loading...

オーディエンス研究から見つける新たなアプローチNo.2

「雑談」からコミュニケーションを考える。偶然やムダをイノベーションの種に!

2021/09/06

電通メディアイノベーションラボの「オーディエンス研究機構」は、オーディエンスにまつわる社会からのさまざまな関心に応える情報を発信。ビジネス拡大へのヒントや気づきを提供したり、新しいマーケティングへの知見・手法を開発したりすることを目的としています。

今回は「映画は社会学する」などの編著を持ち、コミュニケーション論や身体論を展開されている広島大学の西村大志准教授とオンラインで「雑談」を行いました。「雑談」からイノベーションの種は見つかるのかという実験です。やってみると意外にもオーディエンス研究へのさまざまなアプローチが見えてきました。

コラージュ画像
<目次>
コンテンツと身体表現
制約が生みだす想像力と多様な読み取りを許す社会へ
コンテンツの範囲はどこまでか
コロナ禍で再発見されるコミュニケーション・ニーズ
コスパ時代と何かが発生“しない”リスク
ランキングをひっくり返してみる
偶然の発生する余地こそポイント

長尾:西村先生をお招きし本日は座談会ということになりました。オーディエンス研究に新たなアプローチを取り入れるヒントにしていきたいと思います。今日はどのように?

西村:雑談という気楽な感じでどうでしょう。立場をフラットにした雑談はいろんなアイデアが浮かびやすいと思います。ピラミッド型の会議だと、上司のまえでは言いにくいとか、これ話す価値あるのかなあとか考えがちで。居酒屋でクダを巻いているおっちゃんも、愚痴だけでなく、意外にいいアイデア出しているかもしれません。

長尾:まとまるのかな。では、コンテンツの話から始めましょうか。森下さんお願いします。

コンテンツと身体表現

森下:私は、高3の時に日生劇場でミュージカル「オペラ座の怪人」を見ました。「こういう世界があるのか」と衝撃を受けたんですね。それ以来お芝居やミュージカルの虜になり、大学卒業後も劇団に入ったんです。といっても企画や制作担当だったんですが。

ラスベガスでシルク・ドゥ・ソレイユの作品、水をテーマにした「O(オー)」という作品を体験した時にもかなりの衝撃を受けました。何よりも、人間の身体能力でここまでのことが表現できるのかと。

劇場イメージ

西村:舞台って、全身で味わいますね。最近人気のコンテンツも、身体の動きで表現されるものが目立ちますよね。そういえば、漫才であるかないか論で昨年末話題になったネタも思い出されます。漫才が言語に立脚しているものだと思っていたら、ほとんど身体表現だった。漫才の定義も含めて論争が起こりましたね。歴史をさかのぼればしゃべくり漫才以前のいろんな形態があったのですが。言語から身体へと視点を広げることは、さまざまな角度からオーディエンス研究に問いを投げかけますね。

また、一方で制約があったり欠けている部分にも、オーディエンスによる想像への重要な鍵がありそうです。丸坊主の落語家が遊女を演じると、オーディエンスは自在に補ったり、削ったりしていますよね。熟練のオーディエンスほどそれを無意識に行いながらコンテンツを消費しますね。

イラスト1

 

制約が生みだす想像力と多様な読み取りを許す社会へ

長尾:以前、音の研究者の先生と共同研究をやったことがあります。結論だけ言うと「映像として提示するよりも、あえて映像をカットして音だけで提示した方が人間は多くの連想拡大を行う」ということでした。音声メディアのラジオなどの可能性にもつながる結論でした。

西村:最近は誤解や炎上をおそれて、「受け手側」であるオーディエンスによる連想や解釈の余地をなるだけ減らそうとする向きもあるように思います。情報通信的には、ムダが排除され、夾雑物がないことは、効率的なコミュニケーションの要件かもしれません。でも、それは想像力も、偶然の出会いも失わせますよね。また、誤解も理解のうちなんでしょうね。

「誤解する権利」や「限界芸術論」で知られる哲学者の鶴見俊輔さんの考え方のようですが。オーディエンスはコンテンツへさまざまな反応を示します。その反応の多様性への不寛容が広がることは不幸なことかもしれません。

1のものを1としてしか受け止められない方式、読み取り間違いを許してくれない文化は、失っている部分も多いかもしれない。ブレた部分が、切り捨てられることが本当によいことなのか?そもそも、ムダはできるだけ排除すべきなのか?と思います。

