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PR資産としての企業ミュージアムのこれからNo.12

日本近代科学の源流がここに。「島津製作所 創業記念資料館」

2022/10/27

シリーズタイトル

企業ミュージアムは、「ミュージアム」というアカデミックな領域と「企業」というビジネス領域の両方にまたがるバッファーゾーンにある。そして運営を担う企業の広報、ブランディング、宣伝、人事などと多様に連携する組織である。本連載では、企業が手掛けるさまざまなミュージアムをPRのプロフェッショナルが紹介し、その役割や機能、可能性について紹介していく。


「島津製作所 創業記念資料館」は、島津製作所が創業100周年を迎えた1975年に創業の地、京都に開設された。企業ミュージアムの中でもパイオニア的存在である。そのミュージアム運営のノウハウを参考にしようと有名企業の担当者も数多く視察に訪れるという。2002年には同社研究員の田中耕一氏がノーベル化学賞を受賞したことで一躍、世界から注目を集めた。今回は、そのストーリーの源流ともいえるこの地において、生活者となかなか接点が持てないBtoB企業がどのようにしてファンづくりを行っているのか取材した。

取材と文:岡内礼奈(電通PRコンサルティング)

島津製作所 創業記念資料館 外観(写真提供:島津製作所)
島津製作所 創業記念資料館 外観(写真提供:島津製作所)

地下鉄「京都市役所前駅」を出て、鴨川方面へ。その手前で鴨川と並行して流れる高瀬川沿いを流れと逆方向に歩いていくと、川の源流付近に見えてくる木造2階建て・桟瓦ぶきの町屋形式の建物が、今回ご紹介する島津製作所 創業記念資料館である。創業当時のたたずまいが色濃く残る建物は、1999年に国の登録有形文化財に指定、また2007年には、経済産業省の近代化産業遺産にも認定されている。洋風窓を取り入れたり、ステンドグラスを施したりといった和洋折衷な点も、来館者アンケートや旅行情報サイトなどで高い評価を受けている。

日本という文字がデザインされたステンドグラス(写真提供:島津製作所)
日本という文字がデザインされたステンドグラス(写真提供:島津製作所) 

創業者である初代島津源蔵とその長男の二代目島津源蔵(幼名は梅治郎であったが、父の死をうけ二代目源蔵を襲名)が本店兼住居として使用した建物が、島津製作所創業100周年を記念し、1975年、「島津製作所 創業記念資料館」として生まれ変わった。資料館内には、創業以来、製造・販売されてきた理化学器械、医療用エックス線装置や産業機器をはじめ歴史的な文献・資料など約11000点が収蔵されている。

今回取材に対応いただいた島津製作所 創業記念資料館の副館長 川勝美早子氏によると、2002年の田中耕一氏(現エグゼクティブ・リサーチフェロー)のノーベル化学賞受賞を契機に、国内外からの一般来館者が増えたそうだ。その後のリニューアルで島津製作所の歩みだけでなく、京都の近代化の歴史、日本の産業史も紹介するようになり、さらに近代化産業遺産に注目が集まり始めた時代の流れも影響し、年々来館者数が増えていった。コロナ禍前は年間約1万6000人が来館していた。

創業者の思いを継承する地

島津製作所は、分析・計測機器、医用機器、産業機器、航空機器を中心に幅広い分野で事業を展開するグローバルカンパニーである。今から147年前、仏具職人であった創業者の初代島津源蔵が「資源の乏しい日本が進むべき道は、科学立国である」との理想を掲げ、理化学器械の製造を始めたことから同社の歩みが始まった。

初代源蔵は、器械製造だけでなく、科学雑誌の発行や科学教育啓発のための講習会を開くなど、さまざまな人々との関係を築きながら科学技術の研さん・啓発に努めた人物でもある。その後、初代源蔵の長男である二代目島津源蔵が遺志を継ぎ、エックス線装置や蓄電池の開発など、次々とイノベーションを起こしていった。二代目源蔵は日本のエジソンと称され、1930年に「日本の十大発明家」に選ばれるなど、科学・産業技術の発展に大きく貢献した。

資料館の設立には、当時の社長が、二代目源蔵と共に仕事をしていた社員がいなくなったことに危機感を感じ、2人の源蔵の思いや歴史的資料を次世代の社員にも継承していくため、という意図もあったそうだ。なお創業者の精神は、社是『科学技術で社会に貢献する』、経営理念『「人と地球の健康」への願いを実現する』といったかたちで現在も受け継がれている。

自由な視点で楽しめる展示の工夫

エントランスでは、ふんわりとしたお香の良い香りに迎え入れられる。来館者に落ち着いた気分になってもらいたいという思いから、おもてなしの一環としてお香をたいているそうだ。

「ようこそ創業の地へ」と題されたエントランスの展示を進むと、ひときわ存在感を放っているのが、1918年に発売した医療用エックス線装置「ダイアナ号」である。レントゲン博士がエックス線を発見した翌年の1896年に、二代目源蔵らが第三高等学校(現京都大学)の教授らとともにエックス線写真の撮影に成功しており、1909年には国産初の医療用エックス線装置を開発。輸入品が大半を占めていた時代に、「ダイアナ号」は個人病院へのエックス線装置導入のさきがけとなり、国産のエックス線装置全体の地位向上に大きく貢献した、いわば日本の近代化における医用機器の端緒を象徴する展示物といえる。

医療用エックス線装置「ダイアナ号」(写真提供:島津製作所)
医療用エックス線装置「ダイアナ号」(写真提供:島津製作所)

また、二代目源蔵が掲げた「事業の邪魔になる人」と題された訓戒の展示にも注目したい。自らの体験や苦労などを基にした15の訓戒からは、自分にも他人にも厳しい二代目源蔵の人柄が見て取れる。「何事を行ふにも工夫をせぬ人」「仕事を明日に延す人」など、80年以上を経た今でも共感できる内容になっており、多くの来館者が思わず足を止めて見入ってしまうそうだ。

訓戒「事業の邪魔になる人」(写真提供:島津製作所)
訓戒「事業の邪魔になる人」(写真提供:島津製作所)

2階の展示スペースでは、島津製作所の事業の歩みに沿って、理化学器械、鉱石標本、産業機器などが展示されている。川勝氏は、「これらの器械は、島津製作所の科学的な思考の所産であるだけでなく、理科教育史的な視点から、あるいは造形的な視点からも関心を持ってもらえるような展示を心がけています」と展示の工夫について語ってくれた。

理化学機械などの展示コーナー(写真提供:島津製作所)
理化学器械などの展示コーナー(写真提供:島津製作所)

ずらっと整列した、美術品や骨とう品と見まがうような理化学器械の数々。展示の仕方で着目したいのが、それぞれのキャプションは製品名のみで、詳細な説明が書かれていない点。難しい製品イコール身近ではない会社、と受け止められてしまわないようにするため、展示での説明は極力シンプルにした。おのおのの視点から自由に見てもらうための工夫である。これにより、苦手意識を持つことなく、気になる製品についてはスマートフォンで調べたり、機能美を楽しんだりと、多様な楽しみ方ができる。

二代目源蔵の才能を物語る展示が、1884年、わずか15歳の時に日本でいち早く、たった一枚の挿絵をもとに完成させた、ウイムシャースト式感応起電機(静電誘導を利用して高電圧を発生させる装置)である。後にエックス線写真撮影の電源にも活用され、島津製作所の多様な事業展開につながるきっかけにもなった。

ウイムシャースト式感応起電機(左)と二代目源蔵が参考にした挿絵(右)(写真提供:島津製作所)
ウイムシャースト式感応起電機(左)と二代目源蔵が参考にした挿絵(右)(写真提供:島津製作所)

京都におけるマネキン製造の源流でもあった

特に意外性を感じたのは、島津製作所にはかつて標本部と呼ばれる部署が存在し、マネキンを製造していた時代があったこと。1895年に標本部を新設、植物模型や、鉱石標本、人体模型を手掛けるようになり、洋服の需要が高まった時代には、人体模型製作技術を応用し、自社でマネキンの製造を始めたそうだ。高い芸術性や技術力を兼ね備えた島津マネキンは、最盛期には国内市場の85%以上を占有する一大ブランドとなった。現在、マネキン製造は他企業に引き継がれているが、多くのマネキンメーカーが現存する京都、その源流は島津製作所にあったのだ。

島津マネキン(写真提供:島津製作所)
島津マネキン(写真提供:島津製作所)

製品やパンフレットに見る科学の進歩

最後の展示室では、現在の主力製品である分析・計測機器をはじめとした製品や、発売当時のパンフレットの数々が、壁一面に展示されており、日本の近代工業化に対応した製品開発の歴史が一望できるようになっている。「昔、この製品を使って研究した、懐かしい」など、来館者同士の会話が弾む場所にもなっているそうだ。

近代工業化に対応した製品開発の歴史がわかる展示(写真提供:島津製作所)
近代工業化に対応した製品開発の歴史がわかる展示(写真提供:島津製作所)

大人も子どもも夢中になれる実験コーナー

また、科学の不思議を体感できる「実験コーナー」は子どもだけでなく大人にも人気を博している。衝突の原理や映画の仕組みが分かる実験を通して、源蔵父子の思いでもある、科学的な視点で物事を考える重要性を具現化している。低学年用、高学年用と対象別にワークシートを準備し、答え合わせをして記念品を贈呈するという、訪れた子どもが楽しめるような工夫もあり、夏休みや冬休みには子ども連れの家族も多く来館するそうだ。

実験コーナー(写真提供:島津製作所) 
実験コーナー(写真提供:島津製作所) 

ファンづくりの拠点として

島津製作所 創業記念資料館は同社にとってどのような存在意義があるのだろうか?同じく今回の取材に協力いただいた島津製作所コーポレート・コミュニケーション部広報グループの小島周子氏に話を伺った。「来館者の6割に当たる取引先などのお客さまは、今の島津製作所の製品や取り組みを知ってくださっていても礎についてはご存じない方もいらっしゃいます。また、一般のお客さまにとって島津製作所の製品は家庭で使用するものではありませんから、身近に感じてもらえません。この資料館で、難しい技術の話ではなく、社会に貢献してきた歴史を知っていただき、島津製作所の姿勢に共感していただけるとありがたいと思っています」。

川勝副館長は、「島津製作所の歴史を通して、お客さまの興味や関心を引き出せた時に、距離がぐっと近くなったという手応えを感じます」と日々のお客さまの印象を語った。京都が地元の人でも、島津製作所の名前は知っていても、実際にどんなことをしている会社か知らない人も多いそうだ。

海外・未来にも受け継がれるDNA

海外拠点も多く持つ島津製作所。創業者の思いを現地社員へも伝えるため、資料館では、海外拠点とオンラインで結んだ見学会を開催したり、海外で理化学器械を収蔵する施設と連携して研究や展示なども行っている。「源蔵父子のモノづくりに対する情報に触発された」「実際に資料館を訪問したい」などといった感想が寄せられ、現地社員のモチベーション向上に寄与している。

また、次世代の科学する心を育てる活動として、小・中学校、高校へ赴き、昔の理化学器械を使ったワークショップを実施している。こうした活動からも、理化学器械のカタログや科学雑誌の発行などを通して、科学技術の啓発に尽力していた初代源蔵の思いが受け継がれていると感じた。

高校生向けワークショップ(写真提供:島津製作所)
高校生向けワークショップ(写真提供:島津製作所)

取材を終えて

資料館の入り口部分には、創業者・初代源蔵の胸像とともに「源遠流長(げんえんりゅうちょう)」と刻まれた碑が立っている。中国の故事成語で、「いまや、創業からは遠くなったが、今後も事業が川の流れのように末広がりに発展するように」との願いが込められているそうだ。資料館を訪ね、島津製作所の源流部分で、数々の製品やそれにまつわるストーリーに触れ、まさに末広がりに発展していく過程を体感することができた。

初代源蔵の胸像と「源遠流長」と刻まれた碑(写真提供:島津製作所)
初代源蔵の胸像と「源遠流長」と刻まれた碑(写真提供:島津製作所)

【編集後記】(ウェブ電通報編集部より)

二代目源蔵が掲げたという「事業の邪魔になる人」と題された訓戒には、思わず見入ってしまった。「これを、しろ。あれを、しろ」という訓戒は多々あるが、「こんな人は要らない」ということを、15項目にわたって記したものは、初めて見た気がする。

すぐれたリーダーは、「これを、しろ。あれを、しろ」とは言わない。「これはしなくていい。あれもしなくていい。キミは、これに専念してほしい。そんなキミの頑張りを、私は全力で守るし、支えていく」、そんなふうに言われたら、人は頑張ってしまう。頑張って、頑張って、気が付いたらノーベル賞だってとってしまう。

島津製作所の強みは、もうひとつ「京都の気風」にあるような気がする。「一見さん、お断り」みたいな敷居の高さを感じる京都であるが、その一方で、他者へのリスペクトという点で研ぎ澄まされたものを感じる。一見、科学とはなんの関係もないことのように思うが、そうした「気遣い」や「気配り」が、誰もが想像もできなかった、とんでもない発明や発見の根底にあるような気がする。

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