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PR資産としての企業ミュージアムのこれからNo.11

「手当て」の文化を世界へ伝える久光製薬ミュージアム

2022/10/20

シリーズタイトル

企業ミュージアムは、「ミュージアム」というアカデミックな領域と「企業」というビジネス領域の両方にまたがるバッファーゾーンにある。そして運営を担う企業の広報、ブランディング、宣伝、人事などと多様に連携する組織である。本連載では、企業が手掛けるさまざまなミュージアムをPRのプロフェッショナルが紹介し、その役割や機能、可能性について紹介していく。


世界100カ国以上で商標登録され、鎮痛消炎貼付剤で世界の販売シェア1位となっている「サロンパス」。現在では世界の共通語にまでなっている。本稿では、そのサロンパスを生み出し、サロンパスの原点ともなっている「手当て」の文化を世界に発信する久光製薬のミュージアムを紹介したい。

取材と文:藤井京子(電通PRコンサルティング)

久光製薬ミュージアム(写真提供:久光製薬)
久光製薬ミュージアム(写真提供:久光製薬)

造形の詩人ボナノッテが手掛けた企業ミュージアム

久光製薬ミュージアムは、2019年、佐賀県鳥栖(とす)市に創業170周年の記念事業の一環として設立された。外用鎮痛消炎剤のサロンパスで有名な久光製薬は、創業の地、佐賀県鳥栖市に九州本社を、東京都千代田区に東京本社を置いている。このミュージアムは、その九州本社の敷地内にある。創業者から引き継がれてきた経営哲学や理念を社員に継承するため、創業170年となる2017年にその建設が計画された。

ミュージアムという名前がついてはいるが、もともと社員の研修施設として設立されたため、他の企業ミュージアムのようにウェブサイトやパンフレットはない。ミュージアム単独での一般公開はしていないが、すぐ横にはサロンパスの工場もあり、工場見学に来た団体訪問者などの希望に応じて見学を受け入れている。

地上2階建てのこのミュージアムは、延べ床面積687平方メートル、展示物が約90点と決して規模は大きくないが、その端正な建物は具象彫刻の奇才で「造形の詩人」と呼ばれるイタリアの彫刻家チェッコ・ボナノッテが基本デザインを構想したものである。モダンでシンプルながらも個性的なそのデザインは、このミュージアムが室内の展示物からだけではなく、外観からもメッセージを発しているのが分かる。

鳥栖市にはもう一つ、久光製薬が設立したミュージアムがある。創業145周年記念事業として開館した中冨記念くすり博物館で、田代(たじろ:江戸時代の鳥栖市東部の地名)をはじめとする国内外の「くすり」の歴史を後世の人々に伝えるために設立された。後に公益財団法人中冨記念財団が設立され、その運営は財団に移管されることになったが、この中冨記念くすり博物館の基本デザインもボナノッテによるものである。

久光製薬ミュージアムは同社の九州本部総務部が管理する施設となっている。今回は、執行役員BU本部九州本社総務部長の矢野栄氏と、同部総務課の佐々木萌氏にご案内いただいた。

1階展示室(写真提供:久光製薬)
1階展示室(写真提供:久光製薬)

柳行李が伝える創業者の精神

1階には、創業者の久光仁平(敬称略)から6代目となる現在の中冨一榮(なかとみかずひで)社長まで歴代経営者の残した言葉、開発した製品などを展示、映像と併せて紹介している。2階には研修ルームがあるほか、ボナノッテの彫刻やデッサンなどの作品が展示されている。

展示室に入ってまず目をひくのは柳行李(やなぎごうり)である。ミュージアム設立のプロジェクトを担当した矢野氏は、「柳行李を背負って日向(宮崎)方面まで薬を売りに行った初代に始まり、代々の経営者がどんな思いでこれまで歩んできたのかをこのミュージアムでは伝えています。私たちが迷ったときに立ち返り、士気を高めることができるようにと、このミュージアムが設立されました」と設立の経緯を語る。この柳行李は創業者の精神に思いをはせるための象徴的なオブジェなのである。

柳行李(筆者撮影)
柳行李(筆者撮影)

佐々木氏によると、ミュージアムは新入社員、入社5年目の社員、管理職の研修にも使われているが、来館後は「業務に対するモチベーションが上がった」「会社への誇り・先輩たちに対する尊敬の思いが強まった」など、さまざまな感想が届くという。

社員研修(写真提供:久光製薬)
社員研修(写真提供:久光製薬)

2019年に設立され、すぐに新型コロナウイルスの感染拡大があったため、20年、21年には入場を制限せざるを得ない状況が続いてきた。それでもオープンしてからコロナ禍前の20年2月までに、一般公開していないにもかかわらず、延べ5000人が訪れたという。久光製薬では九州本社で株主総会を行っているため、19年のコロナ禍前には、株主の見学会も実施されていた。

