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クジラのCMから20年。解決しない課題を考えつづけるのが下手な僕ら。

2021/09/30

 

高崎卓馬氏による、公共広告機構(現・ACジャパン)CM 「imagination/クジラ 子供から創造力を奪わないでください」


環境にまつわる仕事をすることになった。本や記事を読み漁ったけれど、肌が理解する前に頭で整理してしまう。無責任な言葉を書いてしまいそうで怖くなって、つてをたどって大学の先生にいろいろと教えてもらうことにした。研究者の言葉は重く、わかりやすく、学びは大きかった。僕が「海洋プラスチックが〜」と聞きかじった情報で質問をしたら、先生は微笑んでひとこと言った。

「その前に、高崎さんは酸性雨ってご存じですよね?」僕はもちろんと答えた。すると「以前、酸性雨の問題は世の中の関心を集めてひとつのブームになりました。それからだいぶ時間がたって今は海洋プラスチックの問題が世界中でブームのようになっています。でも、酸性雨の問題ってあれから何一つ解決していないんです」と先生は淡々と続けた。

ショックだった。広告の仕事は世の中の耳目を集めるのは得意だ。信じられるSocial Goodなことを見つけて、モチベーションを高めて、世界をちょっとでもいい方向にと頭と経験を駆使する。でも先生のそのひとことに自分たちの仕事の無責任な部分を指摘されたようで、言葉が続かなかった。先生は微笑んだまま続ける。「環境の問題って、何かをしたらそれで解決するというものでもないんですよ。だから永遠に考えつづけなければいけないんです」。人間が動く限りその問題はついてくる。人間の動きを止めることはできない。だから常に私たちは考えつづけて改善していく必要がある。聞けばそのとおりだと思う。でもここに来るまで次の課題、次の課題、と生きてきた気がする。

広告は課題解決の道具とよく言われる。課題の発見の鮮やかさが称賛を集める。でも課題を見つけてあぶりだすだけで終わっているものが多くないだろうか。課題には答えがある。そう信じすぎているのかもしれない。かつて賞をもらったその手の広告やクライアントはその後どうしているだろう。答えのない課題とどう向き合うか。向き合いつづけられるか。そういう課題を広告自体がはらんでいるのかもしれない。

このクジラのCMを最近よくとりあげてもらう。このCMを作ったのは20年も前だ。今見てもそう古く感じないのは、実はここでとりあげた課題はやっぱり少しも解決していないからなのかもしれない。僕がぐるぐる考えるあいだ先生は微笑んだまんまだった。

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最近、思い切り断捨離をした。迷ったら捨てる、を基準にしていたらかなり身軽になった。いつか形にと思いつつたまりつづける没コンテの山。やたらオプションのページが多い企画書たち。生まれてはじめて作ったCMのオーディションのビデオテープ。どんどん捨てた。たぶん少したつと「しまった!」と思うだろうけれど、まあこの気持ちの軽さを手に入れる代償なら仕方ない。

ふと手が止まった。懐かしさが手首をつかむ。メモ帳よりは大きめで、企画するには小さめの厚みのあるノートが2冊。20代後半にカンヌ国際広告祭(現・カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル)にはじめて行ったときのものと、もうすこし大人になってから行ったときのものだ。浴びまくった海外のCMの何かを必死に自分のものにしようとした痕跡が生々しい。死ぬほど冷えた映画館で唇を紫にしながら、はじめて見るCMにかなり興奮した。そのときの記憶があふれだしてくる。これがなかったらクジラのCMを作ることはなかった。

髙崎 卓馬


とにかく20代は苦しかった。何が面白いのかもわからない。どうすればいいのかもわからない。ヒットしている広告に惹かれない自分もいる。憧れるCMはあるけれど自分がどうしたらそこに辿り着けるのかまるで見当がつかない。長い打ち合わせで先輩が作った雑なコンテに、CDがもっともらしい注文をつける。プレゼンでそれが通る。演出家が根本から変えてしまう。それが撮影される。やみくもに何タイプも作られる仮編集に吐きそうになる。感覚でもりあがる打ち合わせに目眩を覚える。自分が考えるコンテは自分でも何がしたいのかわからない。整理のつかない気持ちをただ書き殴って日々が過ぎた。グラフィックの仕事だけが楽しかった。徹夜でADの手伝いをしながらデザインのことをいろいろ教わった。本気で美大に入り直してデザイナーになりたいと思ったりもした。はじめてカンヌに行ったのはそんな頃だった。

会場は映画祭と同じ。たくさんある映画館でスクリーニングが行われる。スクリーニングといっても、世界中からエントリーされたCMをカテゴリーに分類するだけでただ垂れ流すだけ。審査員が投票を繰り返してここからショートリストを作る、その丸ごとが見られた。受賞作は会社の資料室でも見られたけれど、この源泉垂れ流しが最高だった。面白そうなのに着地がヘタクソなものとか、なんの広告だかまるでわからないけれど、映像としてやたらとすごいものとか、完成度がいまいち低いものが鬼のようにある。こんなに最高な教材はない。自分だったらこうするなとか、これはこうだから面白さが最後までもたないんだなとか、永遠にやっていられた。

