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PR資産としての企業ミュージアムのこれからNo.27

技と術を未来に紡ぐヤマハ発動機「コミュニケーションプラザ」

2023/05/15

シリーズタイトル

ヤマハ発動機は売上高の9割以上を海外が占めるグローバル企業だ。同社のモーターサイクルには欧州や北米をはじめ世界各地に根強いファンがいる。同社の安全ビジョン「人機官能×人機安全」は、絶えずイノベーションを創出する“感動サイクル”(ヤマハ発動機の事業活動をブランド視点で示す価値創造モデル)を指している。そして、この“感動サイクル”こそがファンを引きつけてやまない源泉となっている。同社は、独自技術の創造性に対するこだわりが常にあるが、それは同社の企業理念の「感動創造企業」からくるものである。その全貌が示されている同社のミュージアム「コミュニケーションプラザ」(静岡県磐田市)を紹介したい。

取材と文:中憲仁(あたり のりひと)(電通PRコンサルティング)

“コミュニケーション”がキーコンセプト

ミュージアム外観
ミュージアム外観

「コミュニケーションプラザ」は、静岡県磐田市にあるヤマハ発動機本社敷地内に開設された同社の企業ミュージアムである。地上3階建て、延べ床面積6200平方メートルの施設で、各種製品のエンジンパーツなども含めると約300点が展示されている。第4代社長の長谷川武彦(以下敬称略)が当時、ヤマハ発動機の「過去、現在、未来」を示した施設の必要性を唱え、創立40周年の記念事業として1998年7月1日にオープン。今年25周年を迎える。

同社企業理念 感動創造企業(筆者撮影)
同社企業理念 感動創造企業(筆者撮影)
1-2階展示室
ヤマハ発動機  コミュニケーションプラザ(写真提供:ヤマハ発動機 )

施設の名称は設立当初から「コミュニケーションプラザ」で、“コミュニケーション”がそのキーコンセプトとなっている。設立当時、同社の経営環境は厳しい状況を乗り越えたタイミングということもあり、株主、お客さま(ユーザー)、地域の人々、そして特に従業員とのコミュニケーションをより円滑にする拠点としいという思いがその名称に表れた形だ。

今でこそ、エンプロイーリレーションズや従業員エンゲージメントは珍しくはないが、当時からインターナルコミュニケーションの重要性を理解し、命名したことに驚く。今回取材するに当たって、コミュニケーションプラザ全体を担当するコーポレートコミュニケーション部の松尾現人氏に話を伺い、館内を案内していただいた。

コミュニケーションプラザ全体担当 松尾現人氏(写真提供:ヤマハ発動機 )
コミュニケーションプラザ全体担当 松尾現人氏(写真提供:ヤマハ発動機)
 

さまざまなオーディエンスが対象

館内は1階が現在と未来、2階が過去(1955-、1970、1980、1990)で自動二輪を年代ごとに展示、3階が研修会議室になっている。地元の人だけでなくバイクファンがツーリングついでに立ち寄ったり、国内の新入社員や海外現地法人の社員が研修の一環で訪れたりする。夏休みにはスタッフによる地域の子どもたち向けの「エンジン分解組み立て教室」などの催し物が開催される。また、株主のお子さま向けのプログラミング教室を行うなど地域の人やファンの憩いの場としても活用されている。

子供向けのエンジン分解組み立て教室(写真提供:ヤマハ発動機)
子ども向けのエンジン分解組み立て教室(写真提供:ヤマハ発動機)

最近では中学校や高校、高専の学生なども社会科見学で訪れ、「『将来、ヤマハ発動機で働きたい』と言ってくれる学生もおり、施設に対する感謝のメッセージを頂けて大変うれしかった」と松尾氏は話す。

地元の静岡文化芸術大学とは、ヤマハ発動機の製品デザインと新たなイノベーションを生み出す先行デザイン研究拠点であるイノベーションセンターが研修会を共催し、見学会だけでなくデザイン面でのコラボレーションなどを行う拠点としてコミュニケーションプラザを活用している。

