「和を乱すな」と「個性を出せ」のあいだで
教育×クリエイティブで、日本のオリジナルな教育を面白くするために。
コピーライター・アートディレクター・クリエイティブディレクター・マーケターなどが集まって、電通社内に設立した「アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所」。設立10周年を記念して、メンバーそれぞれが教育に関わってきた中での発見や、感じた変化をリレーコラム形式でお届けします。

“たくさんのふつう”から考える多様性
この10年で、「多様性」という言葉はずいぶん身近になった。けれど、私が現場で感じているのは、多様性とは特別な誰かの話ではない、ということだ。もっと身近で、もっとパーソナルなものだ。家族の中にも、学校の中にも、地域の中にもある。そしてもちろん、自分の中にもある。今日は、そんなことを考えるきっかけになった、3つの学校での出来事を書いてみたい。
気がつけば、アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所も10周年だ。10年前、私はこの電通報で、自身が通った6カ国の学校をいろんな切り口から比べるコラムを書いていた。

急に連載が決まり、内容は「おまかせ」。だから、子どものころに経験したいろんな学校での出来事を、あれこれ思い出しながら書いていた。国が違えば、学校も違う。ルールも違えば、先生と生徒の距離感も違う。大事にしていることも違う。俯瞰(ふかん)して見てみると、その違いの裏には必ず思想がある。だから、学校にも教育にも、たった一つの正解なんてない。「どれがベストですか」と聞かれても、それは誰にとってのベストかで変わる。講演や取材などで私はずっとそう話してきた。
この10年、学校や自治体、学会など、いろんな場所で子どもたちや先生、保護者、その他の大人たちと話す中で、何度も同じような問いに出合ってきた。それは、「人と違うことを、どう受け止めればいいのか」という問い。「ふつう」ではない自分を、どう生きればいいのか。そして、学校では「和を乱すな」と言われるのに、社会に出ると「個性を出せ」と言われるのは、いったいどういうことなのか。
はじめて、自分の嫌なところが嫌じゃなくなった日
ある小さな小学校で、6カ国転校生としての経験と「多様性」について子どもたちに話をする機会をいただいた。子どもたちは、本当に目をキラキラさせながら話を聞いていた。私は、自分がいろいろな国の学校に通ってきた経験をもとに、「学校だけを見ても、こんなにいろんな違いがある。だから正解は一つじゃない。全部正解なんだよ」と話した。そして、「みんなも、自分の個性を大事にして、いつか強みに変えていってね」と伝えた。
すると後日、子どもたちからこんな感想が届いた。
「自分の個性は、自分にしかない。だから人と比べなくてもいいんだ」
「全部正解だから、人と違ってもいいんだと思った」
「自分には好きじゃないところがあるけれど、それも大切な個性なんだと思えた」
「人と違うところに自信がなくて隠していたけれど、今度からは隠さず堂々としたい」
正直、かなり驚いた。子どもたちは、こちらが思っている以上に、自分の違いのことを考えているのかもしれない。
あとで先生方のお話を聞いていると、その学校は子どもたちにとってとても居心地のいい場所なのだという。でも、中学や高校に行くと、そこでの「ふつう」は変わってしまうかもしれない。だから今のうちに、「ふつう」は一つではないことを知ってほしかったのだと感じた。
先生たちのその言葉が、ずっと心に残っている。
家族とも、友達とも、自分は少しずつ違う。隣の街に行けば、違う「ふつう」がある。隣の県に行けば、また違う「ふつう」がある。それは世界の学校に違いがあるのと同じように、日本の中にももともとあったものなんだと思う。子どもたちが自分の個性を否定しないためには、まず「たくさんのふつう」があることを知る必要がある。あの学校で私は、その当たり前で大切なことを改めて教えられた。
学校では「和を乱すな」と言われ、社会では「個性を出せ」と言われる
別の機会には、ある高校で話をすることがあった。そこには、いろんなバックグラウンドを持つ生徒たちが通っていた。私は、自分なりのサバイブ方法を話しながら、生徒たちにも同級生の中にあるそれぞれの個性を探してみてもらった。すると、自分では気づいていなかった一面に気づく子もいれば、「そもそも“ふつう”なんてないのかもしれない」と驚く子もいた。
質問の時間に、ある生徒からこんな問いがあった。
「学校では和を乱さないようにと言われるのに、社会に出ると『個性を出しなさい』と言われる。私たちはどうしたらいいのでしょうか」
本当に核心をついた、切実な質問だと思った。
今の子どもたちが抱えている難しさが、その一言にぎゅっと詰まっている気がした。