コンテンツの範囲はどこまでか

長尾:小さい頃、近所の空き地へ紙芝居を見せにくるおじさんがいました。紙芝居って、枠の中に限定されない、もっと外側の、たとえば見ている子どもたちの間を吹き抜けるそよ風とか、食べている飴とか、後ろの方で映える夕日だとか、そういったすべてのものを一体として、紙芝居という楽しいコンテンツ体験として消費していたのかなあと思います。

西村:コンテンツの範囲はどこまでかというのも大きなポイントですね。周辺の経験までもコンテンツとして含めれば、研究はより複雑かつ面白いものになりそうです。

昔の映画館の回想録を読んでいたら、スクリーンにやたらに穴があいている映画館がでてきました。子どもが石を持って見にきて、悪役がスクリーンに出てきたら着物の懐から出して石を投げまくって、正義の味方の応援をする。現代の感覚ではかなりめちゃくちゃな話ですが、いいヒントにはなります。映画館で物理的にストレス発散する方法はないのかなあと。

イラスト2

 

コロナ禍で再発見されるコミュニケーション・ニーズ

長尾:統計データを分析するときに、いわゆる「外れ値」的なふるまいをするデータを除外したりしますね……。もしかしたら、外れている部分にこそ、何か発掘すべき真実が眠っている可能性もありますね。

西村:本日でも、外れ値的な話は避けたほうが、時間効率はいいということになりますね。それでは、事務的な打ち合わせに近づきます。また、逸脱者が少しいないと、集団は活性化しないですね。同質性の高い集団では、会話しなくてもわかっちゃうことも多くて。

私は、みなさんに迷惑をかける逸脱者として本日参加しているわけです。いつものメンバーでは、あたりまえのことも私が不思議がることによって、実はあたりまえでないことに気づいたり。コミュニケーションも一見不必要な部分こそが、コミュニケーションを活性化しているのかもしれません。

長尾:考えさせられるお話ですね。森永さん、何かコロナ禍のコミュニケーションをめぐる話はないでしょうか?

森永:コロナ禍で在宅勤務の日が増えましたので、最近は「近所歩き」をよくするのですが、これが結構楽しいんです。高齢の小型犬を飼っていらっしゃる女性とも大変仲良しになり、その犬と家の門のところでコミュニケーション(!?)することも。今までは忙しすぎて、ご近所の方と話す生活なんてありませんでした。犬と会話している姿は、ちょっと変なオジサン(!?)かもしれませんが……(笑)。

近所に家全体が花の家があるのですが、思わず「素敵ですネ!!」と住んでる方へ話しかけてしまい、新しいコミュニケーションが始まったといったこともありました。

花

西村:コロナ禍で、コミュニケーションのニーズは再発見されているでしょうね。

分断の一方で人とつながって助け合う文化も拡大しています。クラウドファンディングもはやっていて。私も農家さん、漁師さんとやり取りしながら、買い物するサイトにハマっています。売れていなかった好きな農家さんの商品が、売り切れ始めるとうれしくなります。あまり買えなくなるんですけど、なんだかうれしい。

コスパ時代と何かが発生“しない”リスク

長尾:熊川さん、コロナ禍の日々で、何か変化はないでしょうか?

熊川:やっぱり、人と話さない時間が長いというのがまずありますね。私は、まだ他人の家の犬とも話せませんし。お買い物つながりで言いますと、日用品を買うのが好きなのですが、ネットで商品の口コミサイトやランキングサイトをめちゃくちゃ見てしまっています。

長尾:どうして、そういったサイトをたくさん見てしまうんでしょうね?

熊川:やっぱり失敗したくないからでしょうか。私の母などは、お店に行って自分の目とか感覚で商品を吟味する方で、偶然的に商品を購入したりしています。私は、口コミでの、人の評価に頼ります。参考にしたサイトの口コミやランキングに基づいて商品を買い、結果満足できないこともあり、信用できないと思ったサイトは見ないようにしてゆくのですが、最近ちょっと疲れてきました(笑)。

スマホ

西村:何でもランキングしすぎですよね。検索結果自体もランキング化されますし。江戸時代でもいろんな番付出てますから、ランキング文化自体は意外に昔からあるんでしょう。ただ、大食いの番付みたいなのんきなランキングを娯楽的に楽しむのならいいんですけど、ネットのランキングが現在では人々の行動を細かく制御していますよね。

長尾:そういう面はありますね。評価、ランキング……。

西村:対面でのお買い物では、10点満点でいえば8点ならものすごくお得感がありますが、ネットのお買い物はそうはいきにくいですよね。どうしても10点を求めてしまいがちです。選択肢の多さは、選ぶことにともなう疲れと後悔も生み出してしまう。8点を買ったあとで、10点らしきものを発見して後悔したり。