創業の地、鳥栖
創業の地、鳥栖

このミュージアムが建つ鳥栖市東部は、江戸時代、地名を田代と呼ばれ、1599(慶長4)年に対馬藩(現在の長崎県対馬市)田代領となった。福岡県との県境にあるこの田代は、久光製薬とは切っても切れない関係にある。久光製薬の成り立ちは1847(弘化4)年にこの田代で創業した配置売薬業者の「小松屋」が原点である。

日本の四大売薬の拠点

「富山の薬売り」は有名であるが、田代は、富山・大和(奈良)・近江(滋賀)と並ぶ「日本の四大売薬」の発祥の地であった。重さが20キログラムもあったという柳行李を背負った「売薬さん」と呼ばれる薬売りが各家庭に薬を預けて帰り、半年から1年後に再び訪問して、預け置いた間に用いられた薬代を集金するというシステムが配置売薬である。田代は長崎街道の起点で宿場があり、蘭学が盛んであった長崎から西洋の薬が入りやすく、配置売薬業が盛んになった。

明治時代になると、九州一円のほか、四国にも販売ルートが伸び、配置売薬の本拠地として栄えた。最盛期には、田代からおよそ500人の売り子が全国へ出掛けた。久光製薬の創業者久光仁平は、そんな田代売薬の一業者としてビジネスをスタートしたのであった。

田代から生まれた貼り薬

明治時代に入ると、小松屋の久光与市(2代目)は、屋号を久光常英堂と改め、1869(明治2)年に健胃消毒剤「奇神丹(きしんたん)」を生み出した。1894(明治27)年に勃発した日清戦争では、奇神丹が軍用薬に指定され、その後の日露戦争でも使われた。1903(明治36)年、3代目の久光三郎(後に久留米藩士族中冨氏と養子縁組し中冨三郎となる)が久光兄弟合名会社として法人化し、奇神丹を関西地方の問屋にも販売するようになった。

その後1907(明治40)年、ごま油に鉛丹を混ぜ合わせたものを和紙に延ばした延べ膏薬「朝日万金膏(まんきんこう)」の販売を開始した。田代売薬の主力商品の一つが「貼り薬」であるが、中でも「朝日万金膏」は、大正時代の「スペイン風邪」(スペインインフルエンザ)流行の際、高熱による関節痛を和らげる効能が評判になり、注文が殺到した。「内服薬は越中さん、外用薬は田代売薬人」といわれるほどになり、貼り薬に強みを持つ「田代売薬」が確立され、全国に販路を拡大するきっかけになった。

 朝日万金膏(写真提供:久光製薬)
朝日万金膏(写真提供:久光製薬)

サロンパスの誕生

一方で朝日万金膏は、黒色で独特のにおいがあり、はがした後に皮膚に黒く痕が残るという難点があった。しかし、その欠点を改善すべく、研究により製造方法が改良され、真っ白で爽やかな香りがする「サロンパス」が、1934(昭和9)年に誕生することとなった。

初代サロンパス(写真提供:久光製薬)
初代サロンパス(写真提供:久光製薬)

その後、海外での現地生産、多くの国への輸出と飛躍的に発展し、今では世界100カ国以上で商標登録され、鎮痛消炎貼付剤カテゴリーで2016年から6年世界販売シェア1位となっている(ユーロモニター社調査)。

鳥栖から世界に羽ばたく

このミュージアムには建物全体、庭の隅々にまで久光製薬が大切にする思いが込められている。5代目社長の中冨博隆氏は、ある美術館で遭遇したボナノッテの作品にインスピレーションを受けたというが、建物のデザインをボナノッテに依頼したのはただ単に意匠性を追求するためだけではなく、思想的に共鳴したからなのである。

ボナノッテには鳥をテーマにした作品が多い。人間には多くの制約があるが、鳥は自由に空を飛べる。このミュージアムも「既成の枠から飛び出し、自由に羽ばたく鳥」をモチーフにしたデザインとなっている。地上から、柱の支えなしにガラスの箱を浮かせたインパクトのあるデザインも、現状に満足せず、常に未来へと期待を抱いて大きく羽ばたこうとする鳥の飛翔する姿に重ねたのだという。創業200周年に向けたさらなる飛躍を目指す企業マインドを建築自体が表現している。

ミュージアムのデザインは「自由に羽ばたく鳥」がモチーフとなっている。(写真提供:久光製薬)
ミュージアムのデザインは「自由に羽ばたく鳥」がモチーフとなっている。(写真提供:久光製薬)

