ミキモト真珠島が担うパブリック・ディプロマシー
2023/05/09
企業ミュージアムは、「ミュージアム」というアカデミックな領域と「企業」というビジネス領域の両方にまたがるバッファーゾーンにある。そして運営を担う企業の広報、ブランディング、宣伝、人事などと多様に連携する組織である。本連載では、企業が手掛けるさまざまなミュージアムをPRのプロフェッショナルが紹介し、その役割や機能、可能性について考察したい。
世界で初めて真珠の養殖に成功した御木本幸吉(以下敬称略)。ミキモトの創業者である幸吉は、親交のあった渋沢栄一の影響でパブリック・ディプロマシーの重要性を早くから認識していた。三重県鳥羽市にミキモト真珠島を開島し、そこで真珠を日本の誇るべき「ソフト・パワー」として世界に発信しながら各国との民間外交に努めたのである。彼の没後、ミキモト真珠島にはミュージアムが整備され、海外から多くの国賓を迎え入れている。本稿では、パブリック・ディプロマシーという観点から企業ミュージアムの果たす可能性を探っていく。
取材と文:藤井京子(電通PRコンサルティング)
三重県の鳥羽湾に浮かぶミキモト真珠島(しんじゅしま)は、1893(明治26)年にミキモトの創業者である御木本幸吉が世界で初めて真珠の養殖に成功した島である。この島は、元々は相島(おじま)と呼ばれていたが、幸吉が1929(昭和4)年に買い取って整備し、1951(昭和26)年にレジャー施設として一般開放された。この島には二つのミュージアムがある。運営するのはミキモトのグループ会社である株式会社御木本真珠島である。そのため、厳密な意味ではミキモトの企業ミュージアムとはいえないが、ミキモトの創業者がこの島を開島し、また、島内の二つのミュージアムの一方は創業者の生涯やその業績に関する展示物を有しているため、広義での企業ミュージアムとして紹介したい。
観光・教育・産業が三位一体となったミュージアム
ミキモト真珠島には真珠博物館と御木本幸吉記念館という二つのミュージアムがある。真珠博物館では真珠の宝飾品のコレクションを展示するだけではなく、歴史、自然科学、産業、人文科学などの多様な視点から真珠を紹介している。御木本幸吉記念館では鳥羽市出身の真珠王・御木本幸吉の生涯や人物像に迫るさまざまな展示物を見ることができる。
コロナ禍の影響で来島者はここ数年減っているが、伊勢志摩国立公園内にあるミキモト真珠島には、2019年には年間約15万7千人が訪れており、地元三重県の産業観光としても重要な役割を担っている。観光や学習目的の来訪者以外にも、ミキモトの入社2年目の社員をはじめ、多くの真珠業界の関係者が研修の一環としてこの島を毎年訪れている。
ミキモトとは研修の他、展示内容や真珠の研究についても定期的なミーティングを持ちながら、協力関係にあるという。両館とも、子ども向けのコンテンツが充実しており、小学生などが展示だけではなく、体験を通して真珠について学ぶこともできる。
ターゲットは世界の人々
旅行関連の口コミサイト「トリップアドバイザー」を見ると、日本語だけではなく、英語、中国語、フランス語と、この島に関する数多くの外国語のレビューが出てくることからも、世界から注目されていることが分かる。東京から離れた場所にあるが、2023年4月現在、来島者の約2割が日本国外からとなっている。
近隣諸国からの来島が多いものの、日本を訪れる外国人観光客向けの旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で二つ星を獲得して以来、フランス人の間でも人気の観光地となっている。同島のパンフレットは、日本語以外に、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、中国語(簡体字)、中国語(繁体字)、韓国語と、多言語で用意されている。現在、学芸員の資格を持った職員2人、英語対応のできる数人を含め合計7人のガイドが入館者の対応に当たっている。
運営会社の御木本真珠島は、海外からの観光客誘致のため、これまで積極的に国外の旅行会社などを訪ね、ツアーに組み込んでもらうようプロモーション活動を展開してきた。御木本真珠島は地元三重県の観光協会や商工会議所の会員でもあり、三重県や鳥羽市といった地元自治体と一体になってインバウンド観光のプロモーション活動を行うこともある。
そもそも真珠とは何か?
