チームワークと圧倒的熱量の勝利
企画展に際して、「思いつく」ということを掘り下げていけばいくほど、優れたアイデアは「思考の普遍性」と「特異な熱量」の狭間に存在しているということに気づかされた。
「くっつけてみた」を使った広告事例なんて、電通報の読者の皆さんならあっという間に10個くらい頭に浮かぶだろう。
ジェームズ・W・ヤングが「アイデアは既存要素の新しい組み合わせ」とも言っているが、ベースにある思考はそれほど普遍的なのだ。でも、誰も『うんこ漢字ドリル』をつくらなかった。
「うんこ」のことを10年以上考え続けた古屋さんの偏愛と執念。
教育にエンタメを入れられないかとずっと考えていた山本社長のビジネス的視点。
使いやすくてワクワクするドリルをつくろうと努力を惜しまなかった小寺さんのデザイン力。
そんな特異な開発メンバーの圧倒的熱量とチームワークがあったから、『うんこ漢字ドリル』は生まれたのである。
>> 次回(第3回)は、テーマその2「かくしてみた」を紹介します。
アドミュージアムの展示にもある江戸の広告事例を基に、江戸の「くっつけてみた」の事例をお届けする。
歌舞伎は広告劇?!
歌舞伎で吉原遊郭と商品をくっつけた!
「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」は劇中に実在の商品名が次々登場する宣伝広告満載の歌舞伎である。新吉原の妓楼「三浦屋」を舞台に山川白酒、福山うどん、妙薬・袖の梅などをタイアップ。今日でいうプロダクトプレースメントだ。
この「助六劇」は主人公「助六」と恋人の遊女「揚巻」を中心にした仇討物の芝居。舞台は実在した新吉原の妓楼「三浦屋」。
芝居全体が吉原の広告となっている。ヒロイン揚巻の登場シーンでは酔い覚ましの薬「袖の梅」を飲みながら花道を練り歩く。助六の兄役は山川白酒売り、奇抜な奴さんは朝顔煎餅、出前持ちは福山うどんなど、次々と実在する商品名が登場。「助六」の大人気に乗じてこれらの商品にも大いに客が集まった。
この時代の歌舞伎は遊郭・吉原に並び2大悪所といわれたが、流行の発信源でもあった。大衆娯楽として人気絶大、江戸の花形娯楽である。庶民にとって歌舞伎役者たちはスーパースター、その衣装やセリフから流行が生まれた。
日本橋界隈には中村座、市村座などの大きな芝居小屋が並び、早朝から日の暮れるまで芝居を楽しんだ。人気の演目や役者たちの錦絵は絵草子屋などで売られ、町娘から江戸城の大奥にまでもてはやされる大衆アートであった。また錦絵は江戸名物として旅人や武士・大名たちの土産ものとしても全国に広まっていく。
メディアである歌舞伎で企業タイアップ
しかし歌舞伎の演目の全てに広告があったわけではない。
二代目市川団十郎(1688-1758)の創作自演したいくつかが広告劇として顕著な事例となる。松宮三郎著『歌舞伎と広告』によると団十郎が最初に広告として創作したのは呉服商を題材とした「寿の字越後屋」(1715年)。
2番手は「外郎売り」(1718年)は小田原・虎屋の漢方薬「ういろう」の薬売りの芝居。団十郎の流暢で雄弁な長ぜりふは観客を魅了し大評判となる。のちの時代に「助六」と並び市川家の歌舞伎十八番の一つとなった。
二代目団十郎は初代の父を早く亡くしたこともあり、市川家の芸を確立し権威化することに熱心であった。そのブランド戦略の一つはメディアを活用したことである。
歌舞伎そのものが影響力のあるメディアといえたが、劇中に企業タイアップという発想を取り入れたり、「外郎売り」などのセリフ本を出版したり、さらにスポンサーが団体客を招待するなど劇場側にとっても収益アップにつながった。
やがて「助六」公演時には吉原や魚河岸が小道具や贈り物をするという、役者とひいきとの新しい関係づくりにもなった。
このように千両役者・団十郎人気はメディアを巧みに動かし、その地位もゆるぎないものになっていくのである。
◆アドミュージアム東京
江戸期からの広告の歴史展示と広告・マーケティングの専門ライブラリーを備えた、世界に類のない広告専門ミュージアム。
総合的にメディアを網羅した広告の歴史資料30万点、専門図書は約27,000冊を所蔵。ライブラリーでは書籍と広告作品のデジタルアーカイブも検索・閲覧出来ます。このミュージアムは広告の社会性や文化的価値を学ぶ場であり、人の心を動かすアイデアの宝庫。 “広告はやっぱり面白い”と実感してください。
アドミュージアム東京へ、ようこそ。