細部に宿る企業姿勢

このミュージアムは建物自体も“展示物”であり、入り口横の芝生の上には美術館などでよく見かけるキャプションプレートが置かれている。そこには「HISAMITSU MUSEUM 2019 CECCO BONANOTTE」と刻まれている。また庭には、所々にボナノッテの彫刻が展示され、企業ミュージアムでありながら、文化・芸術の発信地としての役割も果たしている。

キャプションプレート

エントランスでは、敷地内に根を下ろしていた榎(えのき)の古木を利用したカウンターが出迎えてくれる。朽ちて倒木の恐れがあるとして伐採したところ、偶然にも樹齢が170年であったことが分かったという。木片を積み木のように重ねたデザインで、その歴史が表現されている。創業時から久光製薬を見守ってくれた榎と、これからも寄り添っていきたいという思いでカウンターが制作された。

榎のカウンター

ちなみにこのミュージアムは、佐賀県で初めて、九州では2番目となる「ZEB(ゼブ、Net Zero Energy Building)の認証を取得した。エネルギー負荷を抑制したり、自然エネルギーを積極的に活用したりすることで、省エネルギー、創エネルギーに優れた施設になっている。細部にわたって企業姿勢を徹底して表すミュージアムとなっている。

地元鳥栖、そして社員への思い

久光製薬は佐賀県と東京の2本社制をとっているが、登記上の本店はいまだに佐賀県鳥栖市にある。地方の小さな一企業から「世界ブランドの久光製薬」となったのは、長い歴史の中で佐賀県鳥栖市をはじめとする地元の人々の助けがあったからこそと考えている。地元に恩返しをしたいという思いから、これまで久光製薬はさまざまな地域交流に努めてきた。久光製薬ミュージアムの庭で開催される、地元関係者や茶道愛好家を迎えての野だての「お茶会」もその交流の一環である。

そして従業員への感謝の気持ちもこのミュージアムでは忘れられていない。ミュージアムの敷地には、慰霊碑がある。退職後、あるいは在職中に亡くなった従業員を慰霊するためのものである。今日の久光製薬があるのは、彼らの存在があったからであり、感謝の気持ちを込めて毎年管理職がここで祈りをささげる。

(写真提供: 久光製薬)
(写真提供: 久光製薬)

この感謝の気持ちは、時に医療従事者に対しても発信される。久光製薬ミュージアムでは、新型コロナウイルス感染症に立ち向かう医療従事者への感謝の気持ちを表現するため「ブルーライトアップ」の取り組みに参加した。また5月の赤十字運動月間には「レッドライトアッププロジェクト」に参加し、日本赤十字社が掲げる「人道」の大切さを多くの人に知ってもらう活動を行っている。

ブルーライトアップされたミュージアム(写真提供:久光製薬)
ブルーライトアップされたミュージアム(写真提供:久光製薬)
レッドライトアップされたミュージアム(写真提供:久光製薬)
レッドライトアップされたミュージアム(写真提供:久光製薬)

「手当て」の文化を世界へ

1907年の「朝日万金膏」発売以来、サロンパスに代表される鎮痛消炎剤は、「貼る」ことで痛みやコリを治療する医薬品として、多くの人々に愛用されてきた。久光製薬が大事にしているのは、「手当て」の文化である。「手当て」に込められているのは、手当てされる人への思いやり。それが「貼る」の原点であり、創業以来大切にしてきた、いたわりの治療文化である。久光製薬ミュージアムは、地元や社員、医療従事者への感謝の思いを伝えながら、この「手当て」の文化を社員に継承し、今後も企業マインドを象徴する建物としてその美しい姿を世界に示していくであろう。


【編集後記】(ウェブ電通報編集部より)

久光製薬の社業の根幹は、「経皮薬物送達システム(TDDS:Transdermal Drug Delivery System)」にあるのだという話を聞いたことがある。医療の素人にはものすごく分かりづらい話なのだが、かみ砕いて言うなら「口や血管ではなく、皮膚を経由して患部に薬剤を届ける」ということだ。

「要するにシップのようなことでしょ」と、軽く考えてはいけない。シップのようなものを体のどこかに貼るだけで、体のさまざまな部分を治癒できるとしたら、これはもう、とてつもない技術革新だ。そうした分野は、世界の医療の最先端の研究テーマのひとつなのだと聞く。患部にメスを入れるといったことをせずに、お尻でも腕でも、どこでもいいからシップのようなものを貼っておくだけで、これまでは不可能だった治療ができるようになれば、これは夢のようなことではないか。

そして、ここが重要なところなのだが、久光製薬が提供している「貼りやすくて、はがれにくくて、はがしやすい」というシップ薬は、世界を見渡してもそうはないように思う。痛みに寄り添いたい、という創業以来の思いが、ここまでの製品をつくりあげたのだと考えると頭が下がる。そしてそれは、同じ日本人としての、誇りと言える。

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