斎藤和弘×江成修
「セレンディピティ編集術」(後編)
2013/12/13
前編に続き、長年編集者として活躍され、現在はフリーランスで活動する斎藤和弘氏と、株式会社ドリルの江成修氏のトークセッション「セレンディピティ編集術」の後編をお届けします。
(企画プロデュース:電通人事局・金原亜紀 記事編集:菅付事務所 構成協力:小林英治)
「『世の中にないものをつくること』が唯一のルール」
斎藤氏は『BRUTUS』の編集体制も一新し、「1つの特集あたり3カ月の時間を与えて1人で担当させる」ことにした。その考えのベースにあったのは、「雑誌の編集者は1ページでも多く、しかも企画から編集まで全部やりたいはずだ」という“性善説”と、それに伴う“責任と信頼”。そしてさらに画期的だったことは、編集と広告の垣根を取り払ったことだ。「私が編集者になった頃は広告のことは考えるなと言われました。これはある種の雑誌編集者の倫理観だと思いますが、私は積極的に広告を導入しました。マガジンハウスが作っているようなライフスタイル誌は、編集ページだろうが扱っているものは結局全部商品です。むしろ雑誌のエンターテインメントは編集ページも広告ページも含めてのもので、面白さはその雑誌全体のユニークさにしかない。私にとって唯一のルールは、コンテンツとして世の中にないものをつくるということ。だから逆にタイアップでいくらクライアントがこうしてほしいと言っても、自分のアイデアで納得しない限り作りませんでした。高いお金をもらいますけれど、広告もあくまで編集なんです」。この戦略が成功して広告収入は増大。年間5億円の黒字を生むビジネスモデルを確立させることになった。
「自分がパリコレのフロントローに座っている、これがセレンディピティだ」
次の段階で斎藤氏が考えたのは、コンテンツだけではなくメディア自体をブランド化することだった。「ブランディングした方が圧倒的に楽に収益を上げられると途中から気づきました。そのためには部分的なコンテンツだけではなくメディア総体のビジネスとしてブランディングを図るべきだと思ったのです」。この具体的なプランを社内で提案するが受け入れられずにいた時に、偶然ヘッドハンティングの会社から「コンデナスト・ジャパンの社長にならないか」と誘いを受ける。コンデナスト側が、「雑誌ビジネスをブランディングして高収益を上げる」という斉藤氏と同じビジネスモデルを考えていたことがわかり、2001年2月に社長に就任。コンデナストでは編集はやるつもりがなかったが、『VOGUE JAPAN』の人事を刷新してみると編集長だけみつからず、経験のないモード誌の編集長を兼ねることになる。「農家になれと言われていた子供の頃の自分は、パリコレのフロントローに座るなんて想像もしませんでした。これがセレンディピティだと思う」と斎藤氏。2003年には『GQ JAPAN』を創刊し、2009年にコンデナストを退社するまで編集者として最前線を歩んできた。
「偶然性を許容して最終的な形をつくる『メソッドニュートラル』」
これまでの話を受け、江成氏が自ら手がけた「メソッドニュートラル」な広告キャンペーン事例を紹介。「ファッションセラピー」というキーコンセプトから体験型のキャンペーンを行った有楽町マルイのケースは、「我々が編集長をやって、ニューヨーク、ロサンゼルス、ドイツと、世界中の面白いクリエイターに発注してオーガナイズしていく、雑誌のような案件だった」という。
また、「直線ではなく螺旋のように回りながら、さまざまな出会いと偶然の気づきでビッグアイデアが出たプランニングだった」という、神宮外苑の絵画館前の並木道に四畳半の空間を15部屋作ったIKEAのデビューキャンペーン「4.5MUSEUM」や、プレゼンで通ったアイデアが予算上難しくなった時に、スタッフの言葉から直感的に良いと判断して森の中に間伐材で44メートルの木琴を作ったdocomoの「森の木琴」プロジェクト、音楽・文化という付加価値をつけた「交響都市」というコンセプトで大成功を収めたタワーマンション広告などを実際の広告や映像とともに紹介した。
「セレンディピティ編集術の極意とは」
最後に、斎藤氏が「セレンディピティ編集術」の極意として、編集者と広告マンに共通するのは、「(リーダーが)決めるのは大きい枠と細かいディテールだけで、あとは全部才能ある人に任せること」であり、「人を選ぶこともある種のセレンディピティ」だと述べた。さらに「編集者は人のネットワークが重要だとよく言うけれど、それは全くの嘘。企画が面白ければどんな才能でも集まってきます」と述べ、まさに斎藤氏の華やかな経歴が証明する説得力ある発言でトークセッションを締めくくった。
※次回のDentsu Design Talkは2014年1月10日(金)更新予定です。