ミキモトは、現在は東京江東区に本社を置き、銀座4丁目に本店を置く宝飾品の製造、販売等を行う会社である。海外の主要都市でも店舗を構え、真珠の販売では世界一のシェアを誇っている。
ミキモトの主力商品となっている真珠は、アコヤ貝など6種類の貝の体内で生成される宝石である。幸吉が養殖に成功するまで、真珠は天然真珠しかなかった。貝に異物が偶然入り真珠ができるため、全ての貝に真珠が入っているわけではない。また入っていても丸い核を仕込んで丸く仕上げる養殖真珠と違い、形はいびつなものがほとんどである。核がないか、あっても極めて小さいことが多いため、大きな粒になるまで長い年月もかかる。粒の大きな丸い天然真珠は1000個の貝の中に、1個あるかないかの大変希少で高価なものであった。
真珠は、2000年前の古代ローマ時代より人々に愛されてきた。エジプトでは紀元前3200年頃から既に知られており、記録にも残っている。古代日本も真珠の一大産地であり、縄文時代前期の遺跡から出土している。古代の日本人は真珠を中国への朝貢品として使用しており、中国の「魏志倭人伝」や、「後漢書」には日本の真珠の記述が残っている。「日本書紀」「古事記」「万葉集」などの古典にも真珠は度々登場している。
真珠博物館
国内初の真珠専門博物館である真珠博物館では、「人と真珠~そのかかわりを考える~」をテーマに真珠のできる仕組みや真珠の養殖法などを、数多くの資料や映像とともに詳しく紹介している。
また、天然真珠を用いたアンティークジュエリーの充実したコレクションや養殖真珠をふんだんに使用した豪華な美術工芸品の数々が展示されている。コレクションには、およそ2000年前につくられた古代ローマ時代の装身具も含まれており、日本だけではなく、世界的なジュエリーの歴史を学ぶことができる。
御木本幸吉記念館
一方の御木本幸吉記念館では、1858(安政5)年、鳥羽のうどん屋「阿波幸(あわこう)」の長男に生まれ、96歳で没するまでの幸吉の波乱に富んだ生涯と業績が、数多くの写真や遺品、説明パネルによって、展示されている。愛用の品やコレクションなど、遺品の数々は、幸吉独特の人生哲学や暮らしぶりを伝えている。
幼い頃より野菜の行商をするなど、商人として多くの経験を積む中で、20歳になるのを機に出かけた東京、横浜への視察旅行で志摩の特産物である真珠が高値で売られているのを見た。そして幸吉は、この希少価値の高い真珠を偶然にまかせるのではなく、自分の手でつくり出そうと決意した。
その後、大日本水産会幹事長・柳楢悦(やなぎ ならよし)や東京帝国大学の箕作佳吉(みつくり かきち)との交流を通じて真珠の養殖を志した。数多くの困難を乗り越え、1893(明治26)年7月11日、鳥羽の相島(現ミキモト真珠島)で世界初の半円真珠養殖に成功したのである。
御木本幸吉記念館には復元された生家「阿波幸」、鳥羽に残る幸吉の足跡、当時の鳥羽の様子が一目で分かるジオラマなどがあり、郷土との関わりも大きなテーマとなっている。
故郷の風景を愛する幸吉は、大正時代から志摩半島を国立公園にしたいと考えていた。1931(昭和6)年には、内務大臣にその案を陳情するだけではなく、交通や道路の整備にも力を入れ、自ら朝熊山に東西の公園も造っている。その熱意や努力によって戦後第1号として伊勢志摩国立公園はできたのである。
二つのミュージアムは博物館として登録はされていないが、真珠博物館は三重県博物館協会の博物館類似施設として登録されている。また同館と御木本幸吉記念館は日本博物館協会の会員でもあり、貴重な歴史的資料の整理・保存・展示など、学術的・文化的な使命も果たしている。
御木本幸吉記念館には、発明王エジソンが幸吉に宛てた手紙も展示されている。エジソンには渋沢栄一の紹介で知り合ったということであるが、「真珠を発明されたことは、世界の驚異です」、1927年、欧米へ視察に行った際、エジソンは幸吉にこう言ったとされている。この二人の会見は「ニューヨーク・タイムズ」でも報道され、ミキモトの名は瞬く間にアメリカで広がった。
海女の実演ショー
ミキモト真珠島にはミュージアムといった展示施設があるだけではない。海女の実演を見学することもできる。かつて、海女は真珠の養殖にとってなくてはならない存在であった。海底に潜ってアコヤ貝を採取し、核入れした貝を再び海底へ。また、赤潮の襲来や台風の時には、貝をいち早く安全な場所に移すなど、海女の活躍がなければ養殖真珠の成功はあり得なかった。
今は養殖技術が発達し、海女の必要性はなくなったが、真珠養殖を支えた海女の活躍を広く伝えるために、真珠島では海女の実演を行っている。鳥羽以外にも日本各地に海女はいるが、昔ながらの白い磯着の海女が見られるのはこの真珠島だけとなっている。
海女たちは、潜水から海面に浮上したとき、息継ぎのために口笛に似た「ピューピュー」という吐息を発する。物悲しげな哀調を帯びた吐息は「海女の磯笛」と呼ばれ、伊勢志摩の代表的風物になっており、環境省の残したい“日本の音風景100選”の一つに選ばれている。
