変革のアーキテクトNo.13
旭化成 加藤昭博事業部長に聞く、印刷業界の変革を牽引する大胆なアプローチとは?
2024/07/05
あらゆるバイアスを壊し、自らアーキテクト(全体設計者)として社内の事業変革を遂行しているトップエグゼクティブの方々に話を聞きながら、その神髄に迫る本連載。
今回のゲストは、旭化成 ライフイノベーション事業本部で感光材事業部長を務める加藤昭博氏です。
旭化成 感光材事業部では、フレキソ印刷用の感光性樹脂版や製版装置の製造、販売を長年にわたり行ってきました。そんな中、事業部発足から50年という節目の2023年9月、印刷業界の常識を覆す“ある変革”を打ち出しました。それは、印刷現場から有機溶剤(※)をなくすソリューション「Solvent ZERO」の発信です。
“いのち”と“くらし”を想い続けてきた旭化成だからこそ、働く人や環境を守りたいという信念のもとスタートしたこの「溶剤ゼロプロジェクト」。
前編では「溶剤ゼロプロジェクト」をとりまく環境やプロジェクトが生まれたきっかけについて伺いました。後編では、実現に向けた取り組みや具体的なアプローチ方法について、前編に引き続き、同プロジェクトのパートナーとして伴走する電通の渕暁彦氏がお話を伺います。
前編:旭化成 加藤昭博事業部長に聞く、印刷業界の“当たり前”に変革を起こすヒントとは?
※有機溶剤
ソルベント、トルエンなど他の物質を溶かす性質を持つ有機化合物の総称。
売り上げの9割を占める主力製品を捨てるという選択
渕:私たちから旭化成さん側に「溶剤ゼロプロジェクト」をご提案させていただいた時に、加藤さんはすぐに「やりましょう」と言ってくださいましたが、正直なところ、社内の反応はどうだったのでしょうか?
加藤:「溶剤ゼロプロジェクト」を社内で発表した時は、ほとんどの社員は驚いていましたね。感光材事業部の製品の中でも、溶剤を使うタイプの樹脂版は主力製品で売り上げの9割を占めていました。残りの1割が、溶剤を使わない水現像樹脂版です。ですから、「溶剤ゼロプロジェクト」を実現させるとすると、主力製品の販売をやめるということにつながります。そのため、社内の反応としては「加藤はどうしちゃったんだ」と(笑)。とくに工場などの現場から「本気で言っていますか?」みたいな声もありました。
渕:そうなりますよね。そんな状況の中、どのように取り組みを前進させていったのでしょうか?
加藤:私たち旭化成は「世界の人びとの“いのち”と“くらし”に貢献する」ということをミッションに掲げているのですが、溶剤を使うタイプの樹脂版を販売している限り、作業現場で働いている方々が溶剤を吸ってしまう環境を認めているということになります。私たちにテクノロジーがなければ仕方ないですが、今は水現像樹脂版という開発技術を持っています。そこで、社員たちには、今すぐにやめるということではなく、徐々に切り替えていこうという話をしました。
ただ、私が予想外だったのは、本部長である上司の反応でした。
最初に「溶剤ゼロプロジェクト」について報告したときに、正直、売り上げのことなどいろいろ言われると思って覚悟していたのですが、何の驚きもせずに「そうだよな。早くやりなさい」とだけ言われたんです。
渕:短期的な売り上げよりも、企業としてのパーパスや役割を大切にすることの方が重要だと、本部長はじめ上長の方々は判断されたのでしょうね。
加藤:そうですね。そこからは社内、社外に向けてさまざまなアプローチが始まりました。取引先の印刷会社を回ったり、フレキソ印刷だけでなくグラビア印刷を扱う印刷現場を見学させてもらい、どんな課題を抱えているのかなどをリサーチしたりもしていました。
自社製品のパッケージ変更に挑み、印刷のクオリティを証明
加藤:加えて、私の中で前進したなと実感したのは、自社製品のパッケージもフレキソ印刷化に向けて動き出したことです。
メーカーさんとの商談の際に、フレキソ印刷の良さをいくら訴えても「では、旭化成さんの製品もフレキソ印刷ですか?」って聞かれた時に、「いえ、やっていません」となると説得力がないですよね。でも、実際はフレキソ印刷ではなくグラビア印刷が使われていました。ですから、まずはサランラップ🄬などの製品のパッケージをフレキソ印刷に変更できないかと、旭化成ホームプロダクツへ提案をしてみたんです。でも残念ながら最初は全く聞き入れてもらえない日が続きました……。
渕:聞いてもらえない理由とは?
加藤:やったことがないからわからないんですよね。だから、「品質は保証できるのか」と言われてしまう。なので、サランラップ🄬はいったん諦めて、ジップロック🄬をやらせてくださいとお願いしました。そうしたら、旭化成ホームズが運営するヘーベルハウスのショールームで配布するノベルティ用のジップロック🄬のパッケージがあると。旭化成ホームズの社長のOKが出たら、そのパッケージの変更をしてもいいと言われたので、上司と一緒に旭化成ホームズの社長の元に伺ったんです。「印刷の品質を絶対に落とさないので、やらせてください」とお願いしたところ、すぐに許可をいただけたので、まずはジップロック🄬のノベルティ用のパッケージから着手しました。
デザインは電通のクリエーティブの方にお願いして、これまでのジップロック🄬のデザインとは違う、やさしいデザインのパッケージができ上がりました。フレキソ印刷は、手描き調や温かみのある風合いが再現できるという強みを持っているので、野菜のみずみずしさをイラストなどで表現できたのも良かったですね。
渕:社内の皆さんの反応はいかがでしたか?
