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デジタルの旬No.20

ポスト・インターネットとは?
──ネット化が生み出した現代アートの最前線~メディア・アーティスト・谷口暁彦氏

2015/09/21

デジタルの旬

現代アートやデザインの世界で、「ポスト・インターネット」という言葉が注目されている。インターネットがもはや日常化してネットと現実空間がシームレスな環境になる中で、人々の知覚はどのように変容しているのか。そのことをアーティストたちが芸術作品の形で真正面から考えていこうとしている。今回は、そのようなポスト・インターネットの動きの中で注目されるアーティストであり、またその歴史や作品の流れにも詳しい谷口暁彦氏に語ってもらった。
(聞き手: 電通デジタル・ビジネス局計画推進部長 小野裕三)


身体化したインターネットが、現実の世界に飛び出してきた

──デジタルやインターネットとの出合いとはどのようなものでしたか。

谷口:原体験があります。僕の姉がパソコン通信をやっていて、それで僕も中学生くらいの時、インターネットを初めて体験しました。その時に見たのが、ニューヨークから届くライブカメラの映像でした。埼玉の実家から、遠く離れたニューヨークの街並みやそこで多くの人が暮らしているのが見えた瞬間の感覚を、今でも強烈に覚えています。

──谷口さんの作品には、「滲み出る板」というタイトルの個展など、iPhone やiPadを使ったものが多くあります。インターネットの歴史においては他にもターニングポイントがあったと思いますが、これらのデバイスが登場したインパクトは特に大きいと受け止めているのでしょうか。

谷口:そうですね、iPadなどのデバイスの登場には強いリアリティーを感じました。コンピューターの身体性という点で考えると、昔インターネットをしていたころはブラウン管の巨大なディスプレイで、ダイヤルアップというイニシエーションを通じて別世界に入っていくというような身体性でした。大きな潜水艦の窓から向こうの世界をのぞく感覚ですね。それが今では、常時接続された小さなデバイスがポケットに入っていて、寝転びながらインターネットができる。別世界だったものが、日常と地続きで、ポケットに入っているという関係性に変わり、身体との関係性が直接的になりました。これはパソコンの前で椅子に座ってインターネットをしていた時代とは全く違います。

さらに、インターフェースにおいても、アップルがMacのOS X Lion以降、デフォルトのスライダーの方向を逆にしました。このことは比喩的に言えば、それまではいわば「窓枠」を動かして、窓の外側にある書類を覗く動きだったものが、書類に直接触れてそれを動かすようになったということです。これはPCのインターフェースでの変化ではありますが、iPadやiPhone以降の知覚の変化と連動しているのだと思います。つまりディスプレイの向こう側、あるいは、インターネットがより手前にあるという関係になってきたわけです。 このように、抽象的で非物質的だったインターネットがデバイスを伴って身体化して、現実の世界に存在し、そのへんに転がっているという状況が生まれたことで、それを空間に配置してアート作品をつくれる環境が出来てきたと思います。

谷口暁彦氏 作品
展覧会「滲み出る板」
谷口暁彦氏
展覧会「思い過ごすものたち」(撮影:高尾俊介)

──ご自身の作品ではグーグルのストリートビューを使ったものもありますが、他にもグーグルを素材にしている作家は多くいます。ストリートビューに映った偶然の不思議な光景を写真のように発表するジョン・ラフマンや、グーグルマップのピンを現実に作るアラム・バートール、日本ではグーグルの画面を巨大な壁画にしたエキソニモ(千房けん輔氏と赤岩やえ氏によるネットアートのユニット)や、ストリートビューの映像から映画を作った田村友一郎氏などが特徴的な例です。そのようにグーグルというのはやはり特別な意味性を持っているのでしょうか。

谷口:かつてはすごく強かったと思います。昔はウェブサイトを見る時にホームページという概念があり、それが全てグーグルで、つまりインターネットの入り口として神格化されていたと思います。ただし今ではブラウザから直接検索できる場合が多くなって、そうした入り口感は弱まったと思いますが。

