ライブエンターテインメントが推進する、新たなまちづくりの可能性No.1
地元が一体となり飾る “フィナーレ”!中野の大規模音楽祭の裏側に迫る
2023/09/04
「このフィナーレは、未来へのファンファーレ」
2023年7月、50年間に渡って国内外のアーティストが数多くのステージを行い、中野区のアイコンとして愛されてきた中野サンプラザが閉館。同年5月から、冒頭のキャッチコピーを冠した大型音楽イベント「さよなら中野サンプラザ音楽祭」が約2カ月間開催されました。
200人以上のアーティストが参加し、計37公演を披露。開催中は中野区役所や同駅を囲む4つの商店街とともに大々的なPRを実施。それは、アーティストや音楽ファンはもとより、街全体を巻き込み、中野サンプラザを愛する人々が一体となって盛り上げた、これからの中野のまちづくりへとつながる“フィナーレ”でした。
エンターテインメントとまちづくりを融合させ、約6万人が訪れたイベントはどのように企画され、実現へと至ったのか。
同音楽祭を企画し、アーティストとの交渉、商店街との連携など総合プロデュースを担当した電通の川合紳二郎氏、北川公也(ともや)氏、紅村正雄氏、そして株式会社中野サンプラザ執行役員 管理本部長の渡邊武雄氏、2029年に開業予定の「(仮称)NAKANOサンプラザシティ」再開発事業の代表幹事会社である野村不動産中野プロジェクト推進部の五箇孝慎(ごか たかのり)氏が座談会を開催。前編となる本記事では、大規模音楽祭実現の舞台裏についてお伝えします。
街とアーティスト、ファンに愛された“中野のアイコン”
北川:野外フェスではなく、屋内のホールで2カ月という長い期間音楽イベントを行ったのは、日本では初といえるかもしれません。それを実現できた背景には、やはり中野サンプラザがアーティストから愛された会場だったことがありますし、そこに至る歴史や成り立ちも関わっているように思います。まずはここがどんな施設だったのか、改めて渡邊さんからお話ししていただけますか。
渡邊:中野サンプラザは、1973年に労働者向けの福祉施設「全国勤労青少年会館」として開設し、当初は国が運営していました。愛称の「サンプラザ」はその頃公募で決まったものですね。それが2004年11月に民営化されて、われわれ「株式会社中野サンプラザ」が引き継いだんです。
ホールは最大2222名が収容可能で、開業以来ポップスや歌謡曲、外国人アーティスト、ロックバンド、演歌系、韓流、アイドル、そして声優のライブなどが行われ、まさにその時々の音楽シーンを反映してきていると思います。また、中野区の成人式が行われることでも有名です。施設内には結婚式場やレストラン、ホテル、宴会場も併設され、地元の方々も身近に利用されています。皆さん愛着を持ってくださっていますし、地元の方がいないと成り立たない施設ですね。
川合:今回の音楽祭にご出演いただいたアーティストの中にも、中野サンプラザで成人式をした方が何人かいました。エンターテインメントだけではなく、地元とかなり密接した施設ですよね。
五箇:この中野という街に、さまざまなカルチャーを受け入れられる土壌や雑多なものが共存できるカオス的な雰囲気があるのは、全国勤労青少年会館があったからだと思います。全国から東京に出てきて、働こうと思った人がまずこの施設を訪れたり、付近に住んだりする。さらに音楽好きな人もホールを目的にやって来る。中野はそんな来訪機能を持つ施設が駅前にあったからこそ、多様な人を呼び込めて、街自体やそこで暮らす人たちと共に音楽やサブカルなどのさまざまな文化がふくらんでいった気がしますね。
「これからの中野」を考え、まちづくりの目線から始まった企画
北川:そんな中野サンプラザという、多くの方から愛着を持たれている施設の最後のイベントとして「さよなら中野サンプラザ音楽祭」が実施されました。今回の音楽祭の発起人である川合さんに、立ち上げの経緯や企画の意図について語っていただきたいと思います。
川合:今、駅前の大規模再開発が進んでいますが、中野の象徴である「中野サンプラザ」は、50年もの間愛されてきたがゆえに、解体を惜しむ声も多くあがっていました。そのリニューアルという出来事を施設内外・街全体を含め、どのように設計するか。未来も見据えて、どのようなサンプラザのフィナーレを飾るべきなのか、その課題解決が求められていました。
われわれは、アリーナ事業、ベニュー開発に取り組んでいます。集客施設を、メディアのように幅広いコンテンツを擁した存在にすることで顧客の体験価値を上げることができれば、ベニューの価値、街の価値が上がり、そこでのライブコンテンツの価値も上がる。実は、中野という街や中野サンプラザは、既に、そのポテンシャルを持っている場所ではないかと思っていました。