加藤:評判がとても良く、旭化成ホームプロダクツの方々にもお褒めの言葉をいただきました。「なかなかやるじゃん」と言ってもらえたのは、うれしかったです。この取り組みをきっかけに、新たな仕掛けをしていこうと話が進んでいるところです。ようやく社内もフレキソ印刷化に向けて動き始めた感じです。
「Solvent ZERO」を宣言したことで起こった周囲の変化とは?
渕:2023年の9月には、市場に向けても大きな動きがありましたね。
加藤:感光材事業部発足50年の節目に経営ビジョンとして「Solvent ZERO」を発表し、実現に向けた具体的なロードマップの宣言などを行いました。具体的なところでいうと、2030年までに溶剤現像樹脂版の製造販売を中止するということです。
渕:この宣言には、旭化成さんの覚悟を感じました。まさに事業変革を体現しているなと。
加藤:そうですね。これまで9割を占めていた主力製品を捨てるということですから。でも、旭化成として「生活する人々のQOLを下げるものは製造しない」という思いや「印刷現場の労働環境を変えていきたい」という覚悟を、多くの方々に伝えることができたのかなと感じています。
渕:印刷業界のステークホルダーの方々にも賛同いただけたことで、変化したことなどはありますか?
加藤:そうですね。こちらのスタンスを理解していただいたことで、印刷会社の中には、樹脂版の販売だけでなく、機器のメンテナンスや現場環境の改善に向けたサポートなど、一緒に溶剤ゼロに向けた取り組みを行う“パートナー”という関係性を築き始めた取引先もあります。
渕:やはり、業界全体の構造を変えていこうとなった時に、一緒に実現する仲間や、共感するステークホルダーを巻き込んでいくというのは、ムーブメントを起こすために必要な要素だと感じています。
今回の取り組みでいえば、旭化成さんと印刷会社がタッグを組んで、「印刷現場から溶剤をなくしていこう」「環境を良くしていこう」といった流れをつくることで、印刷を発注するメーカー側にも水現像樹脂版や水性インクが使えるフレキソ印刷を知ってもらうことにもつながりますよね。
加藤:そうですね。私自身、業界自体にそういった新たな動きが起こりはじめているという手ごたえを今、感じているところです。
渕:「Solvent ZERO」を発表した際に制作したアニメーション映像も評判でした。ストーリーは、加藤さんの台湾での原体験エピソードを基にしていますよね。
加藤:そうですね。この映像は、「溶剤ゼロプロジェクト」の活動を知ってもらうために制作しました。アニメーションなので、お子さまと一緒に見てもらったりしながら、多くの方々に興味を持ってもらえたらと思っています。今後は絵本にまとめて、フレキソ印刷の推進にも活用していく予定です。
渕:「溶剤ゼロプロジェクト」の啓発を行う中で、フレキソ印刷は「いのちと暮らしにやさしいブランドのための印刷」というコピーも生まれました。電通チームとしても今後は、メーカーさんの思いを表現する一つの手段としてフレキソ印刷を活用したり、商品の売り方、デザインなどをセットで提案したりしながら、フレキソ印刷を導入してもらう流れをつくっていけたらと思っています。
水現像樹脂版の新製品が続々と誕生。旭化成が見据える未来
渕:この一年でフレキソ印刷にまつわる環境は大きく変化したと思うのですが、加藤さんが見据える今後の展望を教えてください。
加藤:私たちが「Solvent ZERO」を発表したことや、韓国で有機溶剤の規制が強化されたことも影響し、日本国内でも「溶剤ゼロ」という動きはますます加速していくと感じています。この世の中の流れをしっかりとキャッチし、2024年がフレキソ元年と呼ばれる年になるように、さらなるフレキソ印刷の普及拡大につなげていきたいです。そして、それが印刷現場の環境改善や環境負荷の軽減につながると信じています。
また、私たちが開発する水現像樹脂版の製品もどんどんと進化しています。これまでの水現像樹脂版は、工業用の洗剤を使って洗浄し製版をしていたのですが、今年発表した水現像樹脂版は、家庭用の食器用洗剤で現像することが可能になります。さらにその廃液の85%をリサイクルできる装置の開発も実現しました。
現在は開発目標であった、洗剤も使わない水道水だけで現像ができる樹脂版の新製品の発表に向け動いているところです。こうした製品の開発はもちろん、2024年がフレキソ元年だと言われる大きなムーブメントを起こせるように、電通さんと一緒にいろいろと仕掛けていきたいですね。
渕:私たち自身、溶剤ゼロを実現し、環境負荷の軽減ができるフレキソ印刷にはいろいろな可能性があると思っています。旭化成さんが目指す社会の実現に向け、これからも一緒にさまざまな変革をプロデュースできたらうれしいです。