コロナ禍前の2019年には年間約12万人が同館を訪れている。コロナ禍で来館者は減少したが、2022年末までに累計で約290万人が来館した。ウェブサイトでは「コミュニケーションプラザ 360°バーチャル体験」が新たに追加された。館内の展示物が3Dで360°確認できるだけでなく、各階に展示されている展示物に関連した動画やウェブコンテンツにアクセスすることができる。

プロペラは語る~胎動と萌芽~

2階の入り口には「胎動と萌芽(ほうが)」黎明(れいめい)期というタイトルで、飛行機のプロペラが展示されている。

日本楽器製造(現ヤマハ)製造によるプロペラ:大正12年製(筆者撮影)
日本楽器製造(現ヤマハ)製造によるプロペラ:大正12年製(筆者撮影)

戦後に航空機用の木製や金属製のプロペラの生産に充てられていた工作機械を利用し、楽器製造で培った金属加工技術を融合させることで1954年に新しい事業が生まれた。翌1955年に第1号製品「ヤマハオートバイ125 YA-1」の生産に着手し、同年2月に国内販売を開始。同年7月1日に日本楽器製造(現ヤマハ)から分離・独立してヤマハ発動機が創立された。

第1号製品 YA-1の成功から現在まで

創業者で初代社長の川上源一は二輪メーカーが乱立するのを目にしながら、「日本の二輪車はまだまだ劣る。世界に通用する商品さえ作れば後発でも十分に太刀打ちできる」と社員にハッパをかけ、開発着手からわずか10カ月で試作車を組み上げたという。その後発売した第1号製品「YA-1」は成功を収めた。創立当初から「海外に通用しないものは商品ではない」と世界を見据えていた経営者でもあった。

ヤマハ発動機 第1号製品 YA-1(筆者撮影)
ヤマハ発動機 第1号製品 YA-1(筆者撮影)

その後1960年代の高度経済成長期には、ボートやボートの後部につける船外機、スノーモービルなど多角化に向けて発展を遂げることになる。中でもコミュニケーションプラザの1階展示コーナーで鮮烈なインパクトと異彩を放つのが、1967年に発売されたトヨタのスポーツカー、トヨタ2000GTである。カーマニアの間では有名な話だが、トヨタ2000GTのエンジンはトヨタとヤマハ発動機の共同開発によるものである。

トヨタ2000GT(筆者撮影)
トヨタ2000GT(筆者撮影)
トヨタ2000GTの全体レイアウト計画やデザイン、基本設計などはトヨタ側でなされ、ヤマハ発動機はトヨタの指導の下で主にエンジンの高性能化と車体、シャシーの細部設計を担当している。当時30代の若い同社技術者を中心にチームが編成され、臆せず挑んだチャレンジ精神、フロンティア精神が垣間見られる。

1960年代後半以降、こうしたエンジンの高性能化が産業用機械・ロボットなどの製造技術に発展し、さらに除雪機や電動アシスト自転車、電動車いすなどにまで及ぶことになる。日本楽器製造(現ヤマハ)から受け継ぐ「人々の暮らしに貢献する」という志を原動力に「事業の多軸化」が進められてきたわけである。実際、どの製品を見ても同社のコンセプト「ひろがるモビリティの世界を創る」が常に技術、製品開発コンセプトの軸に置かれている。

同社製品の系譜(筆者撮影)、及び1F 展示品(写真提供:ヤマハ発動機)
同社製品の系譜(筆者撮影)、及び1F 展示品(写真提供:ヤマハ発動機)
1階事業展示コーナー

「動態展示」へのこだわりと復元技術に見るヤマハ発動機の技と術

本施設で驚かされるのが、1955年以降の各年代のマシンが展示されているが、ほぼ全ての展示車両が動態保存となっており、現在でも走行可能な状態にメンテナンスがされている点だ。この背景には復元技術を風化させまいとする同社の技術に対する真摯(しんし)な姿勢がある。

同社による過去に活躍したレースマシンの企画展(写真提供:ヤマハ発動機)
同社による過去に活躍したレースマシンの企画展(写真提供:ヤマハ発動機)
 

復元技術は技術者の減少や職人の技術継承が大きな課題となっている。復元するまでに実に18段階にも及ぶ工程があり、一つ一つ丁寧な作業が求められる。こうした展示物はリアルだからこそ語りかける力がある。企業のDNAとして一つ一つ生み出された製品に込められた思いと技術者の心意気は今なお伝わってくる。過去の歴史をひもといて、未来へと紡いできたからこそ今があるのだと。