買い物って情報がすべて公開されているわけではないゲームみたいなものでしょう。麻雀みたいな。それで口コミから読みを入れて、10点を狙いに行くんでしょうけれど。口コミ自体信用に足る情報かどうかはわからない。そこでは、情報を増やすことでは制御しきれない「運」も考えざるをえないでしょうね。「運」を考えれば、8点とか7点とかを狙うほうがゲームとしてみれば持続可能性があるように思います。

長尾:持続可能性ですか。

西村:10点狙いでへとへとになるのは、選ぶことにコストをかけすぎかもしれません。疲れてやめたくなるような10点狙いは、実はほかの多くのことを犠牲にしているかもしれない。これは、買い物に限らず、人生とか、企業経営とかでも似ているように思います。また、運の要素の混じる行為を一回勝負で考えるのか、幾度も勝負するとして考えるのかで選択の仕方は変わりますよね。

近年「コスパ」は深く人々を制御しています。買い物だけでなく、極端な場合は人間関係までも。それは多くの場合短期的コスパのような気がしますね。生活の幅広い領域に短期的コスパの考え方を適用してしまうと、人間関係の多様性もコミュニケーションの種類も減ってしまいますよね。短期的な効率は高まるように見えるかもしれませんが、長期的には「何かが発生しなくなる」こともあると思いますね。いざというときの命綱になるかもしれない弱いネットワークも切れてしまう。そして、持続可能性は下がる。

商売でも、短期的な効率のみのアプローチには、何かが発生 “しない” リスクがあると思います。可能性は低いけど思いっきり育つというものが重要かもしれません。確率は低くとも育ち方の違いは桁違い、といったものこそイノベーションになっていくのではないかと。でも、ほとんどは育たない。そのムダにも寛容になることが必要でしょうね。

ランキングをひっくり返してみる

西村:現実世界では、何であんなものを売ってたの?何で私はこれ買っちゃったんだろう?と考える中で逆に発見することもあるでしょう。学生の時にまずい店を探して食べに行ったりしました。「まずい」って意外に多様で、発見があるんですよね。作ったばかりのはずなのになぜか実家の残り物的味がして帰省した気分になるとか。少数の固定客に向けた味付けになっていて、食べづらいとか。サービスのおまけがメニューと合わなすぎるとか。

長尾:「まずい」で思い出したことがあります。昔、ある著名なコピーライターさんが講演で「チョコの玉がたくさん入った透明な袋がここにある、この商品を今以上に売れるようにするにはどんな手がある?」という質問をされ、答えは「中に1個だけめちゃくちゃまずい玉を仕込んでおく。そうすると、そのまずい1個にぶつかるスリルで逆に売れる」といった話をされていました。

西村:そうするとお菓子を食べることのなかにゲーム性が生まれますね。人間、正解だけだと飽きてきますよね。

偶然の発生する余地こそポイント

西村:失敗を避けたり、否定しすぎたりすると、偶然のチャンスにも出会えなくなるように思います。必然性より偶然性の価値を再検討したいですね。「マッチングアプリ」でも、すこしズレてる評価ロジックの取りこまれた「微妙にうまい具合にマッチングさせないアプリ」とかができたら楽しくなるのでは。出会い系なのに、まったく出会わない系とか。

ランキング検索イメージ

長尾: ビジネスのヒントにもなりそうです。本日は、雑談から新しい発見へ収束されてくるのが、とても新鮮でした。

西村:一見意味のない雑談や、散歩、観察って重要ですよね。とくに、疲れないのをちょくちょくやりたいですね(笑)。ときどき時間を気にせずゆっくり雑談する機会を確保したいです。脳を緩めながら。雑談って気楽なだけじゃなくって、意外にクリエイティブなものですね。持ちかけた当人がいうのもなんですが。


【雑談の実験を終えて】
今回の座談(雑談)会では、

●受け手側の解釈の余地が重要
●短期的な効率性だけを追い求めると新しい何かが発生しなくなるリスクがある
●なにげない観察からビジネスへのヒントが抽出できる
●雑談に眠るヒントに気付けるか、ということも重要

などなど、たくさんの気づきが得られました。オーディエンスへのアプローチの鍵は、日々の雑談の中にも眠っています!

ご興味がありましたら電通メディアイノベーションラボの長尾までご連絡を(mediainnovation@dentsu.co.jp)お願いいたします。

twitter