト的な条件の両輪で成り立つ性質を指すのです。

「金太郎アメ」な都市は界隈性を失う

高層ビルが林立し、碁盤目のようなアスファルトの道路が整然と続くオフィス街。男性も女性もスーツを着て足早に行き交うが、そこに会話はない。

ある人は片道1時間ほどの通勤電車に揺られ、郊外のこれまた規則正しく並んだ戸建て住宅からやって来る。駅前から眺める景色は、どこの駅でも見慣れたチェーン店の看板やネオンが目に入り、週末や休日は駅ビルや郊外の複合商業施設で買い物や映画観賞、フードコートでの食事を楽しむ。

ある家族は、父親は職場コミュニティーと家庭の往復、母親はママ友やパートの職場コミュニティーと家庭の往復、子どもたちは学校コミュニティーと家庭の往復で日々を過ごし、それぞれのコミュニティーは基本的に交わることはない。

都市型社会のコミュニティー

これは、私が考える「界隈性を失った社会の姿」の分かりやすい例で、やや極論になりますが、高度経済成長期に、低コストで機能的な社会づくりを全国規模で進めていった結果です。

地方でも国道沿いの景色・街並みは全国的に近似しているといわれますが、短期的な経済合理性を追い求め、部分最適を追求していくと、おそらくおのずと「街」というものは上記のようなスタイルに収斂し、いわゆる「金太郎アメ」的な印象になっていくのだと感じます。

20世紀の街づくりの価値観は、「無駄のない」機能主義

日本は、経済面で合理的な街づくり、低コストで機能的な街づくりを全国規模で推進した結果、街の個性ともいえる「界隈性」が失われていきました。

もちろん、20世紀当時の価値観を今の課題感から断じることは避けるべきですが、高度経済成長期の当時は、合理主義的かつ機能主義的で無駄を排した科学的なデザインが最先端で、正義でもあったからです(対極に位置するのは、近年リニューアルされたJR東京駅の駅舎のような建築です)。

当時はモノづくりも街づくりも、低コストで高品質・高付加価値なものをいかに合理的につくるかという価値観が主流で、プレハブ工法や画一的なビル建築が経済的に有利でした。

オフィスビルや賃貸住宅の価値は、投資や維持コストを賃料で回収して利益を上げる。その利回りこそが経済的には全てです。20世紀の経済的合理性にとって、一見すると無駄にも見える、ある種ごちゃごちゃした非合理な界隈性の担保は、直接的な賃料の収入には寄与せず、高コスト要因で不要と考えられていたのだと思います。

21世紀の街づくりは、「イノベーション」にかかっている

実はここ数年、「界隈性」が注目され始めています。

20世紀の街づくりの価値観は合理主義的・機能主義的で無駄を排したものでしたが、現在、最も尊いとされる経済価値の源泉は、「イノベーション」です。そしてイノベーションを生み出すには、「界隈性」が必要だと考えられています。

例えば私が事業の構想、立ち上げから関わり続けている大手町のインキュベーションオフィス「フィノラボ」(FINOLAB)は、金融×テクノロジーという領域におけるイノベーションを生み出すべく、フィンテックスタートアップのエコシステム※という界隈性をつくりだしています。

※エコシステム:いくつもの企業や人、モノが枠を超えて有機的に結び付き、好循環しながら共存・共栄すること


既存の枠組みの延長線上にはない、全く新しい価値をどう創造するか。この「イノベーション」を生み出せるか否かが、個人や企業単位のみならず、都市、ひいては国家単位での勝敗を分けるといわれます。

なぜなら、日進月歩の技術革新スピードはますます速くなり、さらには新興国の技術水準が先進国に肉薄し、世界規模でありとあらゆる製品やサービスのコモディティー化、過当競争の荒波が渦巻いています。既存の価値のブラッシュアップ競争では他者との差別化は難しく、疲弊していくだけです。

そうではなく、まだ誰も気付いていない、手掛けていない領域、既存の枠組みの延長線上では決してたどり付けない領域に挑戦し、わがモノにしない限り、このラットレースから抜け出せないのです。

かつて日本は、さまざまなイノベーションを世界に送り出し、席巻してきました。ウォークマンやカップヌードルといった、それまで世の中に存在しなかった新商品や新概念の数々…。しかし日本は、今やイノベーションが非常に苦手な国だといわれて久しい状況です。

わずか数十年の間にイノベーション立国とはいえなくなってしまったその原因の一つは、国家も都市も企業も、もしかしたら個人までもが、「界隈性」に通じる、ある種の非合理や遊びをそぎ落としてきたツケなのかもしれません。

ではどのようにイノベーションを起こしていけばいいのか、それは次回に。