1987年製のFZR1000。1980年代中盤からのヤマハ4ストローク技術の象徴“GENESIS”思想に基づくフラッグシップモデル。新品同様のメンテナンスが施されている。(筆者撮影)
1987年製のFZR1000。1980年代中盤からのヤマハ4ストローク技術の象徴“GENESIS”思想に基づくフラッグシップモデル。新品同様のメンテナンスが施されている。(筆者撮影)
 

現在・未来に向けた架け橋とミッシング・リンクの探索

ヤマハ発動機の技(わざ)と術(すべ)は、展示物の中でもひときわインパクトを持って示されている。同社による造語「人機官能」は“人機一体感の中に生まれる悦(よろこ)びや興奮、快感を定量化し性能に織り込む”としており、「感動創造企業」を具現化するとはどういうことなのかということを、より具体的かつ視覚的に全身で理解することができる。

技と術

松尾氏によると、「チャレンジ精神」という言葉に込められた思いとして「やらまいか」という先人たちからのメッセージがある。「やらまいか」という遠州(静岡県西部地域)の言葉は「やってみよう」「やってやろうじゃないか」を意味し、新しいことに果敢にチャレンジする精神を表す。この遠州の方言が同社で先輩から後輩に向けて–使われる際には「いっちょやってみろ(ちゃんと面倒見るから)」という人間味あふれるニュアンスが含まれているのだという。

同社を退職し、70歳を過ぎた大先輩が、時折このコミュニケーションプラザを訪れては貴重な資料を届けてくれるのだという。「助言や当時の貴重な話を聞かせてくれることで今なお新たな気付きがあり、技術伝承の過程で失われていた“ミッシング・リンク”がつながることがある」と松尾氏は話す。コミュニケーションプラザが現在と過去の橋渡し役になると同時に、当時の精神と技術の必然性が今なお、各展示物からリアルに発信されている。

独自技術LMWを導入した同社製品。 左がNIKEN GT、右がトリシティ300(筆者撮影)
独自技術LMWを導入した同社製品。左がNIKEN GT、右がトリシティ300(筆者撮影)
 

「技と術」の内容を示した体系図にはさりげなく同社のリーニング・マルチ・ホイール (LMW)が示されていた。LMWとは、モーターサイクルのようにリーン(傾斜)して旋回する3輪以上の車両の総称である。これは他社に先駆けて安全性を追求した独自技術である。

自動二輪の新しい安全技術を追求する中で生まれており、製品化に成功している。こうした唯一無二の独自技術に対するこだわりにお金と時間をかけ形にできるカルチャーとパワーこそが、同社の技(WAZA)と術(SUBE)の源泉となっているに違いない。

コミュニケーションプラザにはこのフィロソフィを時代の流れとともに体感し、未来に向けて駆り立てる着想のヒントが詰まっている。苦境に陥った際の心構えや前を向くことの大切さ、失ってはいけないもの等々。展示物には先人からのメッセージが至る所にちりばめられている。

ある意味、コミュニケーションプラザは、同社の社員、ライダー、株主、地域の人々などさまざまな人が訪れては同社のファンになる台風の目のような“求心力”を持っているのである。ここでは創業者の川上源一初代社長が常に社員に問いかけているのかもしれない。「君たち、未来に向けて紡いでいるのか?」と。


【編集後記】(ウェブ電通報編集部より)

懐かしのヒット曲ではないが、ふとした瞬間に「もしもバイクに乗れたなら」と思うことがある。

愛馬に飛び乗るがごとくシートにまたがって、ハンドルを握る。心地のいいエンジン音を聞きながら、颯爽(さっそう)と風を切る。いささか子どもっぽい妄想ではあるが、正義のヒーローになったような感じ……

そんなイメージは、免許のありなしにかかわらず、老若男女に共通するわくわく、共通の憧れではないだろうか?このミュージアムは、そうした気持ちに、あの手この手で応えてくれる。現物を目の当たりにしての“リアル”なわくわくは、やはりバーチャル体験とは一味も二味もちがう。入館料は、無料。もちろん、自動二輪の免許も、ヘルメットもいらない。

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