先生方のお話や、その場でのやりとりから感じたのは、「個性を出すこと」を怖がる生徒は少なくない、ということだった。日本の学校には、みんなのことを考えて行動する文化がある。それ自体は大切なことだ。でも今は、少しでも「ふつう」から外れると、ソーシャルメディアなどでたたかれ、居場所をなくしてしまうと感じている子もいる。
頭では、自分の強みや得意なことを見つけなければいけないとわかっている。社会に出れば個性が求められることも知っている。でも現実には、当たり障りなく過ごすことが、高校生活を生き抜くいちばん安全な方法になってしまっている。そんな中で、「個性を出す」どころか、「個性を見つける」タイミングさえ持ちにくいのだ。
私はここに、今の日本の大きなねじれがある気がしている。
大事なのは、「個性」と「調和」を対立させないことではないか。多様な人がいる中で、自分の個性をどう他者と響き合わせていくのか。日本では、その視点が特に大事なんだと思う。
個性は、自分勝手になることではない。
むしろ、強みに変わった個性こそが、和に貢献し、結果としてみんなを前に進める力になる。私はどうしてもそう思ってしまう。
ロールモデルがいない。だから、自分には無理だと思ってしまう
また別の高校では、こんな声にも出合った。私から見ると、司会が抜群にうまい子もいるし、驚くような特技を持っている子もいる。好きなことを話し始めたら止まらないくらい、深い知識を持っている子もたくさんいる。でも、みんなどこか自信がない。
話を聞いていくと、生徒たちの目には「成功している人」はこう映っていた。それは、夢を持ち、それに向かって努力し、失敗せずに前へ進んでいく人たちだ。そんな人たちにはロールモデルがいて、自分たちにはそれがいない。だから、自分たちには無理なんだ、と思い込んでしまっているようだった。
でも、本当にそうだろうか。
実際には、成功している人ほど多くの失敗や苦しみを経験している。出発点も一つではない。順風満帆に見える人にも、見えないところで迷いや遠回りがある。
体育館で少しうつむきがちな生徒たちを前に、私はこう話した。
「私はかなりの人見知りで、引っ込み思案だ」
すると、顔を少し上げる生徒が、ちらほら見えた。さらに、その“欠点”だと思っていたものが、見方を変えれば長所にもなり得ると話すと、もう少し表情が変わった気がした。
「私にもできるかもしれない」
そんな小さな光が差したのかもしれない。
世の中がどんどん変わり、多様化が進む中で、自分にぴったり重なるロールモデルを見つけることの方が難しくなっている。むしろ今は、ロールモデルがいないことの方が「ふつう」なのかもしれない。
ロールモデルは一人でなくていい。いろんな人の中から、自分に響くところだけを少しずつもらえばいい。誰かのようになる必要なんてない。自分のオリジナルでいいんだと思う。
「たくさんのふつう」がある社会で、個性は育っていく
この10年で、私はたくさんの学校で、たくさんの子どもたちや先生、大人たちと出会ってきた。その中で感じるのは、「答えのないものにどう向き合うか」という問いは今も変わらないけれど、その問いの形は少し変わってきたのかもしれない、ということだ。
今問われているのは、たくさんの「ふつう」がある中で、自分の個性をどう見つけるか、どう育てるか、そしてそれを他者とどう響き合わせていくか、ということなのだと思う。
ここまで学校の話を書いてきたけれど、これは学校だけの話ではない。私は企業でも同じ話をしているし、そこで聞く悩みも驚くほどよく似ている。組織でも、地域でも、企業でも、人が集まる場所には必ず「ふつう」があり、その中で「個性」と「調和」の両方が問われるからだ。
これから日本で大事になるのは、「個性」と「調和」をどう両立させるか、なのかもしれない。
「調和」があるから、個性が安心して育つ。
「個性」があるから、調和はもっと豊かになる。
そんな循環が少しずつ育っていったら、10年後、私たちは今よりもっと自由に、自分の違いを強みに変えていける社会に近づいているのかもしれない。
その変化の入り口は、案外、身近な「ふつう」の違いに気づくことから始まるのだと思う。
10周年を迎えた今、次の10年が少し楽しみになっている。

アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所ウェブサイト
https://www.konnano-dodaro.jp/
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著者

キリーロバ ナージャ
株式会社電通
第7マーケティング局
クリエーティブ・ディレクター
ソ連・レニングラード(当時)生まれ。6カ国で育つ。電通入社後は、さまざまな領域に取り組むクリエイティブとして活動し、国内外のプロジェクトを幅広く担当。受賞歴多数。アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所メンバー。