パブリック・ディプロマシーの担い手として
この島には世界の王族、首脳、駐日大使、IOCの会長、皇室のメンバーなど、国内外のVIPたちも多く訪れる。英エリザベス女王とフィリップ殿下(1975年)、モナコのレーニエ3世とグレース王妃(1981年)、スウェーデンのシルヴィア王妃(1985年)など何人もの国賓が過去に訪れている。
2016年の主要国首脳会議(G7伊勢志摩サミット)でも、ミキモト真珠島は文化外交の場となった。首脳会議参加国の首脳の配偶者を歓迎するプログラムで、ドイツのメルケル首相の夫、カナダのトルドー首相の夫人、トゥスクEU大統領の夫人らが来島。まさに地方から真珠という日本の「ソフト・パワー」で、各国との交流を深める外交の場となっているのである。
「ソフト・パワー」とは、ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が提唱した概念であるが、軍事力や経済力によって他国をその意に反して動かす力が「ハード・パワー」であるのに対し、その国が持つ価値観や文化の魅力で相手を魅了することによって自分の望む方向に動かす力のことである。
このように、このミキモト真珠島は、ミキモトというブランドの単なる広報ツールの枠にとどまっていない。産業観光施設として地元経済に貢献するほか、真珠という日本の「ソフト・パワー」を通して「パブリック・ディプロマシー」の担い手にもなっているのである。
「パブリック・ディプロマシー」とは伝統的な政府対政府の外交とは異なり、政府以外の多くの組織や個人が関与するさまざまな形の外交である。広報や文化交流を通じて、外国の国民や世論に直接働きかけ、各国の国民に日本の立場を説明し、理解を得ることにより、日本のファンをつくっていく活動である。その定義はこれまでさまざまなされてきたが、パブリック・ディプロマシーの担い手は政府だけではなく、民間団体や民間人も含むようになっている。
渋沢栄一との出会い
幸吉が「パブリック・ディプロマシー」を意識していたことは、ミュージアムの展示からも理解できる。真珠事業が日本を代表する産業に成長する中で、幸吉は政財界の重鎮との親交を深めていった。中でも、日本資本主義の父、民間外交の先駆者として名高い渋沢栄一との交流も映像などで紹介されている。
1926(大正15)年、1年近くにわたる欧米視察に出た幸吉は、民間レベルにおける諸外国との交流の重要性をあらためて痛感し、帰国するやいなや相島の整備に取り掛かったのである。渋沢栄一からも「君が発明した養殖真珠を日本の武器にして民間外交をやってみてはどうか」というアドバイスがあったそうだ。養殖真珠誕生の地の公開はすぐに評判となり、各国の王族をはじめ政治家、大公使など、来日した多くの人々が訪れている。
彼らはこの島での見聞を自国に帰ってからさまざまに語り、日本の真珠を諸外国に強く印象付けることになったであろう。この島に保存されている来賓の写真ファイルは単なる記念写真集ではなく「パブリック・ディプロマシー」の歴史を物語る貴重な記録だといえる。
戦略的コミュニケーションとしてのパブリック・ディプロマシー
外交は政府だけに任せるのでは十分ではない。特にソーシャルメディアが普及した現在、世論が持つ力は著しく増大している。世論が国家間のネガティブな感情を増幅したり、逆にポジティブな感情の創造を促進したりすることもある。そういった時代に、世論にポジティブに働きかけることができる民間レベルの国際交流は、ますます重要になってきている。
パブリック・ディプロマシーもパブリックリレーションズ(PR)も戦略的コミュニケーションである。渋沢栄一、御木本幸吉らは、戦前からその諸外国との交流の重要性を認識し、実践してきた。
ミキモト真珠島は、幸吉の意志を継承しながら、今も鳥羽という地域の国際的価値を高め、地域産業の発展に貢献し、パブリック・ディプロマシーの一翼を担うという大きなミッションを持ちながら運営されているのである。
【編集後記】(ウェブ電通報編集部より)
今回の取材を通じて、博物館とは「公園」なのだ、ということにあらためて気付かされた。ジャングルジムや砂場のある、いわゆる近所にある公園ではない。国定公園、のような存在である。
博物館の「博」には「広める」という意味がある。ミキモトが歩んできた道のりを「広め」、それを「公(おおやけ)」のものにしていく。
外国人が日本を訪れてびっくりすることの一つが「公園」の多さなのだという話を聞いたことがある。とにかくまず、度肝を抜かれるのが皇居の存在だという。世界有数の大都市トーキョーのど真ん中に、あのような巨大な皇居という名の「公園」がある、ということがアメージング!なのだそう。
博物館の本質も、それに近いものがある。企業の自慢話をしたい、ということではなく、その企業が歩んできた道のりを「公」のものとして開放し、楽しんでもらいたい。そんな思いが、伝わってくる。