その後、グーグル自体が、ウェブサイトを検索するだけでなくさまざまな世界に飛び出していって、特にストリートビューでは現実の世界にまでそのデータ化、インデックス化が及んでいます。かつてのインターネット上の文化には現実とは異なるオルタナティブな世界を開拓するというハッカー精神やアクティビズムに結びつくような思想があったと思うのですが、それはストリートビューで完全につぶされたと思います。オルタナティブな空間だったところに、現実の全てが詰め込まれ、現実の延長になってしまった。しかもGPSとひも付いて、インターネットの中から今自分がどこにいるかを教えてくれるわけで、現実とインターネットの層が同期してしまっています。

この出来事はある種のインターネットを終わらせたというイメージが僕にはあります。 僕の作品の「レンズレスカメラ」は、iPhoneアプリを使ってある地点のストリートビュー上の光景をまるで写真のように撮影できるというものです。まだ誰も撮ったことのない写真やイメージを僕らは撮影しようと思うのだけれども、それはもしかしたらグーグルストリートビュー上にはすでに存在しているかもしれない。それによってある種の写真表現は死んでしまったかもしれないという可能性を問題にした作品です。

──ポスト・インターネットの「ポスト」とは、インターネットが日常的なものになった後の環境、ということを指しています。その環境におけるアートとは何か、という問題意識があるわけですが、そのようにインターネットがデフォルトになった感覚はアートに限ったことではなく、社会全体にもあると思います。

谷口:そう思います。少なくとも国内で一番大きなインパクトとなったのは、やはり東日本大震災だったと思います。あの時に驚いたのは、NHKのニュースで「震災や原発の情報をニコニコ動画やUstreamで発信している」と普通に紹介していたことです。あの瞬間に、テレビを通して、インターネットが日常に必要なインフラに変わったと思います。

──デフォルト化するとともに、インターネットは「チープ」になったという指摘もしていますね。

谷口:インターネットは、イニシエーションを行って入っていく特別な場所から、水道や電気などと同じインフラの一つへと変わりました。作品をつくる際にもこれまではプログラミングが必要など高いハードルがありましたが、自撮りしてSNSに流すというだけでも作品になるという、ある種、チープな表現でも有効性を持つようになってきました。

──イニシエーションだけでなく、ログアウトするという感覚も薄れていますが、そのようなつなぎっ放しという状況は、インターネットに対する生理感覚も変えるのでしょうか。例えば、インターネットとは一見何も関係のない絵画などでもそのことの影響があるのでしょうか。

谷口:そうだと思います。意識しているか、していないかにかかわらず、バックグラウンドに常にインターネットがあって途切れない。例えば、どこかで展示会をやったとして、たとえその場にインターネットがなくてもインターネットがないということを意識しているような、途切れない緊張関係があると思います。また、創作される作品で想定される人間像が、インターネットにつながっている時代の人間像に変わったともいえると思います。さらに、イメージソースとしてネットから検索したものを使ったり、インターネット上のコミュニケーションをテーマにした美術作品もごく当たり前に作られていますよね。

谷口氏
谷口暁彦氏

インターネットが生んだ新しい物質感や時間感覚、そして新しい「美学」

──ICC(NTTが設立した、メディアアートの展示を中心とする文化施設)での座談会で、アーティストたちがGIFとJPEGの質感の違いについて熱心に議論しているのが、とても印象的でした。谷口さんも、GIFアニメには再生ボタンも停止ボタンもなくひたすらループを繰り返しているので「私がそれを見ていなくてもそこに在り続けるだろうというリアリティー」があると指摘しています。そのような、これまでになかった「物質感」がネット上に現れつつあるということでしょうか。

谷口:そうだと思います。インターネットが現実の一レイヤーになった瞬間に、そこで操作可能なものの質感が高まっているということです。その一つがGIFであり、あるいはiPadのような小さなデバイスであって、そのようなものがミニマルな物質感としてあると思います。一方はスクリーンの中の画像フォーマットの話で、一方はデバイスの話ではありますが。

GIFの質感の議論をするきっかけをつくったのがエキソニモで、2011年にウェブ系のクリエーターが集まるあるカンファレンスでGIFとJPEGはどっちが「硬い」かを会場のお客さんに質問したんですね。その時はなんとなくGIFの方が硬いということになったのですが、ウェブ制作の現場においても、GIFとJPEGは担う役割が違い、JPEGはあくまで写真として記録し、現実のものの代替として使われているのに対し、GIFはボタンやアイコンなど、現実には存在せずウェブページの中にだけ存在するマテリアルに使われます。それだけではなくGIFとJPGの圧縮方法の違いによる表面の見え方の違いもありますが、そうした役割の違いも質感の違いに大きく影響しているのでしょう。

普段目にする、インターネット上の情報は、ほとんどが現実にある事物を記録したり写し取ったように存在していますが、その中で、インターネット由来で生成されてきたものがGIFで、インターネットでしか存在し得ない物質性を持っていると思います。GIFの後に勃興したFlashがモバイルデバイスなどの問題などで下火になっているのに対して、GIFでつくっておけば時代がたっても、何の変化もなく動き続ける。アーティストがそのファイルフォーマットに乗ることで、自分の主体の強固な維持が可能になるという感じがします。流通性も高くて、特にTumblr(タンブラー)登場以降にGIFの流通が加速度的に高まった。そうしたGIFで作品をつくるということが2007、8年ごろから盛り上がり始め、そのようなチープなものでも受け入れられるという動きのきっかけになったと思います。

──その座談会では「疑似同期」という話も出ていました。時間の感覚も少し変わってきているのでしょうか。

谷口:濱野智史さん(情報環境研究で注目される若手批評家)が言っていたニコニコ動画の疑似同期の話ですね。投稿コメントなどがデータベースとして蓄積され、別の時間軸で亡霊(ゴースト)のように再生されることで、本当は同じ時間を共有しているわけではない人たちにあたかも同時にそこにいるかのように感じさせるという話ですね。先ほどのグーグルストリートビューの例もそうですが、現実とインターネットとの同期がどんどん強まっていった中で、そうした擬似同期のような仕組みがあり、そこで人間の存在の痕跡が亡霊のように立ち上がるという捉え方が興味深かったですね。

時間という点で言えば、人や出来事が亡霊として蓄積され、RTやリブログで再び掘り返されるわけで、そこに絶対的な時間はないわけですよね。SNSでフォローしているアカウントの数や性質によっても、それぞれが見ている時間がバラバラで、蓄積されたデータに基づいて、それぞれに逐次時間がつくられているような感覚があります。

──ところで、ポスト・インターネットのアートに関しては、「New Aesthetic」(新しい美学)ということを提唱する人もいますが、美意識自体も変わってきているのでしょうか。

谷口:New Aestheticは、イギリスのアーティスト・編集者であるジェームズ・ブライドルが提唱したタームですが、そこでコンピューターの画像解析で認識されないように、荒いドット模様の迷彩が施された戦闘機や、監視カメラに顔認識をさせないメークといったようなものをNew Aestheticの例としてあげています。これらの例はいずれも、僕らの身の周りに、僕らのためではなく、コンピューターの知覚のためにデザインされているものが入ってきているという状況を示しています。新しい自然環境としてのコンピューターやネットワークがあり、そこで僕らのためにデザインされていない、あたかも自然の造形のようなものが、意識的、無意識的にかかわらずコンピューターと人間の共同作業のような形で生まれてきているというのが興味深いです。

──デザインを自動生成していくコンピューテーショナルデザインなどもありますが、関心はありますか。

谷口:メディアアートの歴史の初期からそのような作品は結構ありました。独自のアルゴリズムでプロッターを動かし、グラフィック作品を制作したり、進化論的アルゴリズムを用いてコンピューターの中に新しい生命をつくって、それを利用して作品をつくったり。でもそのほとんどがコンピューターから外に出ることがなかった。それが今また盛り上がっているのは、3Dプリンターなどで現実の空間にアウトプットできるようになってきたからだと思います。僕自身はそうした作品をそれほど制作していませんが、デジタルによるシミュレーションと現実の齟齬や関係性に興味はありますね。

──雑誌『美術手帖』6月号での対談では、彫刻の歴史の中に「非物質化」していく傾向があり、例えば「逐次リアルタイムにシミュレーションされ続け、画面が更新され続けるもの」を彫刻と捉えうる可能性があるのでは、と指摘していますね。

谷口:絵画は瞬時にして一望できますが、彫刻はある一面を見ると別の側面は隠されていて見えません。なので、作品の周囲をぐるっと回ってみないといけないのですが、この絵画と彫刻の違いをコンピューターでの表現に当てはめれば、静止画とリアルタイムなシミュレーションの違いに当てはまると思います。

JPEGなどの静止画の場合は、圧縮されたものが展開されるという一瞬の計算やシミュレーションで一望できますが、逐次画面が変化し続けるようなアルゴリズミックな表現や、FPSゲームのような3D空間を移動する表現では、常に計算やシミュレーションが行われ、瞬間ではその全体を一望できません。こうした計算のもつ時間性の差において、コンピューターを用いた表現の中に彫刻性と絵画性の違いを見ることが出来るのではないかと思っています。つまり、計算している最中の、その計算過程がコンピューターにおける彫刻だという、つかみようのない雲のような問題になってしまうのですが、そこには何か可能性があると思っています。

現実とネットの同期性が高まる中で、そのズレや亀裂を現代アートが模索する

──アートとテクノロジーの関係ということはよく言われる論点ですが、どのように捉えていますか。

谷口:メディアアートの文脈では、新しいテクノロジーを早く取り入れて、表現の可能性を開拓するという役割があると思います。例えば人工衛星やバイオなどのハイテクなものを、アートとして切り開いていくというアプローチです。

ただ、僕自身は技術的に新しいものを用いること自体にはあまり興味がありません。それよりもある程度技術的な面白さが枯れて、種も仕掛けも見えるようになって陳腐化したけど、作品を読み解くとそれ以上のことが起きているというのが面白いと思います。だから、iPadを使った僕の作品も特別なソフトウエアは使わずに地図やメモ帳などデフォルトで入っているアプリでやっていて、でも、とても奇妙なことがそこで起きているというのがいいなと思っています。

──その方が、いわゆる「ポスト・インターネット」という感じではありますね。ネット上だけでの展覧会の試みなども以前から既にありますが、美術作品の展示や所有のされ方も変わっていくのでしょうか。

谷口:変わっていくのだと思います。今は現実とインターネットの関係性の中になんとか展示会場をつくろうとしている傾向がある感じがします。例えば、アーティー・ヴィアカントは実際に展覧会をした記録をインターネット上に上げる時に、すべてPhotoshopで加工して変えてしまうということをやっています。ネットでそれを見た人が、こういう作品があるだろうと思って展覧会場に行っても、そんな作品は存在しない。そうすると現実の展示とインターネット上の記録の主従関係が崩れて、むしろインターネットの方が作品として成立するということになります。

その他に例えば、IDPWというアーティストグループの「ソーシャル麻婆豆腐」という展覧会では、展覧会の会場に行くと作品が何もなく、音声ガイドだけがあり、そこに現実の空間では実現できないような奇妙な作品が存在しているかのような解説が聞ける仕組みになっています。また、UCNVの「Vacant Room」は、会場に行くとやはり作品が一つもなくて、そこで、あるURLにiPhoneでアクセスするとカメラを通して360度、かつてそこに展示されていた作品を見ることができるという仕組みの展覧会でした。

──そのヴィアカントは現代アートの重要な概念として「イメージ・オブジェクト」を提唱しています。物と情報、リアルとバーチャルに関わるキーワードだと思いますが、どのように捉えていますか。

谷口:実体がなく現実との主従関係を持たない、イメージだけで成立するオブジェクト性みたいなもので、先ほどのGIFの話と近いところがあると思います。そういうインターネットの中のオブジェクトのリアリティーの高まりはこれからもあるのでしょう。

でも一方で、そのうちにそうしたものが当たり前になり過ぎてしまって、インターネットをテーマにしたネットアートというジャンルが消え去るタイミングがどこかにあるのかなとも思います。ネットアートやインターネットそのものが陳腐になり、もっとどうでもいいものになる可能性もあります。ただ、震災などの災害がきっかけになって、そうした、当たり前性、陳腐さが根本から問い直されることも、もちろんあるとは思いますが。

──東日本大震災はインターネットとの関係において、一つのターニングポイントになっているということですね。

谷口:生活が便利になるということ、それはテクノロジーやメディアが透明になるということでもあると思うのですが、一方でそれは現実や自然本来が持つ厳しさや抵抗が隠蔽されることでもあり、いわば生活自体がどこかバーチャルになるということですよね。そこで大きな事件や事故が起きることで現実の物質的な抵抗が揺り戻される。震災によってそれを大勢の人が同時に経験したというのは、社会的にインパクトが大きかったと思います。

──そのようなバーチャルとリアルの関係について考える姿勢は、現代のメディアアートにも見られるものだと思います。

谷口:現実とインターネットの同期が強まってきた時に、そこにあるわずかなずれや亀裂を探して提示することは、アーティストの仕事だと捉えています。ある自明なルールや文脈の中から亀裂や隙間を生み出すことは、必然的にアーティストに求められる仕事の一つだと思います。

谷口暁彦氏

人工知能が芸術作品をつくることを、アーティストは喜んでいる?

──アーティストたちがバーチャルとリアルの同期性をずらそうとしているとのことですが、そのような同期性の高まりに課題や弊害を感じているということなのでしょうか。

谷口:そのような同期性には、ある種の危険性も潜んでいるし、一方で便利で楽な部分もあり、ネガティブな面とポジティブな面の両面があると思います。 (哲学者・小説家の東浩紀氏などが提唱する)「民主主義2.0」などで、ソーシャルネットワークでのみんなの発言をビッグデータとしてデータマイニングして全体の政治的傾向を導き出せば選挙は必要なくなるというような話があります。

そのような環境管理型社会の考え方に対して、美術は代替案を提示しなければならない。そういうふうにデータマイニングした結果、すごく無意味なものをつくるとか(笑)。それはある種のテロリズムかもしれませんが、そういう無意味なことに活用するというのは、アーティストの義務だと思っています。

最近読んだ、藤本一勇さんの『情報のマテリアリズム』で書かれていたことなんですが、環境管理型社会は、一人一人の内面や主体性には啓発を行わず、精神を操作しないので、権力を行使される側にとっては優しく、一方、行使する側もコストがかからないので都合がいい。そこで、妙にねじれた利害の一致が起こるわけです。でもそれがどんどん進むと、自身の主体性の自由が知らないうちに奪われてしまうという、ある種の危うさにも繋がりうるわけです。

──そのような、デジタルやネットが潜在的に持つ危険性は避けようがないので、そこから身を離すことを考えなければいけないという主張もあります。

谷口:新しいテクノロジーの誕生は、同時に新しい事故を生み出します。それはどうしようもないことです。ただ、ある程度それをコントロールできる社会になっていかないといけない。そうした中で20世紀のアートというのは、事故やテロリズムとしてのアートという側面が強かったと思います。それによって、なんらかの問題を浮き彫りにするということをやってきた。

でももしかして、震災や9.11の後に考えなければいけないのは、衝撃的な事件や事故ではない、それ以外の美術の役割のことかもしれません。最近は地域参加型のアートイベントが各地で行われていますが、それとも違う形を考えないといけないと思っています。つまり、社会に優しいわけでもないし、テロリズムでもないというようなアートの在り方というか。

──芸術などの創作は、機械よりも人間の得意な分野と思われがちですが、人工知能などが人間に取って代わっていくことについては、アーティストとしてどのように感じていますか。

谷口:大賛成です。アーティストはみんな喜んでいるんじゃないでしょうか。すべてのアーティストがそうであるわけではないですが、アーティストが作品を作る際は、どこかで自分じゃない他者性や偶然性を欲しがっているように思えます。そうして自分の主体が脅かされたいのです。いわゆるシンギュラリティー(技術的特異点。人工知能自身がより賢い人工知能を生み出すようになって人類を超えてしまう時のこと)の話ですよね。いろいろな場面で人間が必要なくなり、どんどん人間性を削って外部化し、操作可能にしていく。そうやって脅かされていく瞬間に、主体性と他者性の間で何が起きるのかに、アーティストは興味があるのだと思います。

シンギュラリティーは、人間しかできないと思われていた領域がどんどんと失われていくわけで、それってデカルトっぽいですよね。デカルトがどこまでが自分で、どこまでが自分じゃないかということを操作してどんどん切り離していったのと一緒です。今まで人間だって思っていたことが、人間じゃないって気付かされ、主体である人間の形が変わっていくわけです。

──人工知能がチェスや将棋で人間に勝ったという話がありますが、それでいうと、人工知能がピカソに勝った(笑)、みたいなことがあり得るんですかね。

谷口:あると思います(笑)。いいんじゃないですか、それはそれで。コンピューターがどんどん絵とか描くようになって、でも“通”の人は、「やっぱ人の方がいいね」とか言ったりして。

それまでは人間だと思っていたことが、人間じゃなくていいんだということに、どんどん気付かされていく。その時に、人間とは何なのかを問い直したり、テクノロジーとの協働作業の在り方を考えたりすることになるのでしょう。誰もがネットワークにつながることで僕らという環境全部が人間だという状況になっていき、もしかしたら人間性というのは関係性でしかなかったということになるのかもしれません。コンピューターと人間は全く別の存在であるように切り離して考えられがちですが、それも緩い境界線と緩い主体性を考える方が面白いのかもしれません。ネットワークにつながった主体ってそういうものだと思います。境界線があいまいで、必要に応じて逐次必要に応じて与えられる主体です。

──SNSが出てきて、人と人の間の境界線が曖昧化する雰囲気が広がってきている感じはありますね。

谷口:今まで人間だと思っていたことが切り離されて、モジュールとしてコンピューターやインターネットの中にあって、それを必要に応じて操作して、付けたり切り離したりする。その主体が人間だということです。デカルトっぽい。「我思う故に我あり」というのは、自身をカスタマイズする主体のことなのかもしれません。人間をどんどん削っていくのがテクノロジーで、それに比例して人間の持つカスタマイズ性が高まっていくということが起こっているのだと思います。

──そのような中でアーティストが先鋭的に自分を外部化していく試みは、将来において人間に残る主体性を先駆けて実験的に調べているという感じもしますね。

谷口:きっと誰もが無自覚にやっていたり、思っていることの自明性を問い直して提示するのがアーティストなんじゃないでしょうか。現実が先行していて、アーティストが後追いで抽出化、モデル化している感じがします。そうして作られた作品が忘れられたころに発見されて、事後的に未来を予言していたかのように見えることはあるかもしれません。僕自身はアーティストをある現象や出来事を分析する研究者のように捉えているのだと思います。