そのうち肌が何かを感じとる。海外のCMにはロジックがちゃんとあるぞ。それは何かを伝えるうえでとても重要な表現の背骨のようなものだ。日本で仕事をしているとそれがあまり必要とされない感じがするけど自分がやりたかったのはこっちだ。浴びるように見ながら、たまに流れるロジックのない日本のCMが幼稚に見える。会場であの大ヒットCMが失笑されている。自分の道が見えた瞬間だった。

そのことに気がついてメモの質が変わった。ロジックが導く表現の「回路」を集めまくった。考えながら浴びるように見るうちに細胞がざわざわするのがわかる。見つけた回路をメモって、そして夜にホテルに戻るとせっせとそれを清書して復習した。そこに新しい自分ならこうするというアイデアを追加した。新しい表現の方法を見つけた気になった僕はもう寝る間も惜しんで、ロゼワインもムール貝もブイヤベースも南フランスの太陽も無視して回路集めに夢中になった。
 

髙崎 卓馬
カンヌ国際広告祭のプログラム。見たカテゴリーをつぶしていく。うまく組み合わせないと全部見ることができない。

受賞に至らないCMたちは雄弁だった。回路を使っているが、回路が見えてしまうものは作者の意図に冷めてしまうから心が動かない。作為を吹き飛ばすものが必要だ。回路より強い何かがないと受賞しない。受賞作だけを見ていると回路より強い何か、に目がいってしまう。だからそこにある回路を見つけづらい。ところが垂れ流されるヘタクソなCMたちは、ロジックも回路もダダ漏れ、隠してないから見つけやすい。初心者にはうってつけだ。

髙崎 卓馬

いちばん多かったのが「時間軸」をコントロールするという回路だ。これは実は大先輩のCMの神様、小田桐昭さんがいろんな場面でおっしゃっていたことだけれど、当時の僕はそれを秒数の使い方の工夫くらいにしか理解していなかった。カンヌでああ、あれはこれのことだったかと理解して強く反省した。映像の醍醐味は時間の軸の操作にある。それによって視聴者を釘付けにすることができる。この技術を使えずに映像を扱う資格はないというくらい基本のものだ。

髙崎 卓馬

これは映画をちゃんと見ていなかったせいでひどい目にあう女性を描いている。まあひどいCMで今なら間違いなく炎上するだろう。その前に放送できないだろう。ここには「主人公を被害者にする」という大きな回路が横たわっている。やっぱりショートリスト未満のCMは最高の教材だ。

髙崎 卓馬 

美しい着地として「商品がオチ」になっているものがある。商品カットがでた瞬間に笑いが起きるなんて最高だ。表現の手法を今も開拓しつづける佐藤雅彦さんは、最近対談したときにも、商品がでた瞬間に片がつくこの形が本当は理想だ、とおっしゃっていた。僕は夜中のホテルでひとつの仮説をたてる。この形に持ち込むには、商品の不在を徹底的に誇張することが重要なのかもしれない。そんなメモだ。ここにあるのはほんの一部でノートにびっしり回路を書きとった。

そして帰国したあと、このノートに書いた回路を駆使して作ったのがクジラだった。エモーショナルなストーリーを作ろうとして考えたのではなく、自分のなかで「時間軸」をコントロールした「ミスリード」ものを「言語に頼らず」に作った。メッセージとテクニックが融合していく感覚があった。エモーショナルなモチーフを選んで誰かの心を動かすことよりも、どこか回路を使ってフルスイングしたいという映像的探究心のほうが強かった気がする。それからもノートを睨みながらあらゆる回路を試しながら企画しつづけた。
 

髙崎 卓馬
クジラのストーリーを思いついたときのメモ帳。

このノートには、あのときの焦燥感と何かを見つけた興奮がびっしり書いてある。それはきっと書いた本人にしかわからないものだろう。断捨離の手を止めてページをめくると今とたいして変わらない考え方が書いてあってそれはそれで愕然とする。ひとって自分が思うよりたいして進化とかできないものかもしれない。回路だってあれからそんなに増えてない。懐かしさに腕をつかまれてページをめくっているうちに久しく使っていなかった脳ミソの筋肉が動かされる。もっと「企画らしい企画をしろよ」このノートが僕にそう言っているような気がする。

コロナになって、会社に行かなくなった。どこかで何かが動いている他のチームの熱気を感じることが難しくなった。若い世代にこの仕事の醍醐味をどこかで教えとかなきゃという気持ちになって、昔やっていた「テラゴヤ」という企画の塾のようなものを復活させた。このノートに書いてある面白さをできるだけ伝えたいと思ったのだ。オンラインやリアルをハイブリッドしながらみんなと話した。

そのなかでこのカンヌのノートを見せると彼らが「どこでそれをまとめて見られるのかわからない」と言う。ああそうか、今はもうどこでも、いつでも、なんでも見られる時代になってしまって逆に探すのに苦労するのか。塊で浴びる場所が見つけにくくなっているのか。受賞していない最高の教材たちと出会う機会がなくなってしまったのか。なかなか難しいものだ。ノートのPDFや過去CMのリンクを共有しながら、こういうところにも効率の弊害は忍び込むのだなと思った。あの時の僕の熱は、間違いなく効きすぎた冷房とともにある。経験とはそういうものだったりする。

あの頃、クジラのCMの最後に「子供から、想像力を奪わないでください。」と書いた。その言葉が20年たってブーメランのように刺さる。想像力という素晴らしい宝物が痩せていかぬよう何ができるか。これは環境問題と同じように、永遠の課題なのだろう。