そうした考えから、社内のさまざまなセクションに協力依頼をして、総合的な知見を持つチームを組み、まずは未来の「中野」のまちづくりについて考えていきました。過去50年間の中野の歴史とこれから先の50年を考えて、中野の街がどうあるべきか、「(仮称)NAKANOサンプラザシティ」(※「NAKANO」表記は2029年に開設する新施設を指す。以下同様)を建設される五箇さんたちと相談していました。そこから、7月に一つの区切りを迎える「中野サンプラザ」の“あるべき最後の姿”って何だろうと考えました。
未来の中野の「誇り」へつなげるために、地元の一体化が必要だった
川合:サンプラザは、街とアーティスト、ファンの三方に愛された中野のアイコンです。今、話に上がったように、この施設には愛着をもって支えてきた方がたくさんいます。何をするにしても、その方たちが同じテーマで、できれば長期間、一体となって行えることが重要でした。
ただ終わるのではなく、地元が一体となり、アーティストも観客も街の人々も一緒になったフィナーレをつくり出すこと。それが再開発後の未来の中野の「誇り」へとつながるはずです。それでこの「さよなら中野サンプラザ音楽祭」という、三方の人々が施設に別れを告げ、未来をも見据えたブランド価値を発現させるような大型イベントを思いついて。まずはぶつけてみよう!くらいの気持ちで(笑)、五箇さんとご一緒に、渡邊さんにご相談をさせていただきました。
渡邊:最初に企画を聞いたときは、とんでもない提案だと思って、ほぼ門前払い状態でしたね。「申し訳ないが帰ってください」と(笑)。でも今思うと、心のどこかでそれができたら面白いかも、と感じていた部分はあったのかもしれません。200人以上のアーティストを呼んだり、長期間の街全体を巻き込んだりしての大々的なPRがもし本当にできるなら、中野サンプラザの最後にふさわしいものになるし、何より話題にもなるだろうし、面白いよねと。
川合:誰もしたことのない形の取り組みでしたので、企画を考えた当初は、僕たち自身の中で実現できる可能性は40%くらいの感覚だったんです。ただ、渡邊さんや五箇さん、サンプラザに関わる方がポジティブな反応を見せてくださるうちに、だんだんその可能性が上がっていって、チームのみんなと一緒に実施に踏み切りました。
この施設をずっと運営されてきたのは(株)中野サンプラザのみなさんです。そこに、このホールが終了することが決まっている中で突然現れた僕らが「最後だから街と協力した未来に向かうような音楽イベントをやりましょう」と提案しても、受け入れていただくのが難しいことは分かっていました。
それでも、この音楽祭の実現のためには、ただ会場を借りるだけではなくて、一番に近くで支えてこられた(株)中野サンプラザの皆さんと“一緒に”やっていくことが重要なポイントでした。アーティストだけでも、もちろん僕らだけでも成り立たない企画ですから、渡邊さんが、周りの方々をまとめてくださり、われわれのこともモチベートしてくださったことが実現への大きなキーだったと思っています。
渡邊:お話を聞いた当初は、やはりその言葉と想いが全然刺さらなくて。うちは、通常通り貸館をして、“普段通り”に終えてゆくからいいよ、という構えだったんです。区や街の方たちは閉館を経て再開発される新しい街への期待値が非常に高いけれど、われわれはただ建物がなくなってしまう側の人間。だから、このイベントの意義もすぐにはピンとこなかったんですよね。川合さんがそんな僕らの気持ちに寄り添い続けてくれたのは大きかったです。企画が進むうちに私以外の社員たちもこの音楽祭に協力的になり、自発的にさまざまなアイデアを出してくれるようになっていきました。
渡邊:準備中は「本当にできるのかな」と不安に思うことも多くありましたが、いざ音楽祭がスタートしたらとても楽しめるようになった。この音楽祭のメンバーとは本音で話ができて、嫌なことは嫌だと普通に伝えられました。話をしていく内に「いける」という確信が芽生えてきましたし、当社のスタッフと、とてもいいチームになれたと思います。
紅村:フラットに話ができて、それぞれの役割の中ですぐ動けたところが良かったですよね。いい意見が出たらみんなで積極的に動いていこう、という方向性で一致して議論ができていたと思います。
川合:この座談会には参加していないけれど、さまざまな会社に所属する、多くのチームメンバーが一緒にイベントをつくってくれました。音楽祭の成功という目標にむかって、会社や組織に関係なく、どこか部活の仲間のような雰囲気で、ワンチームで進められたのは良かったですよね。
次回は、中野にある4つの商店街と協力して行われたPRの様子と、エンターテインメントと基点とした、これからのまちづくりの可能性についてお伝えします。