【続】ろーかる・ぐるぐるNo.83
論理なくして、発想なし
2016/05/26
会社の先輩で家もご近所の奥山俊治さんからはありがたいことに季節ごと、秋田の旨いものを頂戴します。先日も「兄貴が山に入って採って来たからさ」と大量の山菜をくださいました。
定番のアイコ、コシアブラ、コゴミ(赤い茎のは珍しいそうで)はもちろん、山のアスパラガスとも呼ばれるヒデコやセリのような苦みが楽しいホンナまで。鮮やかな緑はもちろん、シャキシャキ、ヌルヌルした食感がたまりません。腹の底から元気になる味わい。山菜のない初夏なんて、さみしくて想像もできません。
ところでこのコラムのように「アイデア」や「発想」について書いていると、ついつい「論理的思考」を敵のように扱ってしまいがちです。実際、入社して10余年が過ぎたある日、『方法序説』(正しくは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話[序説]。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』の最初の78ページ部分だそうですが・笑)を読んで、神学が支配していた当時の学問に対するデカルトのいら立ちはよく理解できたものの、「あぁ、あんたのせいで、この世の中はずいぶん退屈になりましたよ!!」なんて思いました。
ちなみに、論理的思考の礎となったデカルトの方法論はこんな感じです。
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第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく即断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、段階を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
(岩波文庫「方法序説」デカルト著・谷川多佳子訳、28・29ページ岩波文庫版より抜粋)
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とっても「正しい」ですが、どこか冷たくて批評家みたいですよね。「この世に疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰なものなんて、ないだろ!」なんてツッコミも入れたくなります。とはいえ、アイデアやコンセプトの発想に「論理」が不要かと言えば、そうでもないのです。
イノベーションを起こすためにふたつの相互作用が必要です。一つは「ターゲット」と「商品・サービス」間の行ったり、来たり。ターゲットの気持ちを変えて商品・サービスに結び付けるため、人間のホンネに向き合う生々しくて感覚的な取り組みになります。
そしてもう一つが組織や個人の「ビジョン」と「具体策(現実)」の間の行ったり、来たり。コンセプトは単なる「思いつき」ではなく、「ビジョンの実現に向けて課題を解決する」ものでなければなりません。手に入れた「新しい視点」がきちんと機能するかどうかチェックするために「論理」が必要になります。
前著『アイデアの教科書』やこのコラムではいままで、「思いつき」を整理するためのフレームとしてこの縦四つの箱だけを使ってきました。しかし今回『コンセプトのつくり方』を書くにあたって、コンセプト(アイデア)創造プロセスの全体像を一枚絵で説明するために、横四つの箱までを含む「十字フレーム」に進化させてみました。これが示す通り、発想には自由奔放な考え散らかしだけでなく、冷静で客観的な論理も欠かせないのです。
山菜の感動にせよ、コンセプトづくりの体感にせよ、身体的な経験をお伝えするのはなかなか難しいものです。これからも少しずつ工夫を加えて参りますので、よろしくお付き合いください。
どうぞ